米子城は、伯耆国守護山名教之の配下、山名宗之によって応仁年間から文明年間(1467年~1487年)に中海に面した標高約90mほどの湊山山麓に築かれた平山城である。石垣を備えた本格的な城は、戦国時代末期の天正19年(1591年)に西伯耆・東出雲・隠岐の領主であった吉川広家が新たに築城を開始したが、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦い後、吉川広家が岩国に転付となった。代わって駿河より中村一忠が17万5000石で米子城に入城し、米子城主となった中村一忠が築城を続け、慶長7年(1602年)頃に完成しました。
中海に張り出した標高約90mの湊山の頂上の天守を中心とする本丸に、北の内膳、東の標高約59mの飯山を出丸として配して、湊山ふもとの二の丸には領主の館を、その下の三の丸には作事場、米蔵、馬小屋などを建て、これらを中海から水を引き込んだ二重の堀で囲みました。さらに中海側の深浦には水軍用の御船手廓を築き、内堀と外堀の間には侍屋敷が並びました。当時の米子城は、五重の天守閣と四重の小天守閣(四重櫓)を持つ壮麗な城でした。
その後、城主は加藤貞泰、池田由之、池田由成と城主が頻繁に入れ替わる。池田光仲が寛永9年(1632年)に因伯二国の領主となって以降は、鳥取藩主席家老職の荒尾成利と代わり、以後荒尾氏が幕末まで米子城を預かるが、明治6年(1873年)の廃城令で、天守閣を始めとする建物類は売却され、取り壊された。平成18年(2006年)に、本丸、二の丸などが国史跡に指定された。現在、天守台ほか石垣が大規模に残る。」
【所在地:鳥取県米子市久米町】
<アクセス>JR山陰本線・米子駅から徒歩15分。
▼米子城の概要
▼二の丸表門 ▼二の丸虎口枡形と石垣
▼石段を登る
▼本丸の石垣
左の小天守台は吉川氏が天守として創建し、右の大天守は中村氏が増築したものである。
▼小天守台の石垣 ▼大天守台の石垣
▼石段を登る ▼本丸跡
▼本丸跡
▼本丸からの眺め
▼小天守台(四重櫓台) ▼鉄門跡
▼復元の米子城
2018/12/05 訪城