昨日の夜は、4年間一緒に学び合っている
れいさんとの個人セッションだった。
実践面で何がどうあれ
一貫して、私たちに必要なことはこれなんだよね。
ということを主に話したように思う。
「私」の信念ゆえに
「私」にとって、困難なレッスンがあるように認識されている。
右往左往しながらなはずなんだ。
泥んこまみれになりながらのはずなんだ。
凛とした「私」のままで実践など、、していけないんだよね。
どれだけの底知れぬ抵抗が潜んでいるのかを自覚することになるし
涙ちょちょぎれながら
鼻水流しながら
全面的に、「私」をあげてしまう。
全面的に、「私」を放棄する。
全面的に、「私」を捧げてしまう。
絶対的にそれが必要なんだよね。
最初は瞬間、瞬間、のお捧げなのだけど
やがては一瞬でもなく、
全面的に与えてしまう必要がある。
それが全託。
全託したなら、
一切の不平不満は瞬間で取り下げられねばならない。
やがては一瞬も不満が出なくなる。
私たちは、合言葉としての全託ではなく
合言葉としての献身ではなく
真の全託を求められている。
神がそれを必要としているからではない。
夢を見る者にとって、それが必要だったからだ。
ムージのサットサンでシェアしてくれている彼女のように
神に私をあげてしまうことなんだよね。
.
れいさんとの個人セッションだった。
実践面で何がどうあれ
一貫して、私たちに必要なことはこれなんだよね。
ということを主に話したように思う。
「私」の信念ゆえに
「私」にとって、困難なレッスンがあるように認識されている。
右往左往しながらなはずなんだ。
泥んこまみれになりながらのはずなんだ。
凛とした「私」のままで実践など、、していけないんだよね。
どれだけの底知れぬ抵抗が潜んでいるのかを自覚することになるし
涙ちょちょぎれながら
鼻水流しながら
全面的に、「私」をあげてしまう。
全面的に、「私」を放棄する。
全面的に、「私」を捧げてしまう。
絶対的にそれが必要なんだよね。
最初は瞬間、瞬間、のお捧げなのだけど
やがては一瞬でもなく、
全面的に与えてしまう必要がある。
それが全託。
全託したなら、
一切の不平不満は瞬間で取り下げられねばならない。
やがては一瞬も不満が出なくなる。
私たちは、合言葉としての全託ではなく
合言葉としての献身ではなく
真の全託を求められている。
神がそれを必要としているからではない。
夢を見る者にとって、それが必要だったからだ。
ムージのサットサンでシェアしてくれている彼女のように
神に私をあげてしまうことなんだよね。
.