のりひめのひとりごと Monologue of Noriko

2012年からオーストラリアと日本を行き来しています。日常のいろいろを書いてます。

のりひめの過去ばなし2.青春真っ只中大学合唱団時代

2011-06-15 21:35:28 | のりひめの過去ばなし
ビジネス書の出版を目指して、
まずはいままでの人生の振り返りをしてみてます。
気が向いたらおつきあいくださいませ♪

●大学時代は混声合唱団で青春を完全燃焼

結局、法政大学文学部日本文学科に入学しました。

女子大生はマニアックな漫画なんか描かないし読まないのだと、
漫画を卒業し、ファッション雑誌に進級しました。
愛読書はananとViViとnon-noです
だってきゃぴきゃぴの女子大生ですもの(きゃぴきゃぴってすでに死語?)

高校時代の三つ編み&ビン底めがねから
すぐにコンタクトにし、
ボブヘアにカット、カチューシャに紺のブレザーなんてスタイルを経て
(今思い出してもはずかしい)
明菜ちゃんみたいな頭にして華やかなブラウスにスカート
飲み会も積極参加、
夏には男子たちと一緒に10人くらいで
伊勢志摩へ海水浴に行き、ナンパもされるような
女子大生っぷりです。

ちゃんとサークルにも入りました。
入学式の日に、どこのサークルに入ろうか思案していたところ、
たまたま熱心に勧誘してくれた混声合唱団に入りました。
え?なんで?合唱団?

入学式のあと、お茶を飲みながらまっていてくれた母に
「合唱団に入ったよ」といったら
とってもほっとした顔をしていたのを覚えています。

きゃぴきゃぴの女子大生になりきれないわたしなのでした・・・。


80名も団員がいたその合唱団にはいろいろな委員会があり、
私は編集部に入りました。
会報を出すところです。

当時まだなんとガリ版というものがありまして、
団員の活動報告をしたり、発行号の趣旨にしたがって
記事を書いたり集めたりしていました。
印刷室にいると、中核派の人とか、よく印刷していたものです。
(当時の法政はまだ学生運動のなごりがありました)

定期演奏会のポスターやちらし、パンフレットなどの係もしました。
学校にいる間は授業もさぼりまくり、
ほとんどサークル活動をしていたようなものです。

2年生と3年生のときは学生指揮者をつとめました。
理由はひとつ、歌が苦手だったからです。
ピアノをやっていたので音はききわけられます。

プロの合唱団のために書き下ろされた現代曲などに無謀を承知で取り組み、
おかげで練習はとても刺激的でした。
和太鼓がある曲や、アカペラでず~っとハモらない曲とかやりました。
「そんな指揮じゃ歌えません」なんていわれて
「休憩にします」っていってひとりトイレでないたこともありました。

学生同士でもみんなお互いに厳しくて、いろいろな討論をしたり、
年に4回も合宿をして、意見をたたかわせたりしました。
明け方まで話して、海に行ってかわるがわるなんか叫んじゃったりね。
笑いあり涙あり、恋愛でとったのとられたのありで、
青春をめいっぱい満喫した学生生活。

4年生の終わりの卒業生を送ってくれる会のときは涙ぼろぼろ、
ほんとうにほんとうに充実した4年間でした。

集団でなにかやるのが好きだったので、合唱団は自分の4年間命をかける場だと
思い込んでいました。
飯田橋と市ヶ谷の間の外堀通りの桜並木を見るたびに、
あと3回、あと2回、今年が最後とカウントダウンしていました。
卒業のときにはまるで死んでしまうのではないかという感覚にもなりました。

当時は就職は楽でしたので、8月はじめには就職が決まっており、
最後の夏合宿にもしっかり参加しました。
とてもよくしてくれた婦人靴チェーンの会社のダイアナに内定しました。

次回は●婦人靴のダイアナに就職 です

読んでいただきありがとうございます^^


のりひめの過去ばなし1.少女時代?

2011-06-15 14:44:01 | のりひめの過去ばなし
関根典子と申します。(旧姓は高野です。)

ビジネス書の出版を目指して、
まずはいままでの人生の振り返りをしてみました。
気が向いたらおつきあいくださいませ。

1965年7月2日、埼玉県生まれ。
父は満州奉天生まれ。母は埼玉生まれ。
芸大の声楽科卒の独身の姉がひとり。
私は次女で、2005年に39歳で結婚しました。
現在夫と二人暮し。夫の実家がすぐそばにあり、
夫の母きぬちゃんにとってもお世話になってます。

わたしの母は昨年脳梗塞をわずらい、要介護ですが
父が面倒をみています。

コメントとか合いの手とか入れていただけたら嬉しいです^^


●マンガ描きと同人誌制作、みんなで何かやるのが好きだった

子供のころは喘息もちで少し病弱だったため、
3歳からピアノを始めていたこともあり、
あまり外で遊ばないで家の中で読書するのが好きな子供でした。
というと、おとなしそうですが、
マッシュルームカットの頭で小学5年生からびんぞこめがね
大柄で太めで、声が大きい子で、男の子と平気でけんかしていました

ピアノに関しては、武蔵野音大の先生に小学校からついていて
毎日2時間も練習していたのですが、
小学校高学年から少女マンガを描くのが大好きになりました。
ピアノは先生が好きだったので習慣として大学卒業間際まで続け、
少女漫画は趣味で没頭するものとして続けました。

姉が6歳上ですので、家には本がたくさんありました。
小学校2~3年生のときは、メアリー・ポピンズシリーズが大好きで、
暗記するほど読んで、挿絵も真似して描いていました。
母に「あら 上手ね」とほめられたので、
どんどん何度でも描いていました。

そのほかにも「ナルニア国物語」もお小遣いをためて、一冊一冊あつめ、
次の本を買うまで何回でも読みました。
「大草原の小さな家」や「長靴下のピッピ」、「赤毛のアン」など
さまざまな物語に没頭し、挿絵もまねして描いて遊んでいました。

そのうちに少女漫画に出会い、バレリーナの絵とかバラの花をしょった
お姫様の絵をいっぱい描くようになりました。

学校にも同じような絵が好きな子がいて、
3、4年生のころから休み時間は教室のすみに机をくっつけて
4~5人の女子で絵を描いていました。

まわりになぜかギャラリーが集まり、わいわいと楽しくやっていました。
この遊びは中学いっぱいまで、クラスが変わって友達がかわっても続きました。
小学校5年生のときくらいから、ストーリーマンガを描き始め、
友達と一緒に回し読みするようになりました。


中学は地元の第3中学校へ。
田んぼの中の学校で、毎日20分ほど歩いて通いました。
10名くらいの描き手がいる回覧の同人誌を作り、
月に一回くらい発行するようになりました。
当時学年で300名ほど生徒がいましたが、
各教室ごと読者がおりました。

萩尾望都、有吉京子、池田理代子、まつざきあけみ、内田善美など、
絵が美しい少女漫画家が大好きで、自分もそのような絵を目指して四六時中
夜おそくまで描いていました。
たまに母に買ってもらう外国のファッション雑誌「VOGUE」の美しいモデルさんを
下手なりに夢中で描いていました。

部活は小学校のときは絵画部、中学校では器楽部、
かけもちで華道部も3年間つづけました。

高校でショートだった髪を伸ばし、三つ編みのセーラー服の
だいこん足の女子高生に。
入学したところは池袋にある豊島岡女子学園高等学校です。

入学したその日か次の日にはマンガ友達も見つかり、3年間、
今度はコピーの同人誌をやりました。
たぶん20名くらいの描き手がいて、読者いれて50部から100部
発行していました。

同じ学年に生徒は11クラス550名ほどいて、
どのクラスにも描く人と読む人がいて、まわし読みされていましたので、
かなりの数の生徒が読んでいたかと思います。
わたしが原稿を集め、新宿の7円コピーでA3版を1000枚も
コピーして持って帰り、家で二つ折りにして帳合いし、
ホッチキスでとめて冊子にしていました。

教室に自作カレンダーを貼り、その下に「読者募集 一冊360円」と
書いていたら、「高校生のくせに営利活動をしている」と、
親も一緒に校長先生に呼び出しをくらってしまいました。

まったくの実費だったのですが、進学校で厳しい女子校だったので
漫研などは作れず、同人誌発行もその後は極秘で、
美術部にメンバーみんな潜伏しておりました。(ばれてたかも)

美術部のほかに1年生では合唱部、2、3年生ではピアノ部に入り、
中学と同じくふたつの部をかけもちしていました。
ピアノ部はピアノ練習室が使用でき、朝7時には学校のピアノ練習室を
ひとつ占領し、毎日一生懸命練習もしていました。

高校2年生までは、冬に遊びに行ったフィギアスケートにはまり
(漫画槇村さとるの「愛のアランフェス」の影響も大)、
夏も毎週日曜日はスケート場に通い、先生について簡単なスピンや
ジャンプができるまでになりました。
スケートは練習を始めたら、練習方法がピアノと似ていて、
ひとつ覚えると、左右や前後で4通りの動きを練習でき、
自主練習の時間でも向上できて面白かったからです。

また、スケート場の常連のアイスダンスのおじさんやおばさんが
教えてくれました。
お菓子をたくさん持って行ったり、
スケート場で焼きそばやアメリカンドッグを食べながら一日練習して
すごすのが遠足のようでとても楽しかったです。
とんでもない大根あしですが、ちゃんとスカートのついたレオタードも
着ていましたよ♪

当時もすでに進学校で、「こんなに勉強しない学年ははじめてだ」と先生に
あきれられ、
とくにわたしたちの6人グループは、しょっちゅう寄り道で見つかって
職員室掃除をさせられました。
たぶん目をつけられていたでしょう。
そんなこと気にもしないで、職員室の顔となり、
きゃあきゃあとハイテンションな女子高生活を満喫しました。


ピアノを弾いていたので、音大も考えたのですが、
芸大の声楽科めざしてすでに何年もがんばっている姉を見ても、
音大に行くのは大変そうだし、行ってもうまい人だらけで競争激しそうだし、
せっかく苦労して受験するなら普通の女子大生になってみたい!と思い、
ふつうの大学それも、みんなが知っていて都心にある大学に進むことを
決意しました。

中学のときに見た「オールナイトニッポン」で女子大生が活躍していたのが
とっても印象にあり、わたしの大学進学の熱意は、
「あんな女子大生になりたい」と、その一点だったのでした・・・。

ブログ再開~♪

2011-06-15 14:30:51 | ○日記
なんだかいろいろあって
ブログを続けにくい感じになってしまってましたが
再開したいとおもいま~す

最近はフェイスブックをやってます
いろいろな旧友と再会できて嬉しいです♪
mixiもやってます

4月は11日間、オーストラリアにいってきました
とってもリフレッシュしました~
4月5日に近所にぷち引越しして
4月7日から行ってきました

なにしろ震災で
知り合いの農家の方がすごい被害に遭われましたし、
わたしが住んでいるところも
余震があったり、なにもなくてもゆれている感じだったり
放射能の恐怖にさらされたり
停電があったり、スーパーからものがなくなったりと
大きく生活が変わりました

日本からいったん遠く離れてみてだいぶ落ち着いた気がします
とくにいつ大きな余震がくるか分からないという
恐怖から離れられました

まだまだ被災地に皆さんが大変で、その方たちのこれからの人生を思うと
しっかりとできることをしないといけないなと思います

そんなわけで、ちょっと心機一転、
自分を棚卸した過去話をときどきのっけていきたいと思います~