ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

幼いころの記憶には日常や娯楽の風景の中に戦争があふれている。

2010年08月06日 | アフター・アワーズ
 毎年、8月15日が近づくと本屋の店頭に戦争関係の本が目立つようになる。日本で、かつての戦争について一番考えているのはもしかしたら本屋かもしれない。そんなわけで、僕もこの時期になると戦争について考えることが少なくない。

 小学生のころ、風邪で熱を出して寝込むと戦争の夢をよく見た。特攻でアメリカの軍艦にゼロ戦や回天で突っ込む夢、赤紙が来たと聞き、逃亡して憲兵に追いかけられる夢。これらの夢の映像のもとは、グロテスクな貸本漫画の戦争ものの絵だった。僕が生まれたのは、GHQの占領が終わった後、TV放送が始まった年なので、それまでGHQに禁止されていたチャンバラ映画、黄金バットのようなキャラクターが解禁され、「月光仮面」「赤胴鈴之助」などの漫画が流行った。貸本漫画では、戦記物の漫画があふれていた。家には田河水泡の漫画「のらくろ」が数冊あって、絵本がわりによく読んでいた。少年マガジン連載のちば・てつや「紫電改のタカ」を夢中で読んだのは10歳くらいだろうか。漫画、映画、TV、娯楽の中に戦争があふれていたのだった。

 家のアルバムを見ると、誰彼といわず必ず軍服を着た写真がある。飛行服を着た写真の人は特攻隊だったが出陣しないまま終戦になったという話だった。戦争未亡人から再婚した叔母(伯母)。叔母の家に遊びに行くと、近所に住む、戦死した前夫の実家にも連れて行かれた。小学校に上がった頃では、まだその関係がよく分からなかった。

 赤紙が来て逃げたらどうなるのと母に聞くと、銃殺されると脅された。それでも戦争に行くのは嫌だと思った。どこまで逃げれば銃殺されずに済むだろうと、奥秩父山中での逃亡生活を思い描いたことがあった。母の話では、徴兵を拒否して逃亡してきた男が山狩りで捕まったことがあったという。

 僕の田舎では、終戦間際のある日グラマンが一機飛んできて、機銃掃射をし、町の人が一人亡くなったという話を聞いたことがある。もしかしたらほかの町の話かもしれないが、もう少しで戦争が終わったのにと、幼いながら空しさを感じたことがあった。

 昭和30年代、小学生のころ、田舎の冬祭りに来る見世物小屋には、蛇女などと一緒に原爆で被害を受けたというふれ込みの人が体を晒していた。まだ、そんな時代だった。

 こんなことを思い出していると切がない。でも、今度のお盆では母に昔の話をきいておこう。

 今日は、広島の原爆記念日。僕の母は、昭和20年、18歳の夏、姉を訪ねて広島へ旅行する予定があったという。義兄が広島の高等師範で教員をしていた関係だが、直前に金沢に転勤になったので、その計画は中止になったらしい。もっとも金沢も広島や長崎と並び、原爆投下の有力候補地だったらしいが。もし、転勤せずにいたら母も被爆していたかもしれないと話していた。もし、そうだったら僕も生まれていなかったかもしれない。幸い僕は生まれ、母はまだ元気でいる。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 不覚にも1周忌を前に初めて知... | トップ | 超混雑「オルセー美術館展」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

アフター・アワーズ」カテゴリの最新記事