nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

中世の自由・自治都市『堺』を訪ねて

2014年02月21日 | 文化・歴史散策

2014/02/20  中世の自由・自治都市を散策に行ってきました

ハイキングコ-ス>南海本線・七道駅・・・清学院・・・鉄砲鍛冶屋敷・・・山口家住宅・・・本願寺堺別院・・・妙国寺・・・関口神社・・・与謝野晶子生家・・・千利休屋敷跡・・・南宗寺・・・環濠・・・阪堺電軌阪堺線・宿院駅

 堺の歴史

  中世の時代、堺は日本で唯一の裕福な商人による自治の行われていた自由・自治都市であり、町を守る環濠としての役割を果たした土居川に囲まれていました。堺の繁栄に恐れを覚えた豊臣秀吉は、1586年に環濠を埋める命を下しました。その後、1615年の大阪夏の陣の後、徳川家康によって再び一周り大きく堀り起こされました。1704年に大和川が付け替えられると、土居川の河口に大量の土砂が堆積し、水が流れなくなりました。そのために新たに環濠が掘られましたが、それが今の内川です。環濠の一部は、阪神高速道路の建設に伴い埋め立てられましたが、現在も堺の旧市内を囲んでいます。環濠で囲まれた町は、基盤の目のように整備され、東西南北いずれからも町に出入りできるように多くの橋が架けられ、当時の日本の中でも先進的なインフラが整備されていたことを示しています。 

    

南海七道駅           ▼河口慧海の像(南海七道駅前)

 

清学院(堺市立町屋歴史館)

  江戸時代後期から明治時代初期にかけて寺小屋が開かれていた修験道の寺院。日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海もここで学んでいました。平成14年に国の登録有形文化財に登録されています。

 

鉄砲鍛冶屋敷(堺市指定有形文化財)

  戦国時代の1543年から堺で鉄砲の生産が始まり、日本一の鉄砲生産地でした。わが国で唯一の現存する江戸時代の鉄砲鍛冶工房です

  

山口家住宅(堺市立町屋歴史館)

  江戸時代初期の町屋として、全国的にもきわめて貴重な民家で、昭和41年に国の重要文化財に指定されています。

 

本願寺堺別院

  本願寺堺別院は、蓮如の創建で、文政8年(1825年)に再建された現在の本堂は、堺最大の木造建築です。明治4年から10年間、堺県庁の庁舎として使用されました。堺県は、和泉、河内、大和をあわせた大きな県(現在の大阪府東・南部から奈良県にまたがる地域)でした。

 

妙國寺                  

   妙國寺は、永禄5年(1562年),堺を支配した三好四兄弟の一人、三好実休(義賢)と堺の豪商、油屋常言の息子の日光上人の尽力により創建。天正10年(1582年)6月2日京都で本能寺の変が起こった時、徳川家康は、堺見物で妙國寺に泊っていました。慶応4年(1868年)の堺事件の土佐十一烈士切腹の地でもあります。

                ▼史跡土佐十一烈士墓

 

関口神社 

  神功皇后により創建。旧市街唯一の式内社で海の神様として知られ、住吉大社の奥の院といわれています。明治時代には、本神社境内に、現在の堺市役所、大坂府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校等が置かれたこともありました。

                ▼大阪府立三国丘高等学校発祥之地の碑

 

与謝野晶子生家跡

  女流歌人、与謝野晶子(1878年~1942年)の生家跡。現在は、歌碑と案内板が建てられています。

 

千利休屋敷跡

 16世紀、堺の裕福な町衆に生まれた千利休は、「わび茶」の文化を大成しました。現在の茶道千家の始祖である利休の屋敷跡には、椿の井戸が残されています。

 

南宗寺

  三好長慶が、建立し、大坂夏の陣で焼失した後、元和5年(1619年)沢庵和尚により再建された。千家一門の供養塔、伝説の徳川家康の墓がある。

             環濠

 

環濠              ▼宿院駅

 

 宿院駅からいわゆるチンチン電車で天王寺へ戻りました。

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和泉堺石津浦の戦  暦応元年(1338年)

 南朝方・陸奥守北畠顕家の奥州軍、畿内の足利勢制圧のために上洛し、北朝方・高師直の軍と激戦となる。北畠顕家が堺の石津で討死。陸奥遠征軍壊滅。

応永の乱    応永6年(1399年)

  足利義満の命で5,000騎の大軍を率いて周防から堺に着いた和泉と紀伊の守護職も兼務する大内義弘は、入京せず逆意を表す。大内義弘に呼応した鎌倉公方足利満兼が西上せず、将軍足利義満の幕府軍の30,000騎の攻撃で堺城が陥落。大内義弘討死

堺が自由都市として町衆の自治支配となる 応永26年(1419年)

  堺の南荘が、領主の京都相国寺に対して、730貫の年貢請負をし領主の直接支配を排除した。のち堺の南荘、北荘から選ばれた36人の会合衆によって町の自治が一層強まる。

堺会合衆(町衆)による自治制の終り 永禄12年(1569年)

  堺が三好三人衆を援けるのを織田信長に攻められ、屈服して矢銭2万貫を織田信長に献じる

堺事件  慶応4年(1868年)

  慶応4年(1868年)2月15日午後3時頃、当時は外国に対して開港地となっていなかったにもかかわらず、堺港に、フランス帝国水兵数十名上陸して町内で遊びまわった。夕刻、近隣住民の苦情を受けた堺の警備にあたっていた土佐藩士数十名との間で銃撃戦が起こり、フランス帝国水兵は、11名が死亡し多数が負傷しました。この事件は、国際問題となり、責任を追及された土佐藩士十一名が堺の妙國寺の境内にて切腹しました。彼らは妙國寺の北側にある宝珠院に葬られました。



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