2016年末に、自我には受け入れがたいインスピレーションがあり、
一人でそのインスピレーションを保持しているわけにも行かず、
それを、この動画に字幕メッセージとして入れて学習グループ内でシェアしたり
その後すぐにおこなった合宿(2泊3日)で、吐き出しシェアしました。
その合宿が始まる前から、インフルエンザに近い感じの症状がデトックス状で出ていたのですが
2日目の夜だったかな?
猛烈に寒気などが強度を増してゆき、はた目にはまさにインフルエンザのようでした。
聖霊には「なにもしなくていいよ」と言われたので、身体を温めて温かいものを飲む程度はするけど
それ以外には、ただ安静にして過ごすのみでした。
かなり、深い深い深いレベルで、内側で理解が起きたのです。。
ガクブルだったのです。
↓字幕あり(日本語)の設定でご覧ください
「I AM/在る」の、起源。まぢかよインスピレーション2016.12.31
なぜなら、神からの最後の一歩とは
ある種「ここのレベルでも起こる」と言えるからです。
期待があったのでしょう。
「幸せな夢」と言う実相世界を認識し
「肉体を脱いでからの、神からの最後の一歩なら、安心だ」と、、
どこか、、私たちは都合よく、、そう思っています。
都合よく考えますね。
けど、ラマナ・マハルシも16歳で覚醒が起きた時、一度死んだような体験をしました。
自我が消えて、神と一つになるとは
神からの最後の一歩を受け入れるに、ほぼ等しいことです。
同時期だと思うのですが、映画:沈黙-サイレンス-
の予告動画を毎日何度も何度も繰り返し観ていました。
当時、理由はわからなかったのですが
沈黙の中へ、平安なる無の中へ、吸い込まれるんです。
吸い込まれて、自分が消滅して沈黙の中へと溶け去る感じ。
最近なんとなく、わかってきました。
THATの視点なんです。
この映画は、THATから見つめられていることに気が付くようにデザインされているかのようです。
THAT とは、いわゆる不可知の神のことです。
「神が見つめる」とは、もちろん比喩ですが、更に事実に沿った言い方をするなら
「神が愛する」と言うのが、最適に思えます。
神は愛する以外に「何か」は絶対にできないんです。
聖霊が意図している何かを、映画全体に感じていましたが
3回映画館で見てきて、そして今、「WHO AM I ?」と繰り返してきて
ああ、そういうことだったのか。
と理解しました。
神の愛と、イエスの愛と、遠藤周作さんの献身と、スコセッシ監督の献身と、それに同意した俳優・スタッフ陣の献身が反映されているのでしょう。
そして、これらに関連して
この動画をご覧になってみてください。
そして、この10数秒も。
8分39秒~8分52秒
私にとっては、この6ヶ月間に
聖霊が教えたがっていたであったろう「真実」のパズルのピースが揃いまくっていて
さらに、「YES」と言わざるを得なくなっていて
4月以降、毎日、毎日、徐々に「私」が消え去ってゆくのを感じています。
本当は、なにものだったのか?
を、受け入れざるを得なくなってゆく感じで
完全空白な感じ。
私には、何もわからない。何も決められない。(笑)
しかし、うれしいな。
奇跡講座テキスト編(中央アート出版社)
T-7.Ⅹ.6:4-10
私は以前、あなたがすなわち神の意志であると言った。
神の意志は無為の願望ではない。
そして、あなたが神の意志と同一化することについては、選択の余地はない。
それはあなたの本性だからである。
神の意志を私と意志することについては、選択の余地があるように見えるがそうではない。
分離全体がこの誤りの中にある。
この誤りから抜け出す唯一の道は、
自分は何も決断しなくていいと決断することである。
神の決断によって、すべてがあなたに与えられている。
それが神の意志であり、あなたにはそれを取り消すことはできない。
神からの最後の一歩を受け入れるのには、
先だって、覚悟(力んだ覚悟ではなく、何もしない状態のこと)が必要です。
覚悟に先立って、
あきらめが必要です。
恩寵のおかげさまで、あきらめがついてゆきます。
恩寵からの、激しいほどの奪い去りは、
心のレベルで焼きつくされるまで、焼きつくされます。
ああ..これが公開ブログでシェアできるところまで
デトックスが起きて通り過ぎていったようです。
御心のままに。。
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