淀城は、宇治川、桂川の合流付近の川中島、現在の京阪電車淀駅の北西にあった梯郭式平城である。この城は、鶴松死後に捨丸誕生後養子となっていた豊臣秀次が謀反の疑いを掛けられた際、城主であった木村氏の連座とともに廃城とされた。安土桃山時代、豊臣秀吉が、側室茶々の産所として築かせた淀城(淀古城)は、現在の位置より北へ約500mの位置にあった。江戸時代に入り、伏見城の廃城により、その代わりとして元和9年(1623年)8月2代将軍秀忠は、淀藩へ2万5千石で入部を命じられた松平定綱に淀城の築城を命じて新たに築かせた。その後、松平定綱は備中国へ移封され、永井尚政が10万石で入部し城下町の拡張を行った。その後、石川、戸田、松平と変わり、享保8年(1723年)に春日局の子孫の稲葉正知が10万2千石で城主となったのち、幕末まで稲葉氏が城主をつとめた。淀藩は廃藩となり、城内の建物は、本丸の一部を除き破壊され、周辺の石垣や堀は取り除かれ埋め立てられた。
[所在地:京都府伏見区淀]
<アクセス>京阪電鉄・淀駅下車徒歩約5分
▼淀城の概要
▼稲葉神社
▼淀城の石碑
▼本丸石垣と堀跡
2013/02/22 訪城
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鳥羽・伏見の戦いと淀城
慶応4年(1868年)正月、鳥羽・伏見の戦いで淀城は旧幕府の守備隊としてこれにのぞみましたが、時の城主稲葉正邦が老中にもかかわらず、淀藩兵は淀城内にいて戦況を見守っていました。官軍が優勢とみると、淀城は敗走する旧幕府軍に対して、門を閉ざし寝返りました。淀城は大坂城とともに、西国に睨みを利かすために築城されたが、皮肉にも官軍の勝利に一役買うことになったのである。