何をするか、ではなく
何を言うか、ではなく
神の祭壇の前に、ひざまづいているか。
である。
何をするか、何を言うか、という形態は
その心のあらわれの一つに過ぎず
自分自身を汚すかどうか、神聖なものにするかどうか、は
中身・内容・目的・動機のほうから来るもの。
何をするか、言うか、は
そうせねばならないから~。
ではなく
幸せなものは、ただ、幸せを共有するのみである。
そこ(原因のレベル)で、何かをするし、何かを言う。
誰も皆、自分の心の中心に戻ってゆく以外にできることは無い。
皆、自学自習の中、自分自身のカリキュラムの中で
あらゆる確信を与えられ受け取ってゆく。
その連続。
そして
本当の喜びとは、神に完璧なまでに愛されている。という確信から来る。
「喜び」には、必ず「絶大なる感謝」が伴う。
感謝の無い「喜び」は、快楽なのだろう。
快楽は、自我からのもの。
親切さ、愛ある想念、愛を込めて、心を込めたところから、なんでもする。
ケン先生(ワプニックさん)の講義「レベルの混同」について。
↓私たちは、今後10年見聞きし続けても足りないくらいなのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=wjim1WaGDsg
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何を言うか、ではなく
神の祭壇の前に、ひざまづいているか。
である。
何をするか、何を言うか、という形態は
その心のあらわれの一つに過ぎず
自分自身を汚すかどうか、神聖なものにするかどうか、は
中身・内容・目的・動機のほうから来るもの。
何をするか、言うか、は
そうせねばならないから~。
ではなく
幸せなものは、ただ、幸せを共有するのみである。
そこ(原因のレベル)で、何かをするし、何かを言う。
誰も皆、自分の心の中心に戻ってゆく以外にできることは無い。
皆、自学自習の中、自分自身のカリキュラムの中で
あらゆる確信を与えられ受け取ってゆく。
その連続。
そして
本当の喜びとは、神に完璧なまでに愛されている。という確信から来る。
「喜び」には、必ず「絶大なる感謝」が伴う。
感謝の無い「喜び」は、快楽なのだろう。
快楽は、自我からのもの。
親切さ、愛ある想念、愛を込めて、心を込めたところから、なんでもする。
ケン先生(ワプニックさん)の講義「レベルの混同」について。
↓私たちは、今後10年見聞きし続けても足りないくらいなのかもしれない。
https://www.youtube.com/watch?v=wjim1WaGDsg
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びっくり❕
そして快楽は自我からのもの…。
最初の方の、
「何をするか、ではなく、
何を言うか、ではなく、
神の祭壇の前にひざまずいているか」
ですが、
私は園に通っている一児のママですが、
ママ友との会話も、そんな感じで話せば良いですかね?!
はじめまして、でしたか?
こんばんは。
コメントありがとうございます。
>ママ友との会話も、そんな感じで話せば良いですかね?!
そんな感じとは、心の姿勢のことでしょうか?
「日常の、どの瞬間もレッスンである。」ということですから、日々、何度も何度も退くことですね。
そして、むしろ全く退いていない自分に気が付いてゆくことだと思います。
ママ友と言っても時々顔を合わす程度なのですが、なぜだか、緊張?するのです。
なにを話せばいいか分からなくなったり。
私はそんなにテンションが高いほうではないのですが、
そのママさんは、テンションが高く、みんなと別け隔てなく話す気さくな方で。
今日話したのですが、そのテンションのノリに反応して、合わせて頑張ってみましたが、なんか、うわずってる自分みたいな感じがして、しんどかったです。
そんな場面でも、「神の祭壇の前にひざまずいているか」でしょうかね?
このブログで書かれていることは、大前提として「奇跡講座ワークブック編、マニュアル編、テキスト編(中央アート出版社)」を持ち合わせている。ということ。
その関連書籍として、神の使者を持っていること。という点があります。
そしてまた、日々、ワークブックのレッスンをしてゆく(1レッスンに何日かかるかどうかは問題になりません。お休み期間があっても大丈夫です)
日々、少しずつテキストを読みマニュアルを読む。
JACIMのサイトの情報をコピーなどして読む。JACIM発行の書籍・DVDを観る。
興味が湧いたコースの学び合いの会に参加する。
まずこれを、1~3年間なさってみてください。
その、相手であるママさんが本当は誰だったのかを思い出す意欲が湧いてくるかも知れません。
もしも真摯に3年間継続すれば、心のレベルでの何等かの変化は必ず起きてゆくはずです。
「本当の幸せ、平安とは、何なのか?」を少しずつ思い出せるかも知れません。
心より応援しています。