京都南部の小高い丘に築かれた平山城。豊臣秀吉が天正19年(1591年)に隠居所として築いた屋敷を、文禄3年(1594年)から本格的な平城にし、周りに城下町も整備した。関ヶ原の戦いの前哨戦では、城将の鳥居元忠は壮烈な討ち死にを遂げ、伏見城は灰塵に帰した。その後家康の命により、いったんは再建されているが、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあり、元和5年(1619年)には、廃城が決まり、翌年から城割りがなされ、元和9年(1623年)、廃城となった。本丸一帯は、明治天皇の伏見桃山陵が造営されたことから立ち入りはできないが、城の御花畑山荘跡は、現在、京都市により伏見桃山城公園として整備され、その一角に模擬大手門と模擬天守と小天守が造られています。
[所在地:京都市伏見区古城山]
<アクセス>JR桃山駅下車徒歩約15分
▼模擬大手門
▼模擬小天守(左)と模擬天守(右)
2012/04/08 訪城
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伏見城炎上 慶長5年(1600年)
関ヶ原の前哨戦である。西軍40,000万余騎が伏見城を包囲して攻撃を開始する。包囲開始から14日目に、守将の鳥居元忠ら1,800騎は城を枕に討ち死にする。本来なら数日で落とせるはずの伏見城に14日もの期間をかけたため西軍のその後の美濃、伊勢方面に対する攻略が遅れる要因となった。
◆鳥居元忠 (1539~1600)
徳川家康の幼少から仕えた家臣で、通称は彦右衛門尉。関ヶ原の戦いの直前、徳川家康から伏見城の城将として守備を任せられ、8月1日、落城とともに討ち死にした。鳥居忠吉の三男。