旅するくも

『旅が旅であることを終わらせる為の記録』

世界がイカレている

2011-10-07 22:21:48 | 言葉
   
世界がイカレていると、まともな人がイカレているように映る。
まともな人間に見られたきゃ、世界と一緒にイカレちまえばいい

完璧なもの

2011-09-09 20:56:20 | 言葉
「完璧なものなど世界には存在しない。
あるのは、完璧に向かおうとする意志だけ。」
北山耕平 著
地球のレッスンより

ポロッと

2011-07-21 20:59:02 | 言葉
「俺はみんなを笑わせたくて冗談を言ってるんじゃない。
自分が笑っていたいから冗談を言ってるんだ。」
今日、ポロッと言ってしまった本音であろう言葉

わがままな女性

2011-06-27 22:52:46 | 言葉
5年くらい前になるのか、自分で風力発電ができないかと考えて図書館で
風力発電についての本を借りた事があった。
本には風力発電について、こう書いてあった。
『風力発電を例えるなら、わがままな女性をつかまえるようなもの』と
書いてあった。
僕は「こりゃ難しいぞ」と思い、それ以上前には進むことはなかった。

そんな5年くらい前の事を思い出して当時の僕は感じなかったのだけれど、
この『風力発電を例えるなら、わがままな女性をつかまえるようなもの』
という言葉は非常に面白い言葉だなと今更ながら思った。

まず、風が「女性」であること。
おまけにその女性は「わがまま」なのだ。
その言葉には自然は支配できないという意味がどこか込められているような
気がする。
支配はできないけど、「やりかた次第では、そこそこうまくやっていけるかもね。」
的な雰囲気。
そのくらいで良いのだと僕は思う。

ローリング・サンダー

2011-06-17 21:46:28 | 言葉
われわれは、もういちど
もとの道に戻ろうとしている。
力をとりもどし
現代生活と呼ばれる虚構と
不誠実にみちた生活から離れて
いかに生き
どうしたら自分に正直でいられるかを
われわれは もういちど
学習しなおしているのだ。

ローリング・サンダー

不器用なやつ

2011-06-04 21:57:00 | 言葉
『 なんで俺はこんなに不器用なんだ。
目の前に自分が現れたら殴ってやるのに。
でも、鼻血が出たところでハグしてやらんとな。 』

Twitterの面白さ

2011-05-31 22:53:40 | 言葉
葉山に住み、88(ライスペーパー)というフリーペーパーにアイヌ模様などを載せ、
インディアンフルートの演奏者でもある真砂さんの水田を7Generationswalkで
訪ねたことがあった。

真砂さんは北山耕平さん、野草社(山尾三省の本などを出版している会社)の石垣さんと
似た独特な雰囲気を持っている方だった。

真砂さんは僕らに水田を案内しながら自分がしている農を『食べられるガーデニング』
と呼んでいた。
当時、真砂さんについて僕はほとんど知らなかったけれど、『食べられるガーデニング』
という言葉で僕は時間が許す限り話をしてみたいと思ったほど衝撃的な一言だった。

アトリエに移ってから真砂さんは『自然との折り合いをどこに見つけるのか』とも言っていた。

農について極端なものがたくさんある。
人間の地球に対する支配の行き過ぎたものを農薬を使った「農業」だとすれば、地球に負担を
かけないものの極端なものとしては限られた人しか実践できないような自然農。(色々あるけど)
さらに極端なことを言えば農からも離れて「狩猟採集」こそが未来への答えと言う人までいる。

『食べられるガーデニング』という言葉はまさに両極端の中にある自然と人との間に存在する
折り合いをふまえた真砂さんが実践されている答えであったと僕には思えてならない。
そして、それを農法などという言葉を使わずに『ガーデニング』という言葉を選ぶ真砂さんは
素晴らしいと思う。
僕らが食の生産に必要なのは農法ではなくて、『食べられるガーデニング』という感覚なのかも知れない。


※さて、ここからが本題。
僕はそもそも人に何かを事細かに説明することが好きではない。
最南端のイラストをやっているタクミもいつだったか同じことを言っていた。
自分が描いた絵について細かな説明をするほどナンセンスなことはない。
僕もそう思う。

『過剰な説明は人の想像力を馬鹿にしている』という言葉もあるくらいだ。
僕は人を馬鹿にしたくないということよりも、むしろ相手に空白を持たせることが、必要なのでは
ないかとさえ思っている。

上に書いた内容を僕はTwitter上で
『葉山にあるインディアンフルートの演奏者の真砂さんの無農薬の水田を訪ねたとき真砂さんは
農を『食べられるガーデニング』と呼んでいた。結局そういうことなんだと思う。』と書いた。

「真砂さんは農を『食べられるガーデニング』と呼んでいた。」だけでも僕は十分だと思う。
もちろん、そこには書き手と、読み手のセンスがあってはじめて意図しているものが伝わり、
成り立つだけに、センスが問われるわけだ。
そこに僕が感じるTwitterの面白さがある。

ネオネイティブミーティング2011

2011-05-26 21:57:13 | 言葉
3月11日、大きな地震が日本列島の本州と呼ばれる島の東北沿岸で発生し、
自然が激しく身震いして、たくさんのいのちが失われました。
電気仕掛けで動く私たちの文明を支えてきたいくつもの原子力発電所も、
取り返しのつかない被害を受けました。
壊滅的な被害を受けた福島第一原子力発電所の4つの原子炉で起きている
放射能漏洩事故に、世界の目は釘付けになっています。

私たちはこれまで、大地と水と空気を必要以上に傷つけることのないように心がけて、
自然から学びながら暮らそうとしてきました。
すべてのいのちを脅かす存在として人間が作りだした「核」とのつきあい方を改め、
中毒ともいえるエネルギー依存を脱して、あらゆるいのちとともに大地や水との
健全な繋がりを取り戻すことの必要性を、生活はもちろん、表現や生産を
通しても伝えてきたつもりでいました。

にもかかわらず、今回の事態は起きました。
大地と水と空気を、そしてそれをわけあってそこで生きるすべてのいのちに、
生きのびるための大きな試練を与えてしまいました。
しかし同時にそれはたくさんの無垢なる精神を揺り動かして目を覚まさせつつあります。
今回の危機により、平和が大切としながら荒ぶる核エネルギーに依存してきた
この国のエネルギー政策や、核政策の見直しを求める声は、今後さらに大きくなるでしょう。

今ある原子力発電所や核関連施設をただちに停止しても、すべてはそれで良い、
というわけにはいきません。
世界各地の先住民たちがそれに見合う知恵を持つまではけして掘り出してはいけないと
永い間伝えてきた鉱物、その核にともされた「火」は、すぐに鎮まってはくれないからです。
私たちは、この先も、人間が作りだしてしまったために放っておけばいつまでも荒れ狂う
強大な力を有する核廃棄物とともに、生きていかざるをえません。

核物質のタイムスケールは、私たち人間のそれとは比べようもなく長いものです。
その危険性を、文字に書いたとしても、石に彫ったとしても、きっといつかは忘れられて
しまうことでしょう。
何百年、何千年、何万年、気が遠くなるような時間を、核物質と共有していかなくては
いけない、人類史上はじめての、そんな時代に、私たちは今、いるのです。

震災からほぼ一ヶ月後の満月の日、余震がいまだおさまらず、原子力発電所の事故の終息も
見えないとき、私たちは、東西南北から関東地方は房総半島(総国安房)鴨川の山中に集い、
この母なる列島での私たちの今後の暮らし方、生き方について、自然との関係のあり方について、
真摯に意見を交わしました。
農業者、音楽家、作家、写真家、映画監督、絵本作家、画家、料理家、学生など、立場と
仕事を超えて、その日まで普通に日常を生きてきた人々が、あらためてこの日、地球に
生きるひとりの人間として、もう一度決意を新たに、震災と事故のもたらしたものから
学び、母なる列島の島々をこれ以上傷つけることなく、自然との調和をはかり、生きて
いくことを再確認しました。

そして、この列島に暮らす姉妹たちや兄弟たちにも、私たちとともに、地球が生きている
存在であり、長きにわたる人間の活動の結果、世界各地の先住民が「母なる地球」
「祖母としての地球」と呼ぶ偉大な存在が、息も絶え絶えになっていることを確認し、
もういちどいのちと地球とのつながりを回復し、調和と美のなか、すべてのいのちとともに
生きのびることを、心の底より祈り求めました。わたしたちは、人間として生きることを
怖れず、非人間的な核エネルギーに依存することを止め、もう一度地球を抱きしめることを、
ここに最初のネオネイティブミーティング総の国声明とします。

2011年4月17日 満月に虹の環がかかった日
ネオネイティブミーティング2011 参加者一同

※真魚さんのブログより引用
http://www.animismonline.com/2011/05/post_347.html

土に触れる

2011-05-17 11:36:51 | 言葉
 『 土をにぎったとき、私は縄文人である。
彼等とまったく同じ人間ではないかもしれない。
しかし、少なくとも無欲と分配の美徳を持つ彼等に
少しでも近づきたいものである。 』

新居司郎

自分の中の眠った記憶を取り戻す為に風の声を聴くという方法も
あるのだけれど、土に触れることもそれと同じだと僕は思う。