ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

新宿夜会事件簿

2006年01月16日 | アフター・アワーズ
 妖怪好きHG、鳩踏み女、マンフラという性別、年齢も異なる3人で新宿沖縄食堂で夜会、さらにゴールデン街へと繰り出し、オリオンビール、シークワーサーサワー、久米仙お湯割り、バーボンソーダとかなり進んで、いささか酩酊したが、HGは仕事で北海道から金沢に行くので、そのついでに泉鏡花にちなんだ場所をたずねて来るとか、相変わらず仕事より妖怪を優先しているような不埒ぶり、鳩踏み女は、飲めば飲むほどに凶暴性を増し、妖怪頭蓋かじり女に変身、マンフラのアタマをかじるは、二の腕はかじるは、帰ってみればわが身体は歯形だらけ、肴はほかにあるだろうよ、まったく。防御だけでは悔しいのでかじられついでに、どさくさまぎれに鳩踏み女の乳をもんでやった。
 HGさん金沢で雪女にでも抱かれてくるんだろう。 
 鳩踏み女は、京都で新年会をやるらしい。京都の皆さんアタマかじられないように気をつけて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

寒い! 「珍達そば」くいたい!

2006年01月13日 | アフター・アワーズ
 こう寒くなると「珍達そば」が喰いたくなる。
 
 「関東甲信越で有名な」がキャッチフレーズの埼玉県秩父市限定のローカルな中華そばである。スープはしょうゆ味、細いまっすぐな麺で、具はざっといためた斜め切りの深谷ねぎと豚ばら肉の細切れだけ、ごま油で調味したその味はくせになる。中華風根深そばといった趣で、どんぶりからあふれこぼれそうなあつあつスープにねぎと豚肉がたっぷり、その下から細い麺を箸で掬いだすようにして食すのである。濃い目のスープにねぎと豚肉の甘さがなじみ、舌の火傷に気をつけながらすする麺が旨い。化学調味料もつかっていようが、そんなことはかまわない。ローカルな大衆食堂ならではの極みの味なのだ。
 
 これを喰ったからといってチンが立つわけではない。珍にして極みに達しているから珍達なのだ。ラーメンブームといえどここまではまだ荒らされてはいまい。(埼玉のラーメン本に出ていたが)できれば有名にならないことを祈るばかりだ。といいつつ紹介しちゃっているんだけどね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

折れ口つづき

2006年01月12日 | アフター・アワーズ
 江戸っ子は葬式のことを折れ口なんていった。新年早々、折れ口が多い。今日も通夜、あさっても通夜。

 ぼくの田舎では、通夜の香典は、紅白の熨斗袋にお見舞いと入れて出す。よそから来た弔問客は紅白袋を見てたいがい驚く。すっかりご無沙汰していたが、お見舞いに来たところお亡くなりになっていたとは存じませんで失礼しました。そういう意味で紅白なのだ。
 
 葬儀屋が葬儀をしきるようになって、どこへいっても葬儀のスタイルがあまりかわらなくなってきたが、それでも宗派によって弔いの仕方が違うのはもちろんだが、火葬の手順だとか、香典の勘定の仕方だとか、香典返しの大きさだとか地方によってかなり異なった風習があるので、地方に行けばいくほど折れ口はおもしろい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三角な世界か草の枕か

2006年01月11日 | アフター・アワーズ
 田舎へ帰る列車で進行方向に背を向けて座り、窓の外に流れて遠のき消えていく風景を見ながら、いま、僕は過去を見ていると思った。なるほど時速100キロほどで遠のいていくのは畑や川や山ばかりではない。何秒か前に自分がいた世界、その距離感は過ぎた時間をそのままに見ているのだった。そうしてみるとなぜか自分が乗っている列車が未来というよりは、死という終着駅に向かって走っているような心持になった。この脳が痺れるような感じは悪くない。だから、対面式の箱席に座るときは進行方向に背を向けて座ることをおすすめしたい。
 そんなことを思い出しながら、どうも、また「草枕」が気になった。

 漱石「草枕」の英訳は「The Three-Cornered World」というのだそうだ。例のグレン・グールドが偏愛した「草枕」である。訳者のアラン・ターニー氏は最初「The Grass Pillow」と訳したそうだが、次の一節から、「三角の世界」がタイトルになったということが横田庄一郎著「『草枕』変奏曲」に書かれてあった。この本は、グールドと「草枕」の関係を解き明かした興味深い本だ。

「われわれは草鞋旅行をする間、朝から晩まで苦しい、苦しいと不平を鳴らしつづけているが、人に向って曾遊を説く時分には、不平らしい様子は少しも見せぬ。面白かった事、愉快であった事は無論、昔の不平をさえ得意に喋々して、したり顔である。これはあえて自ら欺くの、人を偽わるのと云う了見ではない。旅行をする間は常人の心持ちで、曾遊を語るときはすでに詩人の態度にあるから、こんな矛盾が起る。して見ると四角な世界から常識と名のつく、一角を磨滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。」

 草枕とは、草を枕にするようなあてのない旅というほどの意味だそうだが、ここでいう草鞋旅行などは、草枕だろう。Three-Cornered WorldとGrass Pillowの違いを英語圏の人々はどのように感じるのだろうか。そして、ジュンク堂でざっと立ち読みしただけだけれど「『草枕』変奏曲」からだけでは、なぜグールドが「草枕」を偏愛したのか、たとえば芸術論に共感したのか、文体のリズムに共感したのか、そういうことがまだよく分からないのだった。まったく、このグールドと「草枕」の関係は気になってしまうので、グールドの「ゴールドベルク変奏曲」を聴きながら今日は帰ろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「草枕」なお正月

2006年01月10日 | 
 年が明けると雑誌「東京人」が漱石の特集を組んだり、今秋には「夢十夜」がオムニバス形式で映画化されるという話が伝わったり、「坊ちゃん」100周年とばかり漱石の名前がじわじわと出始めた。

 そもそも山田風太郎の明治ものを読んでいて、その流れで気になり始めたのが漱石だった。暮れに「坊ちゃん」「三四郎」「二百十日」と読んで、新年は「草枕」で始まった。「草枕」も今年で100周年だ。この小説はピアニストのグレン・グールドの愛読書であったらしい。くわしくそのわけを知らないが、漱石とグールドという組み合わせはおもしろい。予定調和的なメロドラマを排したという意味でグールドのバッハと「草枕」はよく似ている。「草枕」でいう非人情とは反メロドラマだろう。
 
 「坊ちゃん」のマドンナにしても「三四郎」の美禰子にしても、美貌の人なのだろうけど結局は俗人で可愛くない。それに比べて「草枕」の那美さんは、漱石の描く女性にしては珍しく艶っぽくていい。西洋画の裸体画に負けじと那美さんの美しさを言葉にしようとする風呂場のシーン、元の旦那との邂逅シーンなどなど、その立ち振る舞いを描くときの筆致ははぎれがいい。
 那美さんは、周囲からはキ印なんて噂されていて、その行動も突拍子もないが、最後の停車場のシーンで見せる「憐れ」に、ほろりとさせられる。だが、この刹那漱石は、次のような一節をもってこの小説を終わらせてしまい、ぎりぎりメロドラマを回避するのである。

「それだ! それだ! それが出れば画になりますよ」と余は那美さんの肩を叩きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟の際に成就したのである。

 画工である主人公は、那美さんから私の絵を描いてと頼まれるのだが、絵にするにはただ一つ「憐れ」が足りないからと描かないでいた。その「憐れ」が最後の別れのシーンに出てくるのだが、凡庸な作家なら、ここは遠のく列車を涙で見送る那美さんを描くところだろう。だが、漱石はまるで落語の下げのようにして物語を閉じる。

 それにしても、出征する那美さんの従弟久一を城下まで見送る終章の、舟で川を下る場面から終幕へのよどみない文の流れはすばらしい。小説のを読むことの幸福に浸った「草枕」なお正月なのだった。

 もう3年ほど前だろうか。阿蘇の裏の秘湯といわれる温泉で、わずかな灯下、露天風呂につかっていたら、岩陰から湯煙にうっすらと白い影がたちのぼり、やがて灯下に白くつやつやとした女性の尻と背中となって黒い闇に消えていったことがあった。あれは、那美さんだったのだろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする