↓ふと、上がってくるので8/20の記事を再アップします☆
「天と地をつなぐもの」は、昭和30年に出版された書籍なので
おそらく、私が生まれる前からこの本は我が家にあり
子供の頃と、10年くらい前だったか、2~3回は読んだことがありました。
けれども当時は、この書籍の言っていることの真髄をほとんど、、全く読み取れてはいませんでした。
奇跡講座を学び実践してきて
今回やっとこさ、この書籍の内容がバンバン心に入ってくるようになりました。
なぜ急にこの本を読む気になったかと言うと
ここ1~2週間「想念停止」という言葉が胸の中からやって来ていて
想念停止と言えば、五井先生が若かりし頃の想念停止にまつわる修行について
「天と地をつなぐもの」に、克明に描かれていたのをスッと思い出して
しかしその本は2012年の引っ越しで捨ててしまっていたので、改めてAmazonで取り寄せてみました。
(※ここで言う「想念停止」とは、神の想い・神への想い以外は一つも持たない。の意です)
自叙伝なので「神と人間」という書籍よりも、比較的読みやすいのですが
やっぱり、書かれている内容の本質は、今回はじめて入ってきたように思います。
まさか、自分がこんなにも若かりし頃の五井先生の気持ちに共感できるとは思ってもいませんでした。
まさに今、私が感じていたり体験してきたことと同じような感覚を等身大で書かれていて
半生を目覚めた者として生きていった姿勢に、「そういう風に生きれるんだ」
と、親近感を持つことができました。
ある方から、五井先生が肉体から去ってゆく頃の状態についてお聞きしたことがあるのですが
まさしく実相世界に生きる者の生き方だったようです。
ほんの1mmも、滅びゆく肉体と自分を同一視していなかったのがわかるようなお話しでした。
傲慢さからではなくて、、なぜか純粋にそう思うのですが
おそらく私たちも、その状態と同じようになることができる。
しかし、先人たちほどの困難さや苦しみを経ずに。。
時代の波もあったでしょうけれども、戦後間もない(戦後4~5年)当時、
完全なる神への全託に一致するまでの苦難は、計り知れません。
アーテン、パーサも書籍:神の使者で言っていたけれども
今という時代設定は、目覚めのための道を歩むには相当恵まれている環境にあるなあ。
と、とても感じています。
五井先生も、真に目覚めてゆく過程に、ものすごい絶叫的な恐怖感にうちひしがれたことが
何度かあったそうです。
その時に、想念停止の訓練が役に立ったのだそうです。
(もちろんそれ以前に、神に対する信頼は相当なものでしたから、想念停止と、それが役立ったようです)
私たちの知覚が恐怖感でいっぱいになるということは、
そういう知覚になるような思考と同一化をすることを、意識の深いところで決断しているわけで
その深い部分での決断を、顕在意識で決断しなおすわけですね。
間違った思考と同一化せず、神のみに想いを向ける。
という、正しい思考と一つになっていってからは
絶叫的恐怖感は消滅していったのだそうです。
恐怖の想いがやって来ても、慌てず騒がず
それと同一化する決断を否定して捨て去ることなんですね。
そして、神さま!神さま!と、神のみを思う。
私たちは、平安の時からそれを練習することがとても大切な気がしています。
何があってもなくても、赦していって、神を想い、神に感謝。
「言うは易し、行うは難し。」ですが、やっていく価値は無限大だな~。
そう感じています。
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「天と地をつなぐもの」は、昭和30年に出版された書籍なので
おそらく、私が生まれる前からこの本は我が家にあり
子供の頃と、10年くらい前だったか、2~3回は読んだことがありました。
けれども当時は、この書籍の言っていることの真髄をほとんど、、全く読み取れてはいませんでした。
奇跡講座を学び実践してきて
今回やっとこさ、この書籍の内容がバンバン心に入ってくるようになりました。
なぜ急にこの本を読む気になったかと言うと
ここ1~2週間「想念停止」という言葉が胸の中からやって来ていて
想念停止と言えば、五井先生が若かりし頃の想念停止にまつわる修行について
「天と地をつなぐもの」に、克明に描かれていたのをスッと思い出して
しかしその本は2012年の引っ越しで捨ててしまっていたので、改めてAmazonで取り寄せてみました。
(※ここで言う「想念停止」とは、神の想い・神への想い以外は一つも持たない。の意です)
自叙伝なので「神と人間」という書籍よりも、比較的読みやすいのですが
やっぱり、書かれている内容の本質は、今回はじめて入ってきたように思います。
まさか、自分がこんなにも若かりし頃の五井先生の気持ちに共感できるとは思ってもいませんでした。
まさに今、私が感じていたり体験してきたことと同じような感覚を等身大で書かれていて
半生を目覚めた者として生きていった姿勢に、「そういう風に生きれるんだ」
と、親近感を持つことができました。
ある方から、五井先生が肉体から去ってゆく頃の状態についてお聞きしたことがあるのですが
まさしく実相世界に生きる者の生き方だったようです。
ほんの1mmも、滅びゆく肉体と自分を同一視していなかったのがわかるようなお話しでした。
傲慢さからではなくて、、なぜか純粋にそう思うのですが
おそらく私たちも、その状態と同じようになることができる。
しかし、先人たちほどの困難さや苦しみを経ずに。。
時代の波もあったでしょうけれども、戦後間もない(戦後4~5年)当時、
完全なる神への全託に一致するまでの苦難は、計り知れません。
アーテン、パーサも書籍:神の使者で言っていたけれども
今という時代設定は、目覚めのための道を歩むには相当恵まれている環境にあるなあ。
と、とても感じています。
五井先生も、真に目覚めてゆく過程に、ものすごい絶叫的な恐怖感にうちひしがれたことが
何度かあったそうです。
その時に、想念停止の訓練が役に立ったのだそうです。
(もちろんそれ以前に、神に対する信頼は相当なものでしたから、想念停止と、それが役立ったようです)
私たちの知覚が恐怖感でいっぱいになるということは、
そういう知覚になるような思考と同一化をすることを、意識の深いところで決断しているわけで
その深い部分での決断を、顕在意識で決断しなおすわけですね。
間違った思考と同一化せず、神のみに想いを向ける。
という、正しい思考と一つになっていってからは
絶叫的恐怖感は消滅していったのだそうです。
恐怖の想いがやって来ても、慌てず騒がず
それと同一化する決断を否定して捨て去ることなんですね。
そして、神さま!神さま!と、神のみを思う。
私たちは、平安の時からそれを練習することがとても大切な気がしています。
何があってもなくても、赦していって、神を想い、神に感謝。
「言うは易し、行うは難し。」ですが、やっていく価値は無限大だな~。
そう感じています。
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約3年前頃に出勤途中、イキナリ
頭の中で、天と地を繋ぐ者、と、聴こえてきて、
あれは、どういう事だったのかしら?と検索したら、ヒットしてしまいました。
何だか、恐い気が致します。覚醒しなさいとの天の声てましょうか?
もちろん、カタカムナさんが真に望んだ場合
本当に、覚醒へと導いていただくことは可能だと信じています。
覚醒は恐いことではありませんが、この夢見の世界が自分が住まう世界と信じてきた心の部分にとっては確かに
覚醒は恐いことのように感じますね。