ビジネス書の出版を目指して、
まずはいままでの人生の振り返りをしてみてます。
気が向いたらおつきあいくださいませ♪
●大学時代は混声合唱団で青春を完全燃焼
結局、法政大学文学部日本文学科に入学しました。
女子大生はマニアックな漫画なんか描かないし読まないのだと、
漫画を卒業し、ファッション雑誌に進級しました。
愛読書はananとViViとnon-noです
だってきゃぴきゃぴの女子大生ですもの(きゃぴきゃぴってすでに死語?)
高校時代の三つ編み&ビン底めがねから
すぐにコンタクトにし、
ボブヘアにカット、カチューシャに紺のブレザーなんてスタイルを経て
(今思い出してもはずかしい)
明菜ちゃんみたいな頭にして華やかなブラウスにスカート
飲み会も積極参加、
夏には男子たちと一緒に10人くらいで
伊勢志摩へ海水浴に行き、ナンパもされるような
女子大生っぷりです。
ちゃんとサークルにも入りました。
入学式の日に、どこのサークルに入ろうか思案していたところ、
たまたま熱心に勧誘してくれた混声合唱団に入りました。
え?なんで?合唱団?
入学式のあと、お茶を飲みながらまっていてくれた母に
「合唱団に入ったよ」といったら
とってもほっとした顔をしていたのを覚えています。
きゃぴきゃぴの女子大生になりきれないわたしなのでした・・・。
80名も団員がいたその合唱団にはいろいろな委員会があり、
私は編集部に入りました。
会報を出すところです。
当時まだなんとガリ版というものがありまして、
団員の活動報告をしたり、発行号の趣旨にしたがって
記事を書いたり集めたりしていました。
印刷室にいると、中核派の人とか、よく印刷していたものです。
(当時の法政はまだ学生運動のなごりがありました)
定期演奏会のポスターやちらし、パンフレットなどの係もしました。
学校にいる間は授業もさぼりまくり、
ほとんどサークル活動をしていたようなものです。
2年生と3年生のときは学生指揮者をつとめました。
理由はひとつ、歌が苦手だったからです。
ピアノをやっていたので音はききわけられます。
プロの合唱団のために書き下ろされた現代曲などに無謀を承知で取り組み、
おかげで練習はとても刺激的でした。
和太鼓がある曲や、アカペラでず~っとハモらない曲とかやりました。
「そんな指揮じゃ歌えません」なんていわれて
「休憩にします」っていってひとりトイレでないたこともありました。
学生同士でもみんなお互いに厳しくて、いろいろな討論をしたり、
年に4回も合宿をして、意見をたたかわせたりしました。
明け方まで話して、海に行ってかわるがわるなんか叫んじゃったりね。
笑いあり涙あり、恋愛でとったのとられたのありで、
青春をめいっぱい満喫した学生生活。
4年生の終わりの卒業生を送ってくれる会のときは涙ぼろぼろ、
ほんとうにほんとうに充実した4年間でした。
集団でなにかやるのが好きだったので、合唱団は自分の4年間命をかける場だと
思い込んでいました。
飯田橋と市ヶ谷の間の外堀通りの桜並木を見るたびに、
あと3回、あと2回、今年が最後とカウントダウンしていました。
卒業のときにはまるで死んでしまうのではないかという感覚にもなりました。
当時は就職は楽でしたので、8月はじめには就職が決まっており、
最後の夏合宿にもしっかり参加しました。
とてもよくしてくれた婦人靴チェーンの会社のダイアナに内定しました。
次回は●婦人靴のダイアナに就職 です
読んでいただきありがとうございます^^
まずはいままでの人生の振り返りをしてみてます。
気が向いたらおつきあいくださいませ♪
●大学時代は混声合唱団で青春を完全燃焼
結局、法政大学文学部日本文学科に入学しました。
女子大生はマニアックな漫画なんか描かないし読まないのだと、
漫画を卒業し、ファッション雑誌に進級しました。
愛読書はananとViViとnon-noです
だってきゃぴきゃぴの女子大生ですもの(きゃぴきゃぴってすでに死語?)
高校時代の三つ編み&ビン底めがねから
すぐにコンタクトにし、
ボブヘアにカット、カチューシャに紺のブレザーなんてスタイルを経て
(今思い出してもはずかしい)
明菜ちゃんみたいな頭にして華やかなブラウスにスカート
飲み会も積極参加、
夏には男子たちと一緒に10人くらいで
伊勢志摩へ海水浴に行き、ナンパもされるような
女子大生っぷりです。
ちゃんとサークルにも入りました。
入学式の日に、どこのサークルに入ろうか思案していたところ、
たまたま熱心に勧誘してくれた混声合唱団に入りました。
え?なんで?合唱団?
入学式のあと、お茶を飲みながらまっていてくれた母に
「合唱団に入ったよ」といったら
とってもほっとした顔をしていたのを覚えています。
きゃぴきゃぴの女子大生になりきれないわたしなのでした・・・。
80名も団員がいたその合唱団にはいろいろな委員会があり、
私は編集部に入りました。
会報を出すところです。
当時まだなんとガリ版というものがありまして、
団員の活動報告をしたり、発行号の趣旨にしたがって
記事を書いたり集めたりしていました。
印刷室にいると、中核派の人とか、よく印刷していたものです。
(当時の法政はまだ学生運動のなごりがありました)
定期演奏会のポスターやちらし、パンフレットなどの係もしました。
学校にいる間は授業もさぼりまくり、
ほとんどサークル活動をしていたようなものです。
2年生と3年生のときは学生指揮者をつとめました。
理由はひとつ、歌が苦手だったからです。
ピアノをやっていたので音はききわけられます。
プロの合唱団のために書き下ろされた現代曲などに無謀を承知で取り組み、
おかげで練習はとても刺激的でした。
和太鼓がある曲や、アカペラでず~っとハモらない曲とかやりました。
「そんな指揮じゃ歌えません」なんていわれて
「休憩にします」っていってひとりトイレでないたこともありました。
学生同士でもみんなお互いに厳しくて、いろいろな討論をしたり、
年に4回も合宿をして、意見をたたかわせたりしました。
明け方まで話して、海に行ってかわるがわるなんか叫んじゃったりね。
笑いあり涙あり、恋愛でとったのとられたのありで、
青春をめいっぱい満喫した学生生活。
4年生の終わりの卒業生を送ってくれる会のときは涙ぼろぼろ、
ほんとうにほんとうに充実した4年間でした。
集団でなにかやるのが好きだったので、合唱団は自分の4年間命をかける場だと
思い込んでいました。
飯田橋と市ヶ谷の間の外堀通りの桜並木を見るたびに、
あと3回、あと2回、今年が最後とカウントダウンしていました。
卒業のときにはまるで死んでしまうのではないかという感覚にもなりました。
当時は就職は楽でしたので、8月はじめには就職が決まっており、
最後の夏合宿にもしっかり参加しました。
とてもよくしてくれた婦人靴チェーンの会社のダイアナに内定しました。
次回は●婦人靴のダイアナに就職 です
読んでいただきありがとうございます^^