【熊野大社】島根県松江市八雲町2451
出雲国一宮【熊野大社】
別名【日本火之出初ノ社】 創建659年
ご祭神 熊野大神櫛御気野命(スサノオのミコト)
フルネームで、
伊射那岐日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命
という。
イザナギの子にして熊野の祖神でありミケ(=食べ物)の神様という意味だが、
冠ネームが長いので最初は別の神様かと思った…😅
スサノオという名を出さずに「ミケ」「ケツ」など食べ物の神様としての別称で祭っているのは、
和歌山県の熊野大社も同じで、スサノオ様のもうひとつの側面だ。
右の社殿は稲田神社で、ご妻神の櫛稲田姫を祭り
左の社殿は伊邪那美神社で、スサノオの母イザナミを祭る。
明治の一村一社制で、旧熊野村一帯の神社がこちらに合祀された。
熊野大社の元宮は熊野山(現在の天狗山)にあったようで、巨大な磐座が残る。
伊邪那美神社
荒神社
境内から左に出ると、「荒神社」で素戔嗚を祭っている。
荒神社で素戔嗚として祭っているのは中国地方に多い様だ、、
関東では、本殿が素戔嗚で側に「牛頭天王」というパターン😌
そして、その隣の稲荷社で『狛猫』発見🤩
お気に入りの場所な様だ😂☝️
別名、日本火之出初ノ社ともいう熊野大社には、
『火キリの臼杵』が伝宝として残る。
スサノオがこの地に伝えたという。臼と杵の木の摩擦で、火を起こす道具だ。
「火」は「霊」を継ぐ事であり、火キリの臼と杵は代々、神器としてこちら熊野大社で祭られていて
「鑽火祭」では、出雲大社からここ熊野大社に参向し授けられる。
【熊野大社上宮跡地】
400mほど離れた場所にある。鳥居もなく案内の看板があるのみの跡地。😌
こちらも明治政府の合祀政策で、現在の熊野大社(元は下社)に遷され合祀された。
上宮の方は、中世「熊野信仰」が紀伊半島(紀ノ国)より全国に広がって、
逆輸入のような形で出雲の熊野に伝わってきて祭られた修験道系の熊野大社で、
現在の熊野大社が下社で、元々の熊野大社だったという。
和歌山県(紀ノ国)にも熊野大社があり、紀伊半島には那智の滝やイザナミ陵など、出雲と名称を同じくする由縁の地が沢山あり、速玉男、事解男、など同じ神々が祭られている。
熊野信仰が広がったのは中世の紀ノ国からで、神仏習合による山岳修験や歴代天皇の熊野詣により、全国的に有名な霊場となった。
しかし、元は出雲であり出雲から紀ノ国へ行った方々が故地の名称をつけて熊野大社を祭ったようだ、、
出雲の伝承では、出雲から紀ノ国へ行ったのは「炭職人」であり、熊野大社の神主が同行し、紀伊半島に分霊を遷して熊野大社を祭ったという。
炭職人に神主がついていくというのは現代人の私達からすれば??🤔ピンとこないが、
熊野大社の神器『火鑽の臼杵』と同様に『炭』は弥生時代では重要で国家鎮護には必須なものだった。
特殊な【炭】は煙幕や爆炸剤など火計に用いられる炭職人相伝の秘術だ。
現代の炭火焼というような食事のためだけの炭ではなく、延焼剤としての火攻兵器の側面もある。
『剣職人』と同様に門外不出である
『炭職人』がわざわざ熊野大社の神主を伴って紀伊半島へ向かったという事は、
出雲と紀の国(紀伊半島)で、熊野大神を祭る氏族たちが同系の部族だったことを物語っている。
「出雲の熊野大社の神主が紀の国に行き、紀伊半島に熊野大社を祭った」というのは、もしかすると神主というよりスサノオ自身だった可能性もある。
紀の国=木の国の語源も、スサノオが木の植樹を行なった事が由来であり、
出雲から離れ、紀伊半島に国開きに行ったのだ。
そして、奈良でオオナムチ(大物主)とスサノオの娘スセリ姫が出会い結ばれて、スサノオは大国主の座をオオナムチに明け渡し奈良で生涯を終えた。
スサノオの墓は奈良にあり、奈良で書かれた古事記にスサノオが沢山登場するのに対し、同じ時代に出雲で書かれた「出雲の国風土記」にはスサノオは全く書かれておらず、スサノオの王子のみ登場するのも頷ける。
、、更に、奥へと進んで行きます。
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ここから、長文になります✨🙏
興味のある方はご覧下さい。
出雲の裏側、、
(🙄今までも長かったですが、😅
読んで頂いてありがとうございます🙏)
【熊野神社】広島県庄原市
奥出雲という地名はあるが「裏出雲」という地名は無い。しかしあえて
『裏出雲』と表題にしてみました。🙃
奥出雲より更に南の比婆山麓、広島県側にある出雲の裏側をみていきます。
スサノオの頃の出雲は、瀬戸内海側までが出雲だったので広島県は古代出雲とも言えるかもしれません。
山間の道に忽然と大鳥居が出現。「古事記の故郷」熊野神社
比婆山など今回は、スサノオの母イザナミの由緒を周ります。
【裏出雲ロード】
熊野神社 比婆山Ⅰ.千引岩 比婆山Ⅱ.火よけ穴 比婆山Ⅲ.イザナミ陵
神域の見事な巨杉群は県の天然記念物
参道の木々の下がる枝ぶりが独特で、山側から麓側にエネルギーを降ろす様な生え方をしている。
熊野神社は、
後ろの山に鎮座する比婆山に葬られたスサノオの母・イザナミを遥拝する為に祭られている神社。
古事記~
イザナミは出雲国(島根県)と伯伎国(鳥取県)の境、比婆山に埋葬した
とあり、イザナミ陵慕のある比婆山を奥の院として、
こちらから遥拝(=遠くから拝むこと)する。🙏
熊野神社 拝殿
拝殿左手に登山道があり、岩境、二宮、三宮と続きますが、
三宮の撮影は自粛しました。
岩境
金蔵神社
熊野神社のパワースポット✨
熊野神社の拝殿が建立される8世紀まで、
こちらの磐座で祭儀が行われていたという。
二宮
那智の滝へ、そして比婆山に続いてますが、、
一度山を下り西側の峰 比婆山立鳥帽子駐車場へ向かいます。
比婆山の南麓には三つの登山口があり、
東から熊野神社駐車場→立鳥帽子駐車場→比婆山古道入口、と、
西へいくほど頂上への距離が短くなる。
イザナミ陵墓は比婆山頂近くに埋葬されてるらしい。
熊野神社からだと朝早く出て夕方戻れるくらいだろうか?
間違いなく負傷レベルの筋肉痛になる、、😅ので
一番近い比婆山古道入口から登ることにする。3時間コース
【千引岩】と【火よけ穴】 広島県庄原市西城町熊野
比婆山立鳥帽子駐車場、、駐車場といっても突き当たりにジャリ道が開けてるだけのスペース。テントを張ってキャンプをしてる人達がいた。
千引岩と火よけ穴どちらも、駐車場から徒歩10分程度。
駐車場より右手にある細い山道をいくと千引岩がある。
古事記~
火の神を産みなくなった妻イザナミを追って、夫のイザナギが黄泉の国までやってきた。
イザナキは「葦原中国(アシハラナカツクニ)へ戻ってきて欲しい」と頼む。
しかし、イザナミはもう葦原中国に戻れない体になっていた。
それでも、、と頼むと、イザナミは黄泉の神に相談してみることになり
そして「相談が終わるまでは私をみてはいけない」と告げた。
しかし、イザナミと黄泉の神の相談は長時間に及び、
待ちきれなくなったイザナギは櫛に火を灯して進んでいった。
そこには焼けただれて醜い姿となったイザナミの姿があり、驚いたイザナギは黄泉の国から逃げ出した。
約束を破られ怒ったイザナミは八雷神・千五百の黄泉軍を差し向け追撃する。
イザナギがようやく黄泉平坂(境界)まで逃げてくるとイザナミが追いつき
最後にこの大岩を挟んで対峙し、イザナミとイザナギは言い合った。
「美しき吾妻、時周り来る時があれば、この千引の岩戸を共に開けよう」
「愛する夫よ、あなたの国の人を日に千人ころしましょう」
「愛する妻よ、ならば私は一日に千五百人生んでやろう」
このことから「千引岩」と名がついた。
駐車場に戻り左手奥の道をいくと、火よけ穴がある。
『火よけ穴』=隠れ穴ともいう
焼けただれて醜い姿となったイザナミは、この穴に隠れていた。
一説に、火の神を生んだイザナミは、この穴の中で亡くなったと云われている。
また、イザナミがここを通りかかった時、天から火の雨が降ってきたので、
この穴に入って難を逃れたともいう。
火の雨が降ってきて火傷を負い、穴の中に隠れていたところ亡くなられたのだと思います、、😔
【比婆山御陵】比婆山古道入口より登山1時間半
車数台を停めるスペースがあるが、一台も停まってなかった。
例によって夕方、山に一人で入る…
結構な登山だったが水を持ってくるのを忘れてしまった。
原始的だが汗を飲みながら登った。
イザナミに追われ、驚いて逃げるイザナギはこの岩を飛び越えていった。
「飛越石」という。
イザナミが埋葬されたという陵は登頂近く(9合目)にあった。
埋葬地の看板
しかし蝦の大群に襲われ、ゆっくりお参りどころではなかった。
アウェー感というか、何か予感がして例によって御陵の撮影は自粛した。
、、無事に下山することができた。
パワースポット巡りで山深くに入ると、時に際どい体験をすることもある。
この「越原」と書いておっぱらと読む地名は、イザナギを「追払った」ことが由来だという。
イザナミの墓は
古事記説では、伯耆の国(鳥取県)の境い近くの比婆の山に埋葬したとあるが、
宮内庁説では、伯耆の国から30㌔くらい離れた島根県松江市に『岩坂陵墓参考地』というのがあり、
他にも紀伊半島の三重県熊野の『花の窟神社』など諸説あり、古事記説は否定されまくっている、、😑
まぎらわしいですが、今回は『古事記の故郷』ですので古事記説で周りました。
長い旅のお話しにお付き合い頂き、ありがとうございました。
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古事記〜
『スサノオの追放 エピソード1』
スサノオは母の国に行きたいと何時までも泣いていて、乱行を行うようになった。父イザナキはこれに怒りスサノオを追放した。
『スサノオの追放 エピソード2』
スサノオは高天原にやってきたが、天照大神は奪いに来たと警戒し完全武装で迎えた。スサノオは天照大神とウケイ(誓約)を行い潔白を証明した。しかしその後、乱行を行い事件を起こし罪を負わされ追放された。
スサノオは二回に渡って追放されていますが、「母の国に行きたい」というのが発端であり、母イザナミの国とは、父イザナギの葦原中国でなく、こちら「黄泉の国」なので
最終的には、二度の追放を経てスサノオは母の国に辿り着いた。
出雲には「夜見嶋」という場所があり、他にも神名火山、十神山・十神島など興味深い地名が残ります。
出雲は古事記同様に奥が深く、歩く古事記という感じがしました。
更にここからは、
古事記を古代ミステリーロマン的な視点で
とりとめもなく綴っていきます。
古事記を神話でなく、
ただの物語として読んでみるだけの試みですが、、
興味のある方はご覧ください。
(津田史観とか皇国史観とか極端にバイアスがかかったものは😵💫ちょっと分からないですが、普通に読んでみます。😌)
毎回、長文ですが今回も長いです、、🙏😌
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古代ミステリーロマン【スサノオの母イザナミの謎】
突然ですがこれは☝️ヤフオクで1万円でゲットした中国製のレプリカの鏡です。🤣
😅内向花紋鏡のつもりで買いましたが、どうやら『銘帯鏡』という、
もう1〜2世紀古い時代の鏡のようです(マニアック😂)
弥生時代の男達はこの様な鏡を腰にさげていた、、
裏側の鏡面が凹面になっていて、太陽の陽を一点に集めて発火させる為の鏡。天然のライターです。
しかし、夜や雨では使えないため
太陽がなくても使える臼杵式の摩擦発火装置が必要とされました。
(木と木を擦り合わせ発火させる、スサノオが熊野神社へ伝えたという発火装置)
また、火種として燃焼時間の長持ちする備長炭の様な特殊な炭も携帯上、重要でした。
後世の火打石もです。
時代が下るごとに発火装置は進歩しますが、弥生時代の臼杵式発火と炭は庶民の暮らしの為だけでなく
国家鎮護のための重要な神器でした。
古事記〜
イザナミとイザナキは沢山の神々を生み出し、最後に「火の神」を産んだことによって女陰を焼いてしまい、イザナミはなくなられた、、
と、記されてますが、
これは、火にまつわるお話しです。
弥生時代の戦さというと、銅剣・鉄剣の白兵戦(チャンバラ)だけだったが、
一世紀前後になると新たな渡来部族らにより
火術・武術・兵術など戦術がもたらされていった。
特に火矢を用いた火術は、先住部族、先々住部族の銅剣と鉄剣の戦力差を埋めるほどの戦闘力があった。
八岐大蛇がスサノオに急襲されて、火を吐きながら逃げた、、つまり火矢を放ちながら、または火を放って退却出来たという事は、
急襲に対してただちに反撃できる発火技術を持っていたということだ。
既に、備長炭の様な堅炭による種火の保存技術か、スサノオが熊野神社に伝え残した様にすぐ摩擦発火する火ギリ発火装置があったのだ。
『スサノオの母イザナミは、火の神を産みなくなられた』
この古事記の話しは、その様な新たな発火技術の誕生によってなくなられたというエピソードだ。
比婆山に伝わる伝承では、
火の雨が降ってきてイザナミは穴に隠れたという。
黄泉の神との話し合いが長引き、
イザナキ側が夜になり、火矢による奇襲攻撃をしかけ黄泉の国の国境を超えてきた。
火矢による奇襲は、種火は目立たせてはならない、
(私の様な『銘帯鏡』ではなく😂、夜でも戦術に使えるほとの新たな技術があった)
火矢を受けてしまい驚いたイザナミは燃える頭から櫛を外し、その炎を頼りに火よけ穴まで辿り着き隠れた。
やがてイザナキに見つかってしまう。
焼け爛れたイザナミの姿をみたイザナキは驚いて逃げ出してしまった。
元夫の仕打ちに怒りイザナミ側も反撃の軍を出した。
しかし、イザナミは火傷を負いその上
既に葦原中国には戻れない体、、
つまり身重の体で、火の神の子を宿していた為に穴から動くことも出来ずに、火傷が原因でそのまま隠れ穴で亡くなられてしまった。
黄泉の国の兵士たちは悲しみ、亡き骸を比婆山に埋葬した、
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古事記〜
『スサノオは、髭が胸に届くくらいになるまで、母の国に行きたいとずっと泣いていた』
『ずっと泣いていた』
『言葉を話さなかった』
という王子が時々登場するが、
これは常用言語を話せない状態であることを指していて、
言語の違う他国の渡来系王子であるという意味だ。
イザナキの国が、葦原中国(アシハラナカツクニ)ならば
母イザナミの国は、黄泉の国だという事になり、
イザナミ・イザナキ夫婦は
違う国同士の婚姻だった事になる。
女王イザナミと男王イザナミ
二つの王統の同化政策は、
二人の婚姻により血統を継ぐことで始まった。
古事記〜
『イザナキ・イザナミの二人は天御柱を左右からそれぞれ周り、美斗のまぐわいをする事になった』
最初は女王から言い寄ったために、うまくゆかず、生まれた子は流してしまった。
次は男王から言い寄ってみてうまくいき正式な神婚がなされた。
弥生時代はまだそれほど人口は多くなく、国の対立で相手を完全に武力破壊をするほどの兵力差はなく婚姻による和合政策が常だった。
女性が言いより入嫁になるか、
男性が言いより入婿になるか、
男系の国と女系の国では、こうした試行錯誤があり、
しばし、イザナミ・イザナキの婚姻合併策は落ち着く。
しかしその後、
イザナギ側とイザナミの黄泉の国での戦いが起こった。
イザナミの子スサノオと、
イザナギの子(天照大御)高木神勢力との間でも諍いが起きた。
スサノオの2回に渡る追放劇は、
両国和合がひび割れしたエピソードだ。
『スサノオは多くの罪を負った』
というが、文字どおり
自分以外の氏族達の罪を全て被ったという説や、冤罪説もある。
スサノオは、長崎県対馬に新羅との往来の伝承が残る様に、新羅系であることは間違いない。
出雲も、新羅系の国造りをされた国であり、
出雲の始祖の八束水臣津野命は、
国土が狭かった為に、国を引き寄せた、と出雲国風土記に記されている。
国引きの後『オウ!』と言ったのが、今も残る意宇郡という地名の由来となっている。
この国引き神話は、新羅の一部を加えたエピソードという解釈がされていて
スサノオの後、
二代目大国主となった大己貴命らも新羅から来た少彦名命の助けを得て国造りを行い、
国造りを終えて少彦名命は常世の国(新羅)に帰ったというので、
数代に及び、出雲と新羅の往来は続いていた。
古事記の
新羅を常世の国といい
出雲を黄泉の国という言い方は
両国が裏表の関係であることを示している。
まるで和歌の返し歌の様なセットだ、😮
古事記では、
スサノオの娘・スセリ姫の入婿となった大己貴命に十種の神器が渡り
スサノオは「お前が大国主になり天をつくほどの宮を建てよ」
と、言ったのが最後の言葉で、
スサノオの自身の最後は分からない。
スサノオの墓は、最後の言葉に関わる伝承地が残る奈良説(笠山荒神社など)が
有力と思われるが、出雲説もある。或いは新羅(旧江原神社など)ということもあるかもしれない。
あまり追いかけると、いつか韓国にまで行くことになるかもしれないので、
この辺でやめておこう。😂💦
【稚児池神社】奥出雲 スサノオが産湯に浸かったという井戸を祭る
【新宮神社】奥出雲 ご祭神 イザナミ 速玉男 事解男
【櫛田神社】奥出雲 櫛稲田姫の生誕地
【稲佐の浜】ふつうの出雲 出雲大社の西岸
出雲大社も寄り、稲佐の浜へ。🌊波が少しだけあったので🏄もしてみた。
裏出雲の公式キャラクター?日本の祖神さまイザナミさまが、なみちゃんに😌
それにしても、、
😮
創作神話の時代とはいえ、当時の人々の表現と意味込めは見事に尽きる。😳
同じ時代に読まれた万葉集の和歌一つとっても、とても現代人が及ぶものではない。
ひとひらの言葉に二重三重の意味を込め
時に情感描写でそれを包み、
時に言外にそれを置く。
歌は、一言に3つの意味をこめる
人の心、特に恋心を謳い、
自然の美しきを纏い、
世上を表す。
短い言の葉に全てをこめて歌うほど、想いの深さが伝わった。
ストレートに言葉を読むのでなく、裏読みする語彙力がなければ返し歌もままならない。
中国にも讖緯説という裏読みが必要な表現方法があるが、
とても古事記・日本書紀の時代のセンスに及ぶものではない。
現代人でも皮肉を言う時は、ダブルメッセージで逆の意味を含めて言うが、
皮肉以外で、トリプルメッセージの言語表現が出来るのはこの時代の特徴だろう。
古事記や万葉和歌は謎解きや理解よりも
現代人脳の私にとって
読む度に意味が変わるのが面白い。😌
それにしても、、
古事記を額面どおり読む現代人の朴念仁ぶりよ😅
blockhead🙃cold fish
(※紀元2世紀〜7世紀頃までは、世界的にも創作神話と宗教政策の時代だった)
とりとめのない長い話しを読んで下さって、
ありがとうございました。🙏✨
スサノオ二千年の旅、
ファイルファンタジーなみのシリーズになってしまいましたが、
最後は、地元の神奈川県で終わりたいと思います。😌
(😂まだ続くんか)
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