【八重垣神社】島根県松江市佐草町227
ご祭神 素戔嗚命 櫛稲田姫 大己貴命
縁結びの神社⛩️ 鏡の池では結びの占いができる。
日本神話の故郷『出雲』(島根県)はスサノオ降臨の地。
~古事記
「高天原を追われたスサノオは出雲に辿り着きます。ここで姫を八岐大蛇に差し出さなければならず苦しんでいた出雲族と出会いました。スサノオは八岐大蛇を退治し無事に姫を助け、二人は結ばれました。」
スサノオが櫛稲田姫と出会い八岐大蛇を退治した奥出雲と
櫛稲田姫と結ばれた❤️島根県の松江市を周ります。
スサノオは、斐の川上から七里離れたここ佐草の郷"佐久佐女の森(奥の院)"に、大杉を中心に
『八重垣』を造り、八岐大蛇から守る為に稲田姫を御隠しになられた。
境内の左から後ろに出ると、佐久佐女の森の奥院がある。
『鏡の池』奥院
社務所で紙を買い、紙を池に浮かべ10円か100円玉を真ん中にのせ、沈む早さで叶う早さを占う。
15分以内なら叶いやすく、30分以上かかると叶いづらいという、、😮
浮かべてみた、、
なんと!😳水につけると文字が浮かびあがってきた
「答えは己の中に」ですと。
(思い当たる😅)
隣で老夫婦がやっていたが
違う文字が浮かび上がっていた。ご宣託は人それぞれらしい、
1〜2分で沈んでいった😂☝️
先週、宮城県山元町の「八重垣神社」にお参りし一週間後にこうして
島根県の八重垣神社に参拝することができ、何だか不思議な気分になった。
八重垣神社の元宮は、奥出雲にあったという。
『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
八重垣作る その八重垣を』
スサノオが詠んだ我が国最初の和歌。
【元八重垣神社】
スサノオと櫛稲田姫が出会ったという場所💖
こちらに八重垣神社があったが、明治時代に1キロ先の伊賀武神社に遷され、
今は社殿も鳥居もなく、この石碑が残るのみ。
入口には元結の松といい、櫛稲田姫命が髪を結くときの紐を
こちらの松に掛けたという。
うっかりすると通り過ぎてしまいそうなほど、、というか一度通りすぎた😅
『八頭の峠』
この一帯は八頭(ヤト)といいこの周囲1 km くらいのエリアが、
スサノオと櫛稲田姫が出会い
八岐の大蛇が退治されたという「古事記」に登場する日本神話の発祥地だ。
『長者屋敷跡』
櫛稲田姫の両親、足名椎・手名椎(アシナズチ・テナズチ)の老夫婦が住んでいた屋敷跡地。
足名椎・手名椎は大山祇命の子で、国津神(天孫降臨以前からもともとこの国にいた神々)
道路脇の元八重垣神社前のジャリ道を進み奥まった所にひっそりとある。
老夫婦には八人の娘がいたが、八岐大蛇に年に一人づつ人身御供に奪われ、
櫛稲田姫がとうとう最後の一人になってしまった。
櫛稲田姫もやがて捧げねばならないと泣いていたところ、
高天原を追われて出雲の鳥髪に降ってきた須佐之男命(スサノオのミコト)が、上流から箸が流れてくるのを見つけ(上にも人がいる)と気づきやってきた。老夫婦と出会い
何故、泣いているのか?と尋ね事情を聴いた須佐之男命は、櫛稲田姫を八重垣に囲い隠し、
八岐大蛇を退治する為に、鏡池の水で醸した酒を八つ酒甕に入れ並べておいた。
八岐大蛇がやってきて、酒を飲みだし酔いがまわったところで
須佐之男命は急襲した。
鏡池
櫛稲田姫が鏡に使ったていた池。
八岐大蛇を酔わせる酒甕は、この泉の前に並べられた。
どんな旱魃でも水が絶えることがなかったという。澄んだ水面は、当に鏡。
須佐之男命に、八岐大蛇は討たれた。
八岐大蛇が火を吐いて逃げた「火の谷(樋の谷)」という地名が今も残る。
【伊賀武神社】島根県奥出雲町佐伯116
ご祭神 五十猛命(スサノオの御子)
八頭に鎮座していた八重垣神社をこちらに遷し、須佐之男命と櫛稲田姫を共に祭っている。
向かって左の小さな社が「八重垣神社」
社殿で待っていてくれた、モリアオガエル🐸
【須我神社】八雲立つ日本初の宮
須賀神社とも。
古事記〜
八岐大蛇を退治した後、スサノオはこの地にやって来て櫛稲田姫と共に住む宮を造ることにした。
そして『我が心、須賀須賀しい(清々しい)』とおっしゃられた為、
この地は『須賀』と呼ばれるようになった。
車で10分ほど離れたところに奥宮があり、二社参りがオススメ
八雲山登山口から400mほど登ったところに須佐之男命と櫛稲田姫の夫婦岩がある。
「登山口の看板」
ご神体の【夫婦岩】
御子岩と三つ並んでいた。
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古事記では、
「スサノオは五十猛と肥(斐川)の河の上流、鳥髪に天降り、八岐大蛇を退治した」とあるが、
鳥髪峰(鳥上山)は、今は船通山といい、八岐大蛇の棲みかだった山。
頂上には八岐大蛇の『退治碑』がある。
【鳥髪の峰】島根県奥泉町竹崎
(亀石コース登山口より頂上まで1.5時間)
標高1142m 船通山
登山口までは車で。私は、登山客が引ける夕方5時頃をねらって登山することが多い。急いで登る、、
船通山には須佐之男命が御子・五十猛と共に新羅より天降ったとの伝承があるらしい、、
夕方からの登山で雨も降り、幻想的な雰囲気。
亀石コースと鳥上滝コースがありどちらも所要時間は同じくらい、
楽だという亀石コースの方から登った。頂上100m手前で両コースは合流する。
なんというか、、霧とも雨ともつかない靄に包まれ、
このまま神隠しにあってしまうのではないか…というくらい幻想的。
異世界ゲート感たっぷりの登山だった👽
ちょと怖め😅
最初がきつかったがベンチがあり、途中は平坦な道が結構続き後半はなんとかもった。
登頂
当然、誰もいない。雨にけむる山に一人。
須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、発見した『天叢雲剣』のモニュメントが立っている。
船通山は島根県(出雲の国)と鳥取県(伯耆の国)にまたがる山で、
双方の観光協会が立てたものらしい。天叢雲剣に相応しく、雨に曇っていた。
『鳥髪宮』
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八岐大蛇(ヤマタのオロチ)には諸説ある。
ここから先は、タイトルの♡ロマンスロードとはうって変わって
八岐大蛇との⚔️戦いのお話しです。
長くなってきましたが、興味のある方はご覧下さい。😌🙏
ヤマタのオロチの正体とは?
諸説あります。
アジア北東にいたオロチ族(オロチョン族)が南方経由で渡来してきて
出雲に盤踞していたが、須佐之男に討伐された。
或いは『ヤマトのオロチ』
ヤマト傘下の製鉄部族だったのかもしれないし、八頭の大蛇(ヤタのオロチ族)八頭にいたオロチ族なのかもしれない、
蛇をトーテムとする部族だったか、
八岐に別れる斐川の流れを八又の蛇に例えたのかもしれない、、等と言われています。
何れにしろ、
先住の製鉄部族が追い払われて新たな権力者が
『製鉄の地』出雲を征覇したという事は確かだ。
須佐之男が活躍したと思われる弥生時代。
紀元1世紀前後はまだ銅剣と鉄剣の混在が残り、
銅剣の部族達は製鉄技術を持つ鉄の部族には太刀打ち出来なかった。
(☝️文字通り鉄剣に折られる)
剣で戦うことが出来ない以上、
姫を差し出して隷属する部族となるか、
須佐之男が酒に酔わせて八岐大蛇を討った時の様な奇襲で、
一発逆転の勝利を狙うしかない。
(火計などの策略も重要🔥🔥)
須佐之男が出雲へやってきて、八岐大蛇を討って、
『八岐大蛇の尾』すなわち八岐大蛇が棲家にした鳥髪の斐川の源流地点から
『天叢雲剣』を発見した神話は、
こうした製鉄部族の覇権交代のエピソードだ。
長崎県の対馬が、人として生きた時代の須佐之男を感じる聖地だとしたら、
島根県の出雲は、人として生きた須佐之男が神話化された聖地といえるかもしれない。
須佐之男と八岐大蛇の戦いは、
天孫族と出雲族の戦いを暗示していて
或いは
天孫族系同士の覇権争いだったという説もある。
古事記の、須佐之男の襲撃で八岐大蛇は『火を吐きながら逃げた』というエピソードは、火計を使い、又は火矢を使い逃げたという事だ。
火は製鉄にも欠かせないが、戦いにも欠かせないもの。
後世、スサノオが発見した天叢雲剣は天皇家の神剣となり日本武尊(ヤマトタケル)が拝受したが、日本武尊が火難に遭った時ら脱出の迎火に使った『火打石』もやはり伯母の倭姫から授かった王家の神器だ。
次回の「スサノオⅪ」でまた詳しく書きますが「火」は出雲では重要で、
(🙄まだ続くんか)
出雲大社の鎮火祭では毎年、熊野大社に火をきり出す臼杵を頂く。
火嗣の継承儀礼があるのが出雲の由緒だ。
話しは、中部地方の愛知県に飛ぶが愛知県尾張の国😅🙏
尾張氏の始祖『天火明命』→『天香久山』→『天村雲命』
と、続いてるのも興味深い。天叢雲剣と同じ名を持つミコトが、火明のミコトの一族にいるというのも何か関係が有りそうだ、😮
出雲に話しを戻して、、🙏😅
古事記とほぼ同時期に出雲で編纂された【出雲国風土記】は、現存する唯一の完全本だが、他の風土記のように
『古事記』『日本書紀』に被る内容が全く書かれていなくて、スサノオに至っては登場すらしない😂☝️
スサノオの御子ツルシヒコが、、等名前だけが4カ所登場するのみ🤨
八岐大蛇も出雲国風土記には登場しない。
この辺りも何やら事情があるのかもしれない、、🤔
古事記では「肥の河の上流、鳥髪峰」
出雲国風土記では『斐川の源流、鳥上山』と、
斐川=肥の河
鳥髪=鳥上山の地名だけは割と合致がみられるので、
全く別々の場所を記している訳ではない。
古事記はスサノオから天照大神へ皇統が移ったことを強調するために、スサノオの神話をつくり出したと思われる。
そして、出雲国風土記ではスサノオの御子を登場させスサノオの神話に一切触れていないのも、そこに対する無言の主張ともとれるかもしれない、、😑
対照的なのが備後国風土記だ。
次回の投稿『裏出雲』でも触れるが、奥出雲は備後国(広島県)と隣り合う。
備後の国風土記といえば『蘇民将来』のエピソードで、スサノオと八坂神社などに祀られている牛頭天王が結びつけられている唯一の出典だ。
備後国風土記〜
『武塔天神(牛頭天皇)が嫁を探しにきた。宿を借りようと長者・巨旦将来に頼んだが断わられ、兄の蘇民将来は貧しいながらも暖かく迎えいれた。
嫁を娶った後に、武塔天神は蘇民将来のもとに顕われ感謝し、蘇民将来の娘と子孫を疫病から守ると約束したが、不遜な扱いをした弟は疫病で命を奪われた。そして「吾はハヤスサノオの神である」と、武塔天神は本性を明かした。』
出雲国ではスサノオを登場させず
山の反対側の
備後国ではスサノオを登場させツメ跡を残してる、、😳
この裏表の関係はなんなのだろう、🤔
鳥上山(=今の船通山)は砂鉄の産地で、
奥出雲では古くから製鉄が盛んだった。
考古学は苦手だが😅荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡(銅剣・銅鐸)など、
弥生考古学最大級の遺跡があり、出雲へはいつかまた足を運んでみたい。
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この一ヵ月、毎週末
関東、近畿、中部、九州、東北、中国地方と、
スサノオ様を祭る神社の列島巡りをしてきましたが、
図らずながら、
【人として生きたスサノオ】九州
↓
【神話になったスサノオ】中国
↓
【信仰になったスサノオ】近畿・中部
↓
【現代につづくスサノオ】東北
と、西から東へ
須佐之男命二千年の歴史を周る旅が出来たかと思います😌🙏
最後まで、長い文章にお付き合い頂きありがとうございました🙏
あと少し、スサノオ二千年の旅は続きます、、🛸✨✨
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