2013/11/23 奈良県高市郡高取町土佐の『高取城まつり』に行ってきました。
<アクセス>近鉄吉野線・壺阪山駅下車すぐ。 土佐街道全域で開催していました。
▼高取城再現図
▼土佐町の由来
大和王権(大和朝廷)の財政が、継体21年(527年)から一年余りにも及ぶ磐井の乱の鎮圧による戦費で財政破綻し、都造りをしていた土佐の人々が、故郷の土佐国に帰れず、この地に住みついてできた町と思われる。
▼時代行列
▼高取藩の大砲(複製品)
▼植村家長屋門(県文化財指定)
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◆植村家政(家存) (1541年~1577年)
旗本先手の将(与力30騎)から家老職に進み、上杉謙信との同盟に力を尽くした三河統一期の功臣。植村氏は、美濃土岐氏の一族で岡崎北本郷に来住し植村を名乗り松平長親から代々従いました。家政(家存)の父は、清康、広忠の殺害者を討ち取りました。天正5年に死去。その子家次が家を継ぐが、信康事件によって、徳川家を離れる。のち、榊原康政の力添えで再出仕する。その後、子孫の植村家政は、寛永14年(1640年)大名に取り立てられ、25,000石で大和高取城へ入城して城主となりました。
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激突! 天誅組 VS 高取藩
文久3年(1863年),天誅組(隊士約100人と十津川郷士約1,000人で兵力約1,100人)は、米提供等の協力を違約した高取藩への攻撃と城奪取を計画。土佐街道を進軍する天誅組に対し、情報を察知していた高取藩側(要所要所に兵を配置、郷民も動員で兵力約2,300人)は、強固な構えでこれを待ち受けた。8月26日早朝、万全の迎撃態勢をとっていた高取藩の攻撃に、天誅組は戦闘開始から僅か約2時間で敗走した。
▼高取藩士の配置表