ちゅう年マンデーフライデー

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シネマな休日、20世紀少年は2度ベルを鳴らさない?

2008年09月08日 | 映画
 土曜日とはいえ、18時40分からの最終回ならきっと空いているだろうという予測どおり、わが街の映画館では「20世紀少年」(堤幸彦監督)も20%くらいの入りで観ることができた。原作漫画は超ベストセラー、それゆえ漫画と映画の比較があれこれいわれがちだが、映画はスクリーンに映し出された映像以外ではありえないのだから、漫画との比較などおよそ無駄なことだ。

 そもそも脚本に原作者たちの名前が入っていることが、原作の解体が困難であったことを感じさせる。そうした環境の中で、監督はよくやったという声もあるようだが、「徹底して原作に似せた」というように、映画であることを放棄し、敗北感を自ら制作意図として語らなければならないのだから、2作目からは監督を替えるべきだろう。無理なら3作目でもいい。ドリームワークスにでも頼むべきだろう。というより、コミックス22巻+2巻の大作という原作の長大さへの屈従と3回うまい汁を吸おうという製作者の目論見から、3部作というスケールになったのだろうが、これをせいぜい2時間半程度にまとめるのが映画人の腕ではないのか。世界征服を目論む邪悪なカルト教団と幼馴染を中心とした市井の戦士たちの戦いを描いた近未来冒険アクション、これでいいのだ。

 ところが、残念ながらこの監督には映画的な才能が欠如している。ヒーローと悪役の登場の仕方は冒険活劇ではいかにあるべきか、その思慮さえ欠いている。初めて「ともだち」が登場する集会でのサスペンスの欠如(それゆえカルト教団の不気味ささえ表現できない)、ロックコンサートでともだちが、空中浮遊というイリュージョン的な演出のなかで、さながら降臨するように登場するこの映画の中で最も重要なシーンの一つを、浮遊する足を背後からとらえたアップ(会場の聴衆は驚きの表情だが、映画の観客が驚く演出をすべきだろう)、同様の前面のアップ、引きの全身を入れたショットという、まったく緊張感のないショットでつないでしまうという安直さで処理してしまったこと、これにはガッカリだった。

 まあ、それほど期待していたわけではないけれど、「原作に似せた」というキャスティングはなかなか面白かった。とりわけトヨエツのオッチョ、石橋蓮司の万丈目は秀逸。誰が作曲したのかエンディングロールのバックにかかるケンジの歌がなかなかよい曲であった。

 この日は午後から、録画してあったルキノ・ヴィスコンティ監督「郵便配達人は2度ベルを鳴らす」を、夜中のBSで中原俊監督「コキーユ」を鑑賞して、けっこうシネマな一日なのだった。「郵便~」も「コキーユ」もいわば不倫もののメロドラマなのだが、「コキーユ」は中年のせつない恋を描いた儲けものの佳作。でも女性はこの映画はダメだと思う。徹底して男性目線のストーリーだもの。風吹ジュンがせつなくていい。ジュンちゃん演じる直子にとって同級生の浦山(小林薫)は、中学時代からのあこがれ。その思いが30年後に同窓会をきっかけに伝わり、やがて2人は一夜を共にする。妻と別れることを切り出す浦山に直子は、「あなたの幸せをこわすつもりはない、恋ができて私は幸せ、また同窓会で会えればいい」と幸せそうに語る。こんな男にとって都合がよすぎる不倫相手がいていいものか。いてほしい(風吹ジュンなら)。それ故、浦山は直子の死という制裁を受けなければならない。映画は、直子を失った浦山が、数年後(翌年?)の同窓会で直子を追悼する場面で人目も憚らず号泣するシーンで終わるのだが、僕も同じ立場だったら号泣するよと共感してしまう、それもこれも風吹ジュンの直子があまりにせつなくてかわいい(ちょっとこわい)からだ。そんな映画なのだった。
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