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日本の中の『秦』Ⅰ.和歌山県【徐福伝説】

2022-05-08 | 古代ミステリー

【徐福公園】和歌山県新宮市

Jr新宮駅近くの「徐福公園」の中に

【徐福の墓】がある

徐福は秦の始皇帝が不老不死の霊薬を探し求めて、東方の海に向かわせた方士。霊薬を求め徐福は日本中をくまなく探し周った様で、全国に徐福の伝承が残る。

 

徐福の墓は17世紀、紀州藩主・徳川頼宣の命によって建立された。

 

徐福廟

 

徐福像

 

道教(方術)の大切な教え『和』、仁、慈、勇、財、調、壮、7つの字が並ぶ。

徐福と共に来た7人の重臣に模している。

かつては、7人の塚が北斗七星の形に配されていたという。

 

駐日大使による植樹。中国各地から来訪があり中国人からの寄付も多い様だ。

 

金色に輝く鯉が出迎えてくれた。縁起が良さそう✨

 

何よりも、ここは穏やかな場所。

 

 

 

 

小さな公園の中に静かに鎮座されている。

 

中華街にありそうなお弁当屋さん

 

 

 

【阿須賀神社】蓬莱山と徐福の宮

和歌山市新宮市阿須賀1-2 徐福公園からは徒歩5分ほど。

徐福公園から熊野速玉大社へ向う道で、右にそれていく。

『蓬莱山』の前に抱かれる様に静かに鎮座されている世界遺産の神社。

阿須賀神社は熊野速玉大社の摂社とも。(阿須加→飛鳥の語源)

 

ここから西へ20分程歩くと「熊野速玉大社」があり、本殿と同じ神様が祭られている。

ご祭神

【事解男命】

【熊野三神】速玉男命、不須美の命(イザナミ)、家津美御子(スサノオ)

日本神話、

妻のイザナミが亡くなられた後、夫のイザナギは黄泉の国にまでイザナミに合いにいった。二人はそこで諍いになり別れた。その時、吐いたつばが『速玉男』であり、『事解男』がそれを掃った神であるといい、

速玉男はイザナミ、事解男はイザナギとして祭られている。

 

 

【徐福の宮】

境内右奥の摂社にひっそり『徐福の宮』が小さな祠に祭られていた。

 

「月夜に遠くを見るようなもの」

(あるのは確かなのだけどぼんやりとしてよく形は見えない、

ただあることだけは確かだという例え)

和歌山県新宮の徐福の足跡は、ただあることだけは確かに感じる。

 

 

【徐福公園】と【阿須賀神社】はとても穏やかで優しい、

心をくつろげ解放できる様なスポットでした。😌✨✨✨

 

遠い秦の国からやってきた徐福達も、

ここに上陸し心を開放しホっとしたのかもしれません。

 

 

 

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『徐福伝説』

中国を統一した始皇帝は権力を手に入れると、『不老不死』を望み、宮中の司祭に命じ仙薬を集めさせて、仙人(方士)や道士たちが集められた。

 

斉国(現在の山東省)の方士徐福が、

「東方海に三神山あり、蓬莱(=日本)で、不老不死の仙人がその霊薬を練っているそうです」と奏上すると、

始皇帝は喜び、徐福を東方へ行かせることにした。

秦の始皇帝は体が弱く「毎日のように冬虫夏草を食したい」と徐福に頼んでいた程。信頼を得ていた。

 

紀元前219年に出航、

しかし、霊薬は見つけられず9年後に帰国し、始皇帝は、

「徐福ら費やすこと巨万を以って計るも、終に薬を得ず!」と大いに怒った。

徐福は『私は、海中に大神をみました』と言い、

「海中の大神は始皇帝の礼が薄いといい薬を取ることを許さないのです。選りすぐりの童男童女と技術者を連れていけば叶います』と奏上すると、

始皇帝は喜び、不老不死の霊薬を得る為、

良家の童男童女三千人と五穀(麻・黍・稷・麦・豆)の種子と技術者や学者を徐福に託し出航させた。

始皇帝が亡くなった紀元前210年のこと、

徐福は再び出航したが今度は帰らなかった。

徐福は広い平野と湿地を得て、そこで王となったとも。

 

 

もう少し新宮市と『徐福伝説』深掘り

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ここから長文です。興味のある方はご覧下さい🙏✨

 

熊野川の河口沿いにある新宮市。海に向かい神倉山がそびえている。

熊野川は奈良県の大峰山から発し、天河大弁財天がある「天川」や
玉置神社がある十津川村の「十津川」は熊野川の上流で、秘境のスポットが点々と続く。

 

奈良から和歌山、三重を縫う様に流れて新宮へいたり太平洋へそそがれる。

熊野川沿いの道、168号線を抜けていくドライブは、古代の静寂と紀伊半島ならではの山河の続く自然を堪能できるコースだ。

(立ち寄りスポットは何処も混んでて😌大人気ですが)

下流の新宮市の神倉山から空と海が開け、景観が変わる。

神倉山は古代より神聖な場所で、登頂には世界遺産の【熊野速玉大社】のご神体という「ゴトビキ岩」があり、神倉神社が祭られている。こちらの火祭りはハンパなく勇壮で「死者が出ないのが奇跡」というしか無いほど神がかっている。

熊野速玉大社

 

新宮市は、三重県との県境、熊野古道の中辺路にあり、伊勢神宮からの伊勢路にも繋がっている。

 

中辺路:大雲取 名合石

新宮市は、熊野古道だけでなく、

⛩️熊野川
⛩️神倉神社
⛩️熊野速玉大社
⛩️阿須賀神社 、、全てが世界遺産で小さな街だが神話と伝説の故郷だ。

神武天皇も徐福同様、九州から来てこちらに上陸した。(神武=徐福説も😳)

日本書紀に依ればゴトビキ岩のある神倉山へは、神武天皇が東征の時にのぼったといい、神武天皇を助けた高倉下が神倉神社に祭られている。

神倉山の神倉神社ゴトビキ岩※銅鐸が多数出土した。

石段は源頼朝の寄進という。古くからの熊野信仰の原点。

 

神倉山の手前の小さな山「蓬莱山」では古代から祭祀が行われていた。

高さ48m、東西南北100mほどのピラミッド型の小さな丘で、古墳くらいの大きさしかない。

ピラミッド伝説が無いのが不思議なくらいの霊山だが、もともとは岩山で

徐福が上陸した紀元前2世紀頃、この辺り一帯はまだ海だったらしく神倉山の手前、上陸の目印となる海上の大きな岩山が「蓬莱山」だったという。

蓬莱山

 

海を越えてきて上陸した一行には、まずここが第一の神聖な島(山)となった。

麓からは種々の神具が出土していて、阿須加神社の隣の歴史民俗資料館に展示されている。

 

(未踏の探検をする徐福達。当然ですが、行く先々で上陸する為の港が整備されてた訳ではありません。最近まで陸路の行き来が難しく移動に船を利用していた奄美大島などでは、今でもそれぞれの地域の方々は目印となる岩山を誇っています。港が無い場所へ上陸する船の一行にとって、海沿いの小さな岩山は上陸には欠かせない大切な象徴でした。)

 

古代中国の神仙思想(東方神起=東方に神が起きる。K-popではないです😌)で「蓬莱山」は、東方の海上にあり不老不死の仙人が住むと云われた山で、徐福が探し求めた山だ。

私達が、「いつか南の島でのんびりしたいな」🏖️などと、

行ったこともない楽園ライフに憧れる様に😍

当時、中国道教の業界人にとって

「いつか東の島でのんびり」は憧れの楽園ライフだったのかもしれない😂☝️

 

徐福伝説には諸説あって限りがない。

中国や日本の徐福会によって研究が進められている様だが、月夜に遠くを見る様にまだ薄ぼんやりとしている。

 

始皇帝が主人公の漫画【キングダム】などを見てると、

「遠い昔の遠い国の出来事。日本と関係があるはずが無い、、」と思ってしまいますが、

早ければ上海(かつての楚の国)から10日ほどの船旅で日本に着きます。

 

中国全土を統一した秦からは、思ったほどそう遠くはないのかもしれません。

 

徐福は江蘇省徐福村の人。

1982年に江蘇省に過去「徐福村」と呼ばれた地名が発見され、秦~漢の造船所跡遺跡も見つかった。

 

『蓬莱』と言う古来の呼び名は、富士、熱田、ここ和歌山新宮にあり、中国では日本を指して言う言葉となった。

富士と呼ばれる様になったのは不老不死の『不死』が語源。

 

全国各地に徐福が来たという伝承が多数あって、南は鹿児島、佐賀、北は青森県や秋田の男鹿半島にまで及び、

「不老不死の霊薬」を探すために徐福は日本列島を隈なくまわっていたと思われる。

もし数カ所しか痕跡が無ければ逆に「始皇帝の命令にも関わらず、全く探す気ねーな🙄徐福」と、感じてしまう。

しかし、「不老不死の霊薬」を探すと言うのは始皇帝を説得する表向きの理由で、実際は圧政に耐えかねて中国選りすぐりの子供男女1000人と、兵士と技術者や学者を含む専門家集団2000人を率いて亡命してきたとゆー感じな説が根強い。

中国で万世の模範となる『万世師表』とまで呼ばれた聖人『孔子』によれば、

「苛政が酷ければ筏を漕ぎ、海の向こうへ逃げよ」と海東を渡る様にとの教えがあり、当時は万里の長城の使役で民は大いに苦しんでいた為、徐福はこれを実行して「端から帰国する気はなかった」と思われていて、中国では皇帝を騙した「エセ方師」とされていた。

一方で、

始皇帝の特命を目的を果たすことが出来なかったために帰国できなかったとの説もある。

「不老不死の霊薬」を探す事もそうだが、

一説には、日本列島での殖産と植民という目的もあったという。

秦から徐福に率いられてきた技術者や学者たちは、日本列島にいた弥生人たちに殖産や文化を伝え、また中国から持ってきた果実や作物に適した土地を探し殖産を試みた開拓者だ。

そもそも殖産の見込みがたたなければ、植民地誘致もあり得無いが、、

歴史に『If』はないが、もしも秦の始皇帝が亡くなり秦が滅びず、徐福達の目的が殖産・植民が目的にあったとしたら、、第二波第三波が続き日本は秦の植民地になっていたかも?😅

🙄いずれにせよ、徐福と子孫達は殖産を伝えた只の帰化人になった。

 

紀州和歌山は、中国産の梅と温州みかんの特産地として有名であり、ひょっとすると?と想いを巡らせてみたくなる。🤔

温州ミカンは中国人が持込んだのでなく、紀元1世紀に日本から中国へ取りに行ったという。

古事記では、

「垂仁天皇が『不老長寿の妙薬』を求め、新羅帰化人の末裔「田道間守」という者を海の向こうの常世の国へと探しに行かせた。

田道間守は中国の温州(上海と台湾の中間辺り)に辿り着き、10年後に『橘』を持ち変えったが天皇は既に崩御していた。」と、、

なんとも😳まあ

秦の始皇帝と徐福のエピソードとそっくりです。

稗田阿礼(古事記作者)パクったか?😅

※ミカンの陳皮は、漢方や養命酒にも使われる生薬🍊

 

徐福が渡来した紀元前2世紀頃、すでに九州では鉄器が普及しつつあったが、近畿ではまだ石器時代並の文化での農作が続いていた様子だ。

徐福らはここに上陸し、中国の農作と機織り、そして捕鯨をこの地に伝えた

 

【徐福公園にある江戸時代の碑文(略)】

『広い世界に多くの国々が対立している。

幾千年後、また蓬莱の島を訪ねて来る人があれば、

ここへ来てこの碑文を読んで下さい。

秦の王様が人々を苦しめていた。

セミや小鳥は飛んで逃げ、徐福は船出する。

楽しき国 熊野。ここが本当の蓬莱だ。

人の情も温かく子々孫々栄えいく。

徐福の墓はいつきても、花や線香がたえることがない

遠い異国の人も来てみよ、

この美しい山や河』



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