nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

洲本城

2017年07月18日 | 兵庫県の城郭・環濠

 三熊山(標高約133m)に初めて城が築かれたのは室町時代後期の大永6年(1526年)で、紀州熊野水軍の一族である安宅治興が土塁や柵等で造った土の城であった。本能寺の変後の天正11年(1582年)、羽柴秀吉配下の武将仙谷秀久が城主となり、四国攻めの前進基地・水軍の城として石垣の城が築き始められました。天正13年(1585年)には同じく秀吉配下の武将の脇坂安治が城主となり、文禄・慶長の役の時期を含む、慶長14年(1609年)までの24年間の在城中、現在見られる洲本城が築かれ、大阪城や大阪湾、紀淡海峡を防衛する大阪城の出城としての役割を担いました。慶長15年(1610年)、池田輝政の三男、池田忠雄が淡路国を領有するが池田忠雄は由良城を新築し、洲本城へは入らず。元和元年(1615年)5月、大阪夏の陣で豊臣氏滅亡。池田忠雄は、備前岡山へ転付。阿波徳島城主の蜂須賀賀至鎮が淡路国を加増される。寛永8年(1631年)徳島藩(蜂須賀氏)の家老・稲田氏が洲本城城代になる。その後明治維新まで稲田氏が城代を務めた。明治5年(1872年)廃城令で洲本城が廃城となる。昭和3年(1928年)三熊山上に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して市民の寄付により鉄筋コンクリート製の模擬天守が建築された。そして平成11年(1999年)洲本城は国の史跡に指定された。

[所在地:兵庫県洲本市小路谷(三熊山)]

<アクセス>洲本バスセンターから徒歩約40分

                 車で、洲本ICより約20分

洲本城の概略図

大手門手前        大手門跡

馬屋(月見台)

 

南の丸南東隅櫓跡の石垣       ▼搦手口

 

本丸北の虎口       ▼本丸搦手と模擬天守

 

模擬天守         ▼本丸跡

 

本丸からの眺め

本丸南の虎口       ▼本丸搦手虎口

 

2017/07/08 訪城

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細川尚春、 三好長輝に滅ばされる   永正16年(1519年)

 淡路守護細川尚春、阿波細川氏(澄元)の被官で阿波の国人領主三好長輝に滅ばされる。三好長輝は、澄元の幕府管領就任に尽力し、淡路の実権を掌握して支配する。

三好長慶、淡路で挙兵   天文8年(1539年) 

 弟の安宅冬康を由良城において由良、洲本を拠点に三好水軍を組織。入京し主筋の細川氏(春元)を近江に追放(1550年)。のち足利義藤(のち改名し義輝)を将軍として京都に迎い入れる。

脇坂安治、洲本城主となる  天正9年(1581年)

 織田方の武将羽柴秀吉、淡路の三好氏(清康)を攻め滅ぼし、洲本城は羽柴秀吉の武将仙石秀久に預けられる。天正13年(1585年)脇坂安治が洲本城主(3万石)として入部。

庚午事変(稲田騒動)   明治3年(1870年)

 明治維新後の扱いに不服を申し立てた徳島藩洲本城代家老稲田家に対して、一部の徳島藩蜂須賀家臣が腹を立て屋敷を襲撃、政府は蜂須賀家側に刑法上最後となる切腹処分を下した。同年が干支で庚午(かのえうま、こうご)であったことから庚午事変と呼ばれる。



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