ちゅう年マンデーフライデー

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誤読も楽し。三島由紀夫「午後の曳航」は反米愛国小説?。

2010年08月17日 | 
 三島由紀夫「午後の曳航」を読む。中学生の子供をもつ未亡人が、偶然知り合った2等航海士の船員と恋に陥りやがて再婚する、という物語はよくあるラブストーリーだ。だが、その関係が中学生の一人息子が目をこらすのぞき穴の向こうの寝室で繰り広げられ、その少年の瞳に映じた物語として語られるとき、にわかにそれはスキャンダラスで背徳的な匂いを漂わせる。

 三島由紀夫の小説は、しばしば未亡人とマドロスの恋といったきわめて通俗的な物語の枠組みを借りながら、聖と俗、生と死について語る。「午後の曳航」では、予め堕落することを決定づけられた、大人になりたくない少年たちの生に対する復讐の営みと、母と船乗りの、とりわけ船乗りの堕落という大人の世界が対比的に描かれ、母親の再婚と船乗りの処刑という終末に向かって物語は加速していく。「午後の曳航」は、未亡人と船乗りの恋という通俗性と、13歳にして人生に絶望した少年たちの虚無と狂気を描く哲学が融合した実に完璧な物語だと思う。しかし、それは少年たちの性を隠ぺいすることで、歌謡ドラマの意匠の上に形而上学的な物語を構築することに成功したのだ。この物語は、少年たちの性を巧妙に回避することで、成り立っているのではないか。

 竜二と情交した翌朝店に出た母房子の官能と動揺を、倒れるパラソルできわめて映像的に描いてみせているのに、例えば少年登が、初めてのぞき穴から母の裸体を見たときの性的な興奮の証しは語られない。房子と船乗り竜二との情交についても、窓際に裸で佇む竜二の裸体が天に向かって屹立する一物をもったシルエットとして描かれることはあっても、それを覗き見る登の変化や性的興奮は素通りされる。母親と船乗りとの肉の交わりの音や喘ぎや咆哮を少年はどう感じたのだろうか。あるいは、登たち少年グループが猫を殺して、その腹を裂き、小さな心臓を引きずり出して手で握りつぶすときの官能や性的興奮。果たしてこの13歳の少年たちは、勃起したり射精することはなかったのだろうか。

 こうした殺生が性的な代替え行為であることは、酒鬼薔薇事件などの少年犯罪や連続少女殺しなどの犯罪でも語られている。「午後の曳航」の少年たちの処刑という行為が、その後起きる数多の少年による猟奇的犯罪や連続殺人などを予見していると述べるのは早計だろう。なぜなら、登たちの少年グループの行為は、性的な衝動とは無関係な形而上的な行為であって、大人になることを拒否するための、あるいは、大人になることを拒絶できない自らへの生に対する絶望と復讐という極めて観念的な営みとして描かれているからだ。

 だから、少年たちにとって本来、肉体の中身は空虚であるべきなのだが、処刑した猫の腹からは赤い臓物が飛び出す。そのことを少年たちがどうとらえたかが描かれていない。登が所属する優等生のグループは、堕落した海の男である竜二を処刑するためおびき出し、睡眠薬入りの紅茶を飲ませて、それぞれが持ち寄った刃物で、猫のように切り刻んで処刑することを暗示して物語は終わる。だが、猫がそうであったように、竜二の肉体も、腹を裂けば臓物が飛び出す生き物であり、決して肉の皮だけに包まれた空虚な伽藍堂ではないということを、どう理解するのだろうか。人間はただの糞袋だとでもいうのだろうか。

 それにしても、なぜ少年は13歳だったのか。小説では刑事罰を免れるからと暗示されるが、むしろ8月に読むと、マッカーサーが日本人は12歳並みだといった言葉を思い出す。外国航路の2等航海士竜二は進駐軍。輸入洋品店の母は外国人に国を売った日本人。堕落を憎む少年たちは、さながら12歳と揶揄された聖なるものを貴ぶ日本人と読めないか。すなわち、これは、反米愛国小説であると。誤読もまた楽しい。





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