ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

「731」の教訓。悪いことをしたらシラを切り続けろ。

2006年07月31日 | 
 8月15日が近くなると、なぜか昭和史ものに手が行く。

 青木富貴子著「731」を読了。米国では、731部隊は「unit731」として知られているらしい。満州のハルピン近郊平房に巨大な細菌兵器実験・製造施設をつくり、731部隊の帝王として君臨した石井四郎中将。その戦後の日記のようなメモ・ノートが元隊員家族から提供され、その解読を通して、終戦後の石井の足取りや石井をはじめ731部隊隊員たちの戦犯免責をめぐる仁義なき暗闘、マッカーサーGHQの謀略、米ソの駆け引きなどが少しずつ明らかにされる。これらは、すでに出版された多くの「731部隊もの」で周知なことが多く、それが石井の戦後ノートの解読で裏付けられたというのが本書の読ませどころだ。

 731部隊のことはすべて墓場まで持って行け。絶対口外するなという石井の隊員たちへの脅しも、ソ連軍捕虜となった隊員や、自分だけは助かりたいという主導者らの転向によって明らかになり、数々の資料からも、いまや誰もがこの部隊の戦争犯罪を知っている。しかし戦犯を免れた重鎮たちは、戦後の日本の医学界を臆面もなく生き延び、ひたすら口を閉ざし続けた。わずかな者が口を開いても「あの時代のことだから仕方がなかった」に収斂される。

一部には真摯な元隊員(下級兵士や技師たち)がいたことも事実だ。確かにやったのは仕方がない、でも多くの医師たちが戦後の人生の中で清算しなかったことは許されない。戦後を生き延びた731の医師たちには犯罪の意識なんてなかった。軍人としての矜持もない。お国のためでもない。陛下に罪が及ぶというのもいい逃れだ。戦後の行動を見れば個人の欲や業績しか頭になかったことが分かる。軍医という環境が育てた歪んだ精神構造もあるだろう。しかし医学者として731に参加した医師たちは、軍人ではなっかがゆえに、敵など意識しなかったのかもしれない。それは、敵という人間ではなく、マルタというサンプルに過ぎなかったのだ。傲慢な医者を生み出す風土は今もあまり変わっていない。

 戦後、新宿若松町の石井の家は「若松荘」とか「石井旅館」とかいわれ、米軍相手の売春宿になっていたという。経済的には決して豊かではなっかったらしく、石井自身は、米軍相手に要領よく立ち回ったほうではなかったようだが、身内を守ろうという石井の執念が感じられるエピソードだった。石井には、すべての責任は自分で取ろうという意識はあったようだし、自殺も選択肢の中にあったようだ。だが、それは倫理的なものではなかったのだと思う。

 731部隊の人体実験に基づき貴重な細菌戦実験データほしさから戦犯を免責したことを認めないアメリカ、細菌戦部隊としての731の存在を、いまだ認めない日本。すべてがシラをきり続けている。アメリカにわたった医師19人の告白レポートは日本に帰ってきているらしいがその事実も隠蔽されたままだ。 

 悪いことをしたら、ばれてもひたすらシラをきり続けろ!
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名優ジム・トンプスンかい

2006年07月27日 | 映画
 ジム・トンプスンは昔懐かしいTVドラマ「ドクター・キルディア」の脚本を書いていたとか、キューブリックの「現金に体を張れ」「突撃」の脚本を担当したとか、もちろん「ゲッタウェイ」の原作者でもあるようにたいへん映画とかかわりのある作家なのだが、「トンプスン最強本」を立ち読みしていたらなんと、レイモンド・チャンドラー原作のディック・リチャーズ監督「さらば愛しき女よ」にも俳優で出ていたというのには驚いた。
 
 ロバート・ミッチャムがマーロウ、で謎の美女グレイル夫人がシャーロット・ランプリング。で、その夫の富豪役がなんとジム・トンプスンなのだという。マーロウもの映画ではロバート・アルトマン「ロンググッドバイ」をこよなく愛すが、「最強本」掲載の写真を見ればゴダール「ピエロ」のサミュエル・フラーにも引けを取らない名優ぶりではないか。
 
 そんなわけで、トンプスンの「アフター・ダーク」を買い、これまたサム・ペキンパーの傑作「ゲッタウェイ」のDVDが980円だったので早速購入してしまった。しかも紀伊国屋ではさらに10%オフであった。ちなみに一緒に購入した「フェリーニのローマ」は20%オフでした。この映画、監督は当初ボグダノヴィッチが予定されていたというが、ペキンパーに決まってるだろうよ。ペキンパー、トンプスン、マックイーン、そして音楽がクインシー・ジョーンズとくればつまらないわけがない。で、電車に乗る前に飲まずにいられなくなってセガフレードでビールしたのだった。
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イヤミ・エヴァンスのドルフィンダンスにシェー

2006年07月24日 | 音楽
ビル・エヴァンス「I Will Say Goodbye」はなかなかいいアルバムだ。ファンタジーレーベル最後の録音(1977年)。この頃のちょび髭に髪の毛がイヤミのようなエヴァンスの風貌はあまり好きではないが、音はすばらしい。

ミッシェル・ルグランのセンチメンタルなタイトル曲も抑制をきかせてドラマチックにしないところがいい。夏の夕暮れどき、涼風を感じながらビール、そして「Dolphin Dance」。ハンコックの名曲。老人と小さなボートで沖へ出た少年は、ゆっくりと水平線に沈む大きな太陽を背にシルエットになって映るイルカの遊泳を見つめている。その遠くの風景をみつめる少年の胸に宿る郷愁をゆるやかなスイング感で表したのがハンコックの演奏なら(と勝手にイメージしているだけだけれど)、エヴァンスの演奏は、そうした物語性をグルーヴ感で排除しながらも美しい音の連なりで聴かせる。また、ビール。次の「Seascape」も美しい。

そして最後がオーソン・ウエルズ監督の映画「フェイク」のテーマで「Orson's Theme」。これもルグランの曲で、小粋なワルツ。この「フェイク」のテーマを最後に持ってきたわけは何かあるのだろうかと考えてみたくなるが、ビールもおいしく飲めたし、「ワルツ・フォー・デビー」を聴いて、ビル・エヴァンスが好きって言っている女の子に聴かせるなら、この「I Will Say Goodbye」がいいかも。タイトルで誤解されても知らないけれどね。

 とにかくイヤミ・エヴァンスはすごおいぞ、シェーッ。
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世界に一つの「若冲」

2006年07月20日 | 絵画
 東京国立博物館でプライスコレクション「若冲と江戸絵画」展を観た。

 伊藤若冲を中心に江戸中期の画家たち、江戸琳派の画家たちの作品100点あまりが展示されている。「若冲と」と銘打っているわりに若冲の作品数は少ないが、巨大にして奇想な「鳥獣花木図屏風」が初見参というあたりが見どころか。巨象をはじめ外来の鳥獣で埋め尽くされた巨大な屏風絵は、86000個の分割された桝で構成されており、タイル画や初期のCGのようにモダンなたたずまいだ。

 若冲といえば極彩色の鶏であり、その超絶的なテクニックには誰もが驚くが、今回の作品の中では水墨の鶴図に感動した。若冲の筆の躍動と技巧とアーチストとしてのセンスが一体となり、江戸と現代を超えたみごとな表現だと思った。
 
 また、円山応挙、長沢芦雪、曽我蕭白なども数点ずつ見られるが、若冲以降の世代である江戸後期の酒井抱一、鈴木其一といった江戸琳派の作品郡がすばらしかった。もちろん光琳、宗達などに見られたエネルギッシュな革新性は薄れてはいるが、色彩と空間処理がスタイリッシュに洗練されていて、とても粋なアートなのだ。西洋とも中国とも違った江戸文化の爛熟ぶりがうかがえて、世界に一つのジャパンアートを感じてしまったのだった。屏風画の展示はライティングが変化するよう工夫されていて、これも楽しかった。それにしても、これだけの作品が海外に流出したとはね。
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「死ぬほどいい女」はやばい

2006年07月19日 | 
 ジム・トンプスン「死ぬほどいい女(A Hell of a Woman)」はやばい。

 死ぬほどいい女とは、主人公ドリーことフランク・ディロンにとってのいい女なのだろうか。普通に考えれば。それは、この小説のヒロインでもあるモナといわれる女だが、実は最終章で唐突に出てきて、ほとんど脈絡なく物語を終わらせてしまうニューヨークの資産家の女こそ「A Hell of a Woman」ではないかと、結末を読むと思ってしまう。とりわけこの最終章は、支離滅裂で、異なったストーリーが中明朝と特太明朝で並列して同時進行して終わるという拵えなのだが、実際この部分が、続きなのか、単なる妄想なのかも判然としない。

 だが、そんなことはどうでもよい。ミステリーとか犯罪小説として読むとこれほどいいかげんな小説はないが、これはいかれた野郎の頭のなかの、愛の不在の世界のレポートなのだから。トンプスンの世界では、まともなことを考えるやつは生きていけない。市民的常識、科学的な論証を口にすれば生きていられない。ご都合主義こそ生きる糧だ。思い描いたストーリーを推進していくには嘘に嘘を重ね、障害になるものは殺してしまえばいい、あとは、世間が勝手に救済に導いてくれる。愛なき世界の救済、それはトンプスンの世界では虚無以外の何ものでもない。この最終章はなんなのか。死ぬほどいい女に会ったら気をつけよう。こっちが虚無の奈落に突き落とされることになる。

 それにしても、秋田の娘殺し、幼児殺しの鈴香という女はトンプスン的世界の住人に近い一人だと思う。娘を殺してもあの街から出て行こうと思わせる相手がいたのかどうか。隣の男の子に感づかれたと言う思い込みからの連続幼児殺人の偽装。嘘の積み重ね、あたかも、さあ、私を逮捕してちょうだいとメッセージを発信していたかのような行動。トンプスン的には「結局娘さんの死はやっぱり事故でした」と、あの家に帰してやるいう結末こそ鈴香という女を最も絶望させるのではないだろうか。
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ここはウイーン? ぜいたくな図書館

2006年07月19日 | 新☆東京物語
ここはウイーン? と錯覚してしまうようなたたずまいをみせているのが国際こども図書館。東京国立博物館を出て芸大方向に行った最初の信号を右に入る。黒田記念館の隣にある。エントランスと室内は安藤忠雄によって化粧直しされたが、外観はかくも堂々たる建物である。
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東京国立博物館の池

2006年07月19日 | 新☆東京物語
 東京国立博物館は奥が深い。このガラス扉を開けて、大理石のテラスから階段を下りると本館裏には池や茶室などがあり、夏の風に吹かれながら池の周りを散策したら気持ちよかろう。もちろんこの扉は開けられないが。
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くじけちゃならない人生にヒノテルの「スマイル」

2006年07月12日 | 音楽
「悲しくったってー、苦しくったってー、いつも微笑みを忘れないでね。微笑んでいればきっといいことあるさ」といった一昔前で言えば、明るい民青みたいな歌詞の曲なのだけれど、それでも「スマイル」はとてもいい曲だ。

 きわめつけは、やはりナットキング・コールだけれど、最初はトニー・ベネットが歌ってヒットしたらしい。アン・サリーもいいし、ホリー・コールのも、まあよかった。ちょっと前、トヨタの車のコマーシャルでロッド・スチュアートが歌い、エルビス・コステロ歌う「スマイル」がTVドラマのエンディングで使われていて、なんでまた、そんなに「スマイル」なのかいと思ったほど。

 ぼくが好きなのはヒノテルこと日野皓正の「Blue Smiles」というアルバムに入っている演奏だ。多分10年以上前のアルバムだと思うけれど今はきっと廃盤かな。この「スマイル」はややうたい過ぎという感じはあるものの、励まされてしまう演奏なのだ。どこか浪花節的な盛り上げ方がヒノテルらしいと思う半面、いつもアグレッシブに生きている人だからこそ演奏に説得力があって、幾度となく元気付けられた演奏なのだった。このアルバムはトランペッターのブルー・ミッチェルを偲んで捧げられたバラード集だが、「アイヴ・ネヴァー・ビーン・イン・ラヴ・ビフォー」が泣けます。名演です。
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シャブよりこわいジム・トンプスン

2006年07月12日 | 
 ポップス1280曲の紹介本かと手に取ったジム・トンプスン「ポップ1280」に、まるでシャブでも打たれたような(もちろん打ったことないけど)衝撃を受けて、すっかりジム・トンプスン漬けになってしまった今日この頃。

「ポップ1280」「おれの中の殺し屋」「失われた男」と扶桑社ミステリーの文庫版だけでは待ちきれず、ペーパーバック版「死ぬほどいい女」にも手を出す始末。これをやり続けるとリバウンドが怖い。みかけと外面はいいが狡猾で冷酷な内なる殺人者を抱えている主人公たちに共感してしまう私がこわい。だから、虚空に放り出されるような結末を迎える「失われた男」(The Nothing Man)には、むしろホッとさせられてしまうのだった。

「失われた男」が書かれた1950年代。アメリカン・ドリームと未曾有の経済成長の一方で冷戦や赤狩り、人種差別に揺れるアメリカ。それは、ブラックミュージックとしてのハードバップの隆盛というドラッグと隣り合わせの精神の解放が進んだ時代でもあった。クリントン・ブラウンは傷痍軍人手当てをもらう南カリフォルニアの地方都市のやり手新聞記者だ。だが、戦争で失ったのは、こともあろうにポコチンで、それをひた隠しに隠しながら、秘密が露呈される不安や思い込みから殺人を重ねていく。結末で警部のスチューキーと立場が逆転する、そのどんでん返しの妙がThe Nothing Manたる所以なのだが、死ぬこと、生きること、殺人者となること、男であることも奪われた存在としてしか存在できない「失われた男」は、虚無に酒を満たして生きるほかはないのだった。

 日本語には下品で汚い罵詈雑言のボキャブラリーが少ないので、なんでも「クソ」になってしまうと翻訳者を悩ませるくらい汚い言葉が連続し、舞台設定や主人公のマカロニウエスタン的アナーキーさという点では「ポップ1280」が勝るが、この小説が書かれた半世紀という時間を越えて、今という時代の虚無の姿を提示しているようで、すごいぞトンプスンと喝采を贈りたくなる快作なのだった。

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胸に頭突き、喜びは平手打ちで

2006年07月11日 | アフター・アワーズ
 これから流行るパフォーマンスは、気に入らないことを言ったやつには胸に頭突き、喜びを表すときは相手の頬の平手打ちか、髪の毛を引っ張ること。いうまでのなく今度のW杯でのジダンとガットゥーゾのパフォーマンスだ。この2人に、マラドーナがいなかったら、W杯はさぞかしつまらなかっただろう。イタリア映画「流されて」の下僕のような風貌のガットゥーゾは、試合になると体内麻薬が発生しているにちがいない。誰もが有終の美を思い描いていたジダンは、そうしたメロドラマを、一発の頭突きで拒否して見せた。真の哲学者であり、前衛アーチストなのだ。
怒ったら胸に頭突きを! 喜びは平手打ちで表せ!
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