Youtube公開映像の会話や講義などを文字起こしして下さるボランティアさんも現れました。
もしもボランティアをご希望の際は、
文字起こししたいなと思う公開映像がありましたら都度お申し出下さいね
書籍化が起きて行ったり、将来的には外国語に翻訳が起きて行ったりするのかも知れません。
そしてまた、いかなるシナリオが展開されなかったとしても
私たちの心の中では確実に自分自身への献身が刻印されます。
. . . 本文を読む
2017年1月23日勉強会の映像(4時間)より、一部抜粋&編集しました
ごくごく当たり前だったコトを
少しずつ受け入れて行く道のり。
特別さ(序列の差)が消えてゆき
すべてが奇跡として認識される。
そして、すべてが無であったということ
実相の臨在を知る。
アジャシャンティが言っていたけど
それが「普通さの中に死ぬ。」
というコトなのかもしれない。
God is
. . . 本文を読む
この世界に生きているように見える私たちが
いま、どのようであろうが
どのようでなかろうが
無条件に、完全に愛されている。
それは絶対に避けることが出来ない。
ほんとうは、それしか起きていないのだから。
がんばってもいいし、がんばらなくてもいい。
成功してもいいし、挫折してもいい。
とても逆説的で
がんばれるときよりも、がんばれないときに
成功しているときよりも、挫折 . . . 本文を読む
投影
=非難
=カルマ
=分離維持の中毒
そうだったんだな。
だからこそ、今
やめることが可能なわけだ。
やめたいか?
やめたくないか?
そこにのみ
解脱が、覚醒が、かかっている。
やめたくない心を
どこまでも、見てゆく必要がある
. . . . 本文を読む
比喩ですが
聖霊が、私たちを目覚めさせようとする「熱量」と
私たちの、聖霊に助けを求めて癒し救済を受け入れようという意欲の「熱量」が
あまりにも、イコールじゃない。
不一致が起きている。
明らかなギャップがあり過ぎている。
故に、救済の即時性が発揮されないで
救済受け入れの遅延が起きているんだな。
そういうことが暗示されている学びがあったんだ。
この2〜3週間であまり . . . 本文を読む
もう、2013年とか2014年とかの頃には考えられなかったような心の状態の中にいます。
「信仰心」ということについて
考えない日、時間がないくらいに
信仰ということが、ごくごく当たり前のことで
信仰からでないすべては、
ある意味「異常」なんだ。ということを
感じるようになってきました。
これは、何らかの宗教に思いを寄せなければおかしいということではなく
自分の内側の奥深くに入って行って、
そ . . . 本文を読む
「ぐうの音も出ない一撃を喰らう必要があるらしい。」
というコトバが来るので
「ぐうの音も出ない」の意味を調べたら
徹底的にやりこめられて、一言も弁解・反論ができない。 「証拠をつきつけられて-・ない」
出典:三省堂 大辞林 第三版
そういうことだ。
明らかな、証拠を叩き付けられたというわけで
と言うともう、なす術がない。何もできない。何もする必要もない。
できないんだから。
. . . 本文を読む
1月23日(月)12:00〜予定でしたが
この日、2名様新規でのリアル参加が決まりましたため
11:00〜スタートとさせてください
アメリカから、時差-14時間のリアル参加も
スケジュール詳細は1月ページにて掲載します。
. . . . 本文を読む
形を捨ててこそ、真の信仰となる。
あらゆる学び「形」の境目がなくなってしまった今
やってきた映画。
すべてが、統合されている、一つになっている場所、瞬間、そこがサイレンス。
そこで神と一つになる。
. . . . 本文を読む
じゃんじゃん、取り消しが起きている。
愛が雪崩れこみ続け
業がめざましく消滅してゆく。
なにが?ではなく
私の中で、あらゆる業が
なくなってしまう。
反応が奥から変わった。
明らかに、としちゃんとの神聖な関係から
違う。
認識が、知覚が、反応が、愛の揺るぎなさが
違う。
そんな時はきっと、愛じゃない解釈をしないからなんだろう。(聖霊のはたらきで障壁が消え . . . 本文を読む
まだ、2017年という数字に切り替わってから2週間しか経過してないのかよ??
と思うほどに、
この2週間程度で数世紀分の取り消しが確かに起きて行ったと感じている今です。
あまりにも、さまざまなコトがつながりすぎて緻密すぎて、聖霊の計画の精妙さというか完璧さには圧倒されます。
この映画:沈黙-サイレンス- も、1月21日公開か〜〜〜。
今だからこそだな。1ヶ月早くてもまだまだ受け止めきれなかった . . . 本文を読む
たぶん、今日
亡き夫との関係が神聖なものとなった。
真の赦しが起きた。
完結したと思います。
「お父さんは、神だった」体験と同様の
「としちゃんは、ジーザスだった」体験が起きました。
何をどうしたからではなく、
日々の、あらゆるすべてに関する繰り返しレッスンの末
時が来たからなんだと思う。
これ以上コトバでは表現ができない。
けど、
としちゃんが、ジーザスだったなら、、 . . . 本文を読む