慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いに敗れた毛利一族の吉川広家は、毛利家本家同様に石高を減らされ、出雲米子から岩国へと移され、所領も12万石から3万石に減らされた。吉川広家は、すぐに蛇行する錦川の流れによって築かれた段丘上に居館、背後の約216mの山上に四重六階の天守、本丸、二の丸、北の丸等を持つ詰城を慶長13年(1608年)に築き上げた。しかし、元和元年(1615年)、一国一城令により山上の城が破壊され、これ以降、岩国城は山魔の御土居とよばれる居館のみを陣屋として明治維新まで存続した。昭和37年(1962年)、天守構造図を参照に鉄筋コンクリートで唐造の美しい、四重の復興天守が本来の天守とは違う位置に再建された。錦川に架かる5連アーチの錦帯橋は、岩国城の城門橋である。
[所在地:山口県岩国市横山3丁目城山]
<アクセス>JR山陽本線・岩国駅から「錦帯橋」までバス約20分。
JR新幹線・新岩国駅から「錦帯橋」までバスで約15分。
さらに。岩国城ロープウェイで山頂(模擬天守)へ
▼錦帯橋と復興天守 ▼錦帯橋
▼山魔(御土居)
▼御土居概略図 ▼錦雲閣(国の有形文化財)
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岩国城ロープウェイで山上へ❕
▼城郭図 ▼大釣井(山上の水源の要となる井戸)
▼旧天守台(復元天守台) ▼復興天守
▼復興天守
再建を強く望む岩国市民の願いで、昭和37年(1962年)に鉄筋コンクリートで再建されました
▼天守からの眺め
2018/2/13 訪城