ジム・トンプスン「死ぬほどいい女(A Hell of a Woman)」はやばい。
死ぬほどいい女とは、主人公ドリーことフランク・ディロンにとってのいい女なのだろうか。普通に考えれば。それは、この小説のヒロインでもあるモナといわれる女だが、実は最終章で唐突に出てきて、ほとんど脈絡なく物語を終わらせてしまうニューヨークの資産家の女こそ「A Hell of a Woman」ではないかと、結末を読むと思ってしまう。とりわけこの最終章は、支離滅裂で、異なったストーリーが中明朝と特太明朝で並列して同時進行して終わるという拵えなのだが、実際この部分が、続きなのか、単なる妄想なのかも判然としない。
だが、そんなことはどうでもよい。ミステリーとか犯罪小説として読むとこれほどいいかげんな小説はないが、これはいかれた野郎の頭のなかの、愛の不在の世界のレポートなのだから。トンプスンの世界では、まともなことを考えるやつは生きていけない。市民的常識、科学的な論証を口にすれば生きていられない。ご都合主義こそ生きる糧だ。思い描いたストーリーを推進していくには嘘に嘘を重ね、障害になるものは殺してしまえばいい、あとは、世間が勝手に救済に導いてくれる。愛なき世界の救済、それはトンプスンの世界では虚無以外の何ものでもない。この最終章はなんなのか。死ぬほどいい女に会ったら気をつけよう。こっちが虚無の奈落に突き落とされることになる。
それにしても、秋田の娘殺し、幼児殺しの鈴香という女はトンプスン的世界の住人に近い一人だと思う。娘を殺してもあの街から出て行こうと思わせる相手がいたのかどうか。隣の男の子に感づかれたと言う思い込みからの連続幼児殺人の偽装。嘘の積み重ね、あたかも、さあ、私を逮捕してちょうだいとメッセージを発信していたかのような行動。トンプスン的には「結局娘さんの死はやっぱり事故でした」と、あの家に帰してやるいう結末こそ鈴香という女を最も絶望させるのではないだろうか。
死ぬほどいい女とは、主人公ドリーことフランク・ディロンにとってのいい女なのだろうか。普通に考えれば。それは、この小説のヒロインでもあるモナといわれる女だが、実は最終章で唐突に出てきて、ほとんど脈絡なく物語を終わらせてしまうニューヨークの資産家の女こそ「A Hell of a Woman」ではないかと、結末を読むと思ってしまう。とりわけこの最終章は、支離滅裂で、異なったストーリーが中明朝と特太明朝で並列して同時進行して終わるという拵えなのだが、実際この部分が、続きなのか、単なる妄想なのかも判然としない。
だが、そんなことはどうでもよい。ミステリーとか犯罪小説として読むとこれほどいいかげんな小説はないが、これはいかれた野郎の頭のなかの、愛の不在の世界のレポートなのだから。トンプスンの世界では、まともなことを考えるやつは生きていけない。市民的常識、科学的な論証を口にすれば生きていられない。ご都合主義こそ生きる糧だ。思い描いたストーリーを推進していくには嘘に嘘を重ね、障害になるものは殺してしまえばいい、あとは、世間が勝手に救済に導いてくれる。愛なき世界の救済、それはトンプスンの世界では虚無以外の何ものでもない。この最終章はなんなのか。死ぬほどいい女に会ったら気をつけよう。こっちが虚無の奈落に突き落とされることになる。
それにしても、秋田の娘殺し、幼児殺しの鈴香という女はトンプスン的世界の住人に近い一人だと思う。娘を殺してもあの街から出て行こうと思わせる相手がいたのかどうか。隣の男の子に感づかれたと言う思い込みからの連続幼児殺人の偽装。嘘の積み重ね、あたかも、さあ、私を逮捕してちょうだいとメッセージを発信していたかのような行動。トンプスン的には「結局娘さんの死はやっぱり事故でした」と、あの家に帰してやるいう結末こそ鈴香という女を最も絶望させるのではないだろうか。