滝川氏城は、天正9年(1581年)、織田信長が伊賀に攻め入った「天正伊賀の乱」の際に北畠(織田)信雄の家臣、滝川三郎兵衛雄利(滝川一益の娘婿)が築いた城郭(平山城)です。伊賀特有の単郭式で四方に土塁と堀を巡らしています。郭内は、約70m四方です。この種の城では三重県下最大規模で、兵の駐屯地と考えられます。道を挟んだ南側には、北畠(織田)信雄の陣屋といわれる桜町中将館があり、天正12年(1584年)に豊臣秀吉に追われるまで、南伊賀支配の拠点となりました。現在、城址は、地区のグランドになっており、周囲は土塁と空堀が残っています。
[所在地:三重県名張市下小波田字下出]
<アクセス>近鉄大阪線・美旗駅下車徒歩約25分
▼滝川氏城の概要
▼滝川氏城の縄張り図
▼滝川氏城の土塁
▼滝川氏城の郭内
現在、滝川氏城址は、地区のグランドになっています。
2016/10/16 訪城
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天正伊賀の乱 天正9年(1581年)
天正7年(1579年)、伊賀国の北畠(織田)信雄が、8000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年(1581年)9月27日、織田信長は、45000騎の大軍勢で、伊賀の6つの入り口から一斉に攻め込み、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に惨殺した。最後の拠点、柏原城(滝野城)で約1600騎の土豪が最後まで抵抗したが、10月28日、城主、滝野十郎吉政が筒井順慶に柏原城(滝野城)を明け渡し降伏した。天正9年(1581年)の伊賀再討は伊賀全土が焦土化した。