ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIK23

2016-03-13 08:16:43 | 日記
1983年7月Vol.19の表紙に掲げられているのは
「予言者たちの言葉は、地下鉄の壁や下宿屋の廊下に書かれている」という
「サウンド・オブ・サイレンス」の歌詞…

かつて「難解だ」と世界中で取り沙汰され、様々な解釈があるようですが
英語圏では「コミュニケーション不足の社会を歌ったもの」とか
「何も見ようとせず、知ろうとせずに
生きている人々に対する思い」という説が有力みたいです

前出の歌詞は、人々が作った「ネオンの神」の警告の言葉として
この曲の後半に登場するんだけど
「受け取り方は人それぞれ」という甲斐さんのご自身の曲に対する考え方を
地で行くような歌詞ですねぇ(笑)

ただ、この号の特集は「ニューヨーク」で
「GOLD」のレコーディング風景や
甲斐バンドのメンバー皆さんの様子がレポされていて
文字通り「ネオンの街」の「地下鉄の壁」などが目に浮かびます(笑)

ちなみに、レポを書かれた田家秀樹さんによると…
「この街はオトナの街だ。自分の歩幅と自分の歩き方と
そして自分の方向を持って歩いている人達の街だ
この街は、甲斐バンドにはよく似合っている街だった」ようだ

1982年11月号に掲載されていた
「虜」のレコーディング時のレポと比較してみると…

前回は「海外気分もなく、お祭り気分もない
旅行者だと思うヒマもないくらいに
音楽のことしかない時間が過ぎて行った」らしく

渡米の前日は、ステージを終えてすぐ東京に戻り、スタジオに入って
最後の1曲を録り、一睡もしないまま出発というスケジュールで
「ニューヨークで寝よう」が合言葉だったみたいだけど

甲斐さんは、空港に向かうバスの中で
「眠りに落ちようとするメンバーやスタッフの顔を
面白そうに叩いては起こしてまわった」とか(苦笑)
「甲斐よしひろは全く眠っている様子はなかった」とか

「フツーのLPだったら、3枚くらいは楽に作れるスタジオ時間と
曲の数がある」ということや
「それでも納得できなくて、曲を削り続けて来た」こと

スプリングスティーンの「ネブラスカ」について
「街の灯りが見えているのに、街に向かえば何があるのか判っているのに
あえて、手斧ひとつで山に入って、道を切り拓こうとしてるLPだ」
…など「吐き出すように喋り続けた」と書かれていて
甲斐さんの緊張度合いが窺えます

「到着してスーパーに買物に行く途中でも
俺たちが何をしに来たか、身体が知ってるからね
ニューヨークだから来たんじゃない
ボブと仕事をしに来たんだ
俺たちの意志は、日本から持って来たテープにキッチリ詰まってるからねと
怒ったように言った
甲斐よしひろが買ったのは、野菜ジュースと果物と
寝酒用のスコッチの小瓶だった」と田家さん

「ステージ前の甲斐よしひろが
時間の経過と共に笑いを失くしていくのに似ていた」ご様子を振り返られ
この時の買物は「精神状態と体調を整えることが仕事に繋がる
そんな配慮のようだった」と記されてますが

「破れたハート…」のトラックダウンを終えられた甲斐さんは
「来て良かったって実感してるよね
やりたいこととやらなければいけないことが判ってるのに
どこで誰とやっていいか判らない
そんな状態が18ヶ月間続いていたからね
ずっと頭の中にあって形にならなかったものが
つい2時間前に形になった訳じゃない
思わずボブと抱き合ったもんね。泣いたよね、少し」と話されたそうだ

「全ては、破れたハート…から始まった」2度目のニューヨークでは
観光シーズンにも関わらず、スーパーで「住民」に見られたり
ボブのアシスタントのゲーリィから
「ウェルカム・バック!」と声をかけられたり
甲斐さんご自身も「自分のスタジオみたいだ」とおっしゃったりと
すっかり馴染んでおられる感じで

ディレクターを大森さんに任されたこともあってか
ボブがいつも頼んでいるというヘアデザイナーに
スタジオで髪を切って貰う余裕もおありだったようです
ちなみに、この号の表紙には
その時のものと思われる写真が使われてます

前回、甲斐さんが私用で出かけられたのは
滞在最終日の前日に古着屋に行かれた時だけだったそうだけど
ミックス作業は夜中に行われたので
その前に甲斐バンドの皆さんと「セント・マークス・バー」に
足を伸ばされたことがあったらしい

その「60年代からビートニク達の溜まり場として有名」なバーで
「キースとミックはこの店で
アメリカン・ツアーの曲目を決めたんだろうな
ミック、今度、R&Bやろーっちゃ
こんな感じだったんじゃないかな?
いつだって無邪気さがきっかけなんだと思うよね」と話されていたんだとか…(笑)

でも、ボブにお願いなさったら
「サンキュー、ジャパニーズ!」と
ご本人に言って貰えたでしょうけど(笑)
どちらもお仕事で来られてるんですもんね

代わりに「スプちゃんの(使った)スタジオ見にいっちゃお♪」と
「史上最大の軽さ(笑)」を発揮されたようですが(笑)
今回は、そのスプリングスティーンの生まれた街であるニュージャージーの
アシュベリー・パークに行かれたみたいです

ただ、それは奥さんが博多に行って
甲斐さんの生まれた街を楽しむのとは違って(笑)
「マンハッタンを別の側から見てみよう」という意味がおありだったらしい

甲斐さんいわく…人間って、刺激の照り返しがないと
自分の目が生き生きしないよね
メンタルな部分も輝かない。年々それは落ちていく
そうなってまで、金が大事、地位が大事、家族が大事とは思いたくないよね

マンネリはイヤ、退屈はウンザリ
欲しいものは欲しいと口にした方がいい
それで失うものがあってもいい
そう思った時があったんだよね
窓の外を見ながら思い出してたんだ
ニューヨークに来たい奴は来ればいい
やらないよりやった方がいい
でも、どのくらい苦しんでから来たのかは音に出るよね

「苦しんで苦しんで、ボブにコンタクトを取ってニューヨークに来た」ことに
「満足してます」と甲斐さん

「虜」は、ストーンズの「ヘブン」に影響されて作った曲だとボブに話されると
ボブが「僕もヘブンみたいにやったよ」と答えたとか

デヴィッド・ボウイが「レッツ・ダンス」を作る時に
ボブのアシスタントを務めたというデビッドに、その作業の様子を訊ねると
「ボブはKAIの時と全く同じだよ
ボウイだから、ストーンズだから、甲斐バンドだからではなく
彼は自分のやり方を持っている」と言ったとか

大森さんが「ボブという人間が判るまでは疲れたよ
でも、ある時、気がついたんだよ
甲斐よしひろと同じなんじゃないかって
その時から、甲斐よしひろに接するように接したら上手く行くようになった
ボブが音に集中してる時の顔は
甲斐よしひろが集中してる時と似てるからね」とおっしゃったとか

同い年で左利きというだけではなく(笑)
甲斐さんとボブの間には、音楽に対する思いや感性でも
何か通じるものがおありだったのかなあと…

余談ですが…「GOLD」の作業中に、ボブと双璧をなすパワステのエンジニア
ニール・ドルフスマンがスタジオを訪れ
「日本じゃ考えられない」「他人の仕事場に同業者が入って来る」状況に
ボブが若干ナーバスになりながらも
「それがパワステのオープンな所なんだ」と笑ってたらしいんだけど

東芝EMIの伊藤猛さんも、パワステのスタジオの造り以上に
「ボブが嫌な顔をしなかったことが意外でした」と話されてました

このニールとは、その後、お蔵入りになった(苦笑)曲も含め
「ラブ・マイナス・ゼロ」で4曲一緒に仕事をなさってます
ちなみに、ニールも甲斐さんと同い年みたいです(笑)
コメント
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