2014/03/03 近鉄山田線・松ケ崎駅から松浦武四郎記念館までの『伊勢街道・三雲管内』を散策してきました。
<ハイキングコース>近鉄・松ケ崎駅・・・舟木家長屋門・・・市場庄の街並・・・中道公会所・・・月本追分・・・松浦武四郎生誕地・・・松浦武四郎記念館・・・近鉄・伊勢中川駅
▼近鉄松ケ崎駅
▼舟木家の長屋門
舟木家は、南北朝時代から続く家柄で江戸時代には久米村惣庄屋、津藩無足人となり、その後紀州藩主より「津領地士(郷士)」としてお目見を許されるまでになっています。 舟木家の格式を示す長屋門は、屋敷の南側に位置しています。この長屋門は、寛政6年(1794年)に建築され、天保5年(1834年)に改修されました。
▼伊勢街道・久米町の街並
▼市場庄町の街並
▼市場庄公会所
▼「忘れ井」の道標 ▼市場庄町の街並
▼三渡川 ▼常夜燈(三渡川の橋の右側)
文政元年(1818年献納)
▼常夜燈 ▼小津の一里塚跡の碑
▼中道公会所 ▼道標・常夜燈・山の神
第61回式年遷宮を記念して地元の人が建てました。
▼月本追分・・・伊勢街道と奈良街道の分岐点
▼松浦武四郎の生家
松浦武四郎は、文化15年(1818年)2月6日伊勢国一志郡須川村(現在の松阪市小野江町)で生まれました。父は松浦圭介、母は中村喜右衛門の娘とくで、圭介は和歌山藩(紀伊徳川家)の地士(郷士)を努めていました。生家の前が、伊勢神宮に向かう伊勢街道です。
▼真覚寺・・・「松浦武四郎」が7歳から、家のすぐ近くにある曹洞宗の真学寺(現在は、真覚寺)の寺小屋に通い、住職の来応和尚から読み書きを学んだところです。
▼小野江常夜燈・・・雲出川橋詰めの道路東側の堤防上にあります。その昔雲出川には橋がなく人や馬は、渡し船などで往来していた当時の旅人の安全を願って、寛政12年(1800年)に奉納されたものです。
常夜燈は,仏教とともに伝来した石灯籠の一つで、闇夜を照らすことから常夜燈といわれ、道中の安全を守る役割も持っていました。石に大きく刻まれている常夜燈には、常に心の不浄を焼き払い家内安全を祈るもので神仏に帰依するために献燈することを意味します。常夜燈の奉献については、建立する土地と献燈用の油代を賄う田を寄進し、地元で管理してきました。この常夜燈は、当時の伊勢信仰を物語る大切な文化遺産です。{*常夜燈の内容の一部抜粋}
▼松浦武四郎記念館
◆松浦武四郎 (1818年~1888年)
文化15年(1818年),伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)にて、和歌山藩(紀伊徳川家)の地士(郷士)・松浦圭介の四男として生まれる。幕末から、明治維新という日本の歴史の大きな転換期。28歳から42歳の成壮年期に武四郎は大きな探究心を携えて、旅行家、冒険家、作家、学者と類まれな多彩な才能を発揮し、蝦夷地を6度にわたって踏査し、詳細な内陸地図(東西蝦夷山川地理取調図)を完成させた。明治2年(1869年),戊辰戦争が終り、開拓使が設置されると、武四郎はこれまでの実績をもとに「開拓判官」に任命されます。「蝦夷地に替わる新しい名称を考えるようになり、「北加伊道」など6つの案を政府に提出し、この案をもとに「北海道」と名付けられた。その他、北海道の地名の多くが武四郎によって名づけられました。また、武四郎が、場所請負商人の排除を訴える中で、江戸時代に場所請負制度によって利益を得てきた商人たちは、このままでは自分たちの利益を失ってしまうことに黙ってはいませんでした。だが、鍋島直正(👉佐賀藩主)の後任である開発長官・東久世通禧に代わると長官は、役所に出ず、自宅で商人と密会し、賄賂を貰うといったありさまでした。当時,開拓判官は長官(東久世通禧👉公家)、次官(島義勇👉佐賀藩士)で開拓長官・東久世と衝突し、明治3年(1870年)1月19日解任された(のち佐賀で江藤新平と共に佐賀の乱を起こす)に次ぐ政府の高等官(勅任官)であり、月給は二百円(現在の時価で二百万円に相当する)でした。また、武四郎は、これまでの功績から「従五位」に叙せられていましたが、開拓使を辞職する際に「従五位」を返上しました。地位や名誉ではなく自分の信念を貫くことと、何よりも不正を許さなかった姿勢に武四郎の正義感の強さと、人間性が感じられます。まさに婆沙羅開拓判官でした。北海道開拓の歴史というと、近代化に向けて華華しく発展していく様子に目がいきますが、その裏側には政府の政策によって古くから住んでいた土地を失い、独自の文化を否定され、民族の尊厳を傷つけられていったアイヌの人々の辛苦がありました。武四郎は、大きな政治の流れの中で、自分ひとりの力ではどうすることもできなかったことは無念であり、何よりもアイヌの人々に申し訳ない気持ちでいっぱいであったのだろうと思われます。その後、武四郎は骨董品の収集を趣味としながら、再び全国各地をめぐり歩きました。晩年には、三重県と奈良県にまたがる大台ケ原に3度も登り、地元の人々が利用しやすいように,自費で登山道の整備、山小屋の建設などを行いました。明治21年(1888年)2月10日,東京の神田五軒町の自宅にて71歳で死去。明治政府は、武四郎が開拓判官を辞職する時に返上した「従五位」という位を、今までの功績から再び武四郎に送ることを決めました。なお、生地の三重県松阪市小野江町の「松浦武四郎記念館」には、武四郎の多くの業績・資料等が収蔵されています。
*「北加伊道」に込められた思い「アイヌの民族の大地」という意味の「北海道」
「加伊(カイ)」とはアイヌ語で、この国に生まれた者」という意味。アイヌへの敬愛を忘れなかった武四郎は、「北のこの土地に生まれし者(アイヌ)の土地」という意味を込めて「北加伊道」という名を提案した。
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▼第19回武四郎まつり・・・北海道の名付け親「松浦武四郎」を称える祭りです。
松浦武四郎記念館
三重県松阪市小野江町383番地
第19回武四郎まつりが、平成26年2月23日(日曜日)松浦武四郎記念館で、開催されました。
2014/02/23 訪問