元亀元年(1570年)、織田信包が津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた伊勢上野城は、上野の町なみを見下ろす標高30mの台地を利用した平山城です。台地の東側は険しい崖の上にあり、他の三方は谷に囲まれ、敵を防ぎやすい地形ですが、さらに、城の周りを深く掘りその土を盛り上げて、土塁が造られていた。伊勢上野城の規模は、東西約230m、南北約120mの規模で、本丸は約80m四方の高台で、東側に二の丸が置かれ、その東側には幅約20mの空堀が造られていました。
天正8年(1580年)、津城の完成により、織田信包が居城を津城(安濃津城)に移したため、分部光嘉が城代となり、文禄3年(1594年)に織田信包が近江へ改易になると、分部光嘉が城主に任じられて独立した1万石の城となった。その後、慶長5年(1600年)の関ケ原の前哨戦では、津城主富田知信と共に徳川家康に組して、石田三成の毛利秀元と戦い、その恩賞で2万石の大名になった。慶長6年(1601年)、分部光信(分部光嘉の孫)が城主になり、元和5年(1619年)、分部光信の代に近江国大溝城(滋賀県高島市)へ転封となったため、伊勢上野城は廃城となり、その後この地は紀州領になった。
【所在地:三重県津市河芸町上野】
<アクセス>近鉄名古屋線・豊津上野駅から徒歩約15分。
▼伊勢上野城付近の概略図
▼現在の伊勢上野城跡
▼伊勢上野城の縄張り
▼本丸へ ▼本丸
▼本丸 ▼二の丸
後ろの建物が展望台。
2階資料室は毎週日曜日10時~15時まで開館。
▼空堀 ▼城への登り口
2019/02/02 訪城
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安濃津城の戦 慶長5年(1600年)
石田三成が挙兵。大坂方の毛利秀元の約30000騎の大軍で伊勢侵攻。富田知信、分部光嘉が2000騎で、津城(安濃津城)で籠城戦。木食上人のすすめで富田知信が開城。