「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

平成25年「三社(氏神様、枚岡神社、石切神社)詣り」

2013-01-05 02:15:53 | 日記
訪問日:平成25年1月2日(水)

 平成25年正月。私の実家は、東大阪市水走。恒例の「氏神様」「枚岡神社」「石切神社」の三社詣り。今年は、「歩紀」を意識して古い街並みやレトロな建物を訪ねながら歩くこととする。


 阪神高速が開通してからは、道路交通情報などでお馴染みになったが「水走」と書いて「みずはい」と読む。旧大和川の支流、吉田川の流れに沿って発達した集落だ。
 

 実家を午前9時に出発し、まず氏神様の「大津神社」に参拝する。鳥居横の石碑に書かれた由緒によると延喜式に載せられた古社であり、天児屋根命(アメノコヤネノミコト)の乳母「津速比賣(ツハヤヒメ)」をご祭神とする。「大津」の「津」とは「港」のこと。ここ河内平野は、太古の時代大阪湾が深く入り込んだ内海であり港として栄えた。神社の名前もそれに由来するのだろう。
 

 境内には古水走太鼓台の格納庫が。この地域は、秋祭りになると地区ごとに太鼓台が繰り出す。水走は「古水走」と「町水走」に分かれる。他の地区は布団太鼓の布団が5段だが、古水走の太鼓台は布団が7段(ちょっと薄いが)だったことが私たちが子供のころのちょっとした自慢だった。
 

 古水走の狭い旧道を抜ける。
 

 しばらく歩くと「東大阪市立英田北小学校」に突き当たる。ここは私の母校(当時は「英田小学校」)だ。「英田」と書いて「あかだ」と読む。木造校舎からプレハブの仮校舎、鉄筋の新築校舎と、高度成長時代とともに時が流れた。「二宮金次郎」像の周りは池だったと思う。英田小学校は、児童数の増加に伴い「北」「南」に分かれた。しかし、新しくできた小学校は「英田南」でいいが、英田小学校は、廃校になったわけではないのだから、英田小学校のままでよかったんじゃないだろうか。でないと校歌の歌詞が変わってしまうじゃないか。
 

 英田北小学校の突き当たりを左折し、松原地区に入る。この辺りは、大坂と奈良を最短で結ぶ「暗越奈良街道」が横切る。酒屋前の角には石の古い道標が。
 

 しばらく進むと小さな地蔵堂に出るが、そこにこの辺りが「松原宿」であったという看板が立つ。
 

 今は、宿場町としての面影はないが、それでも所々古い家が残る。手前の鉄塔は、消防団の火見櫓。
 

 集落を抜けると、国道308号線の「河内松原」交差を越える。信号を渡ると大きな公園に入る。ここは、高校ラグビー界の甲子園「花園ラグビー場」だ。
 

 私が小さい頃、ラグビー場のほかにゴルフ練習場と大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)の寮しかなかった。今は、野球場や陸上競技場、プラネタリウムなどが立つ「花園中央公園」として整備され、防災拠点にもなっている。
 

 花園中央公園を出て、生駒山方向(東)に歩く。私が卒業した小・中・高校の校歌の第一小節には、すべて「生駒」が出てくる。私たちにとって生駒山(642メートル)は、母なる山だった。
 

 東大阪市は、昭和42年「布施市」「河内市」「枚岡(ひらおか)市」の3市が合併してできた。私が小学校に入学した当初も「河内市立英田小学校」だった。「旧河内市」と「旧枚岡市」の市境である「恩智川」。大阪の大動脈「大阪外環状線(国道170号線)」を越えて、さらに山に向かって歩く。旧枚岡市役所だった東大阪市旭町庁舎が右に現れれば旧国道170号線(東高野街道)だ。鳥居町の集落に入る。集落名の由来となった枚岡神社一の鳥居がそびえる。
  

 鳥居をくぐった所に「鳥居・出雲井太鼓台収納庫」が立つ。
 

 鳥居をくぐれば緩やかな坂道になる。写真ではわかりづらいが近鉄奈良線の手前では結構きつい坂道になる(自転車は乗って上れない)。
 

 踏切を渡って線路沿いに左折すれば近鉄奈良線「枚岡駅」の前に出るが、その真ん前が「枚岡神社」。河内國一の宮、旧官幣大社。古社という言葉がぴったりの神々しい雰囲気のするお社だ。
 

 参道の玉砂利を上れば甘酒授与所。元旦は、御神酒が振る舞われる。
 

 枚岡神社は「元春日」とも呼ばれ、金網に囲まれてわかりにくいが手水舎も春日大神の使者である「鹿」だ。
 

 古札を納めた後、石段を登って参拝に向かう。
 

 ご祭神は、「天児屋根命」「比賣大神」「武甕槌命」「経津主神」の4柱であり、拝殿の奥には4棟の神殿が並ぶ。
 

 参拝を終え、お社を後にする。神社の前には良い雰囲気の消防団庫が。
 

 近鉄のガードをくぐって次の神社「石切神社」に向かうが、途中、地蔵堂や古い屋敷が並ぶ。
 

 

 

 いくつの屋根が重なっているのだろう。
 

 古い家並みを抜けると「枚岡中央公園」という小さな児童公園に出るが、その片隅に「大坂夏の陣徳川家康本陣跡」の碑が立つ。徳川家康が元和元(1615)年、大坂城を攻める直前、ここにあった「中村四郎右衛門宅」に本陣を置いたとか。
 

 道を挟んで山手に東大阪市の施設で「豊浦公民分館」がある。外装はきれいにしているが木造瓦葺き2階建ての建物に古い門柱、運動場のような空間に桜の木。元々は学校だったのだろうか。私が小さい頃、ここは「准看護婦学校」だったように思う。
 

 公民分館のさらに山手に「子安地蔵尊」の地蔵堂が立つ。
 

 地蔵堂の前にも立派な屋敷が。
 

 地蔵堂と土蔵の間にある建物も木造瓦葺きを基にした「偽洋館」だ。
 

 路地を抜けていくと、枚岡市が「町」であった頃の「枚岡町役場跡」。今は、信用金庫の支店になっている。以前は、右のカーポートのところに古い土蔵があったと思うのだが。
 

 古い酒屋もある。
 

 路地を抜けていくと古い街並みが続く。手前のタイル張りの建物は、営業しているのか店を閉めているのかわからないが「食堂」のようだ。
 

 ガラス窓の奥に丼物のサンプルが飾られている。
 

 この一角は完全に「昭和」だ。
 

 立派な屋敷も残る。
 

 路地を抜けていくと河内西国三十三カ所霊場第22番札所の「真言宗額田寺」。西国三十三カ所とは、平安時代末期から室町時代にかけ、現在の近畿2府4県(一部岐阜県)にまたがる観音霊場巡礼の旅。河内西国三十三カ所は、生駒信貴山系の西に点在する観音霊場巡りで、江戸時代から庶民の間で広まったという。
 
 
 同じく第23番札所の「浄土宗玄清寺」。
 

 ここから坂道を下って行くと左に消防署(団)。きれいに外装が整えてられているが、結構古い建物だろう。
 

 そのすぐ隣に「額田太鼓台格納庫」がそびえる。岸和田の地車庫にも負けない立派な建物だ。
 

 太鼓台格納庫の向かいには、大きな工場が。この辺りは、生駒山からの急流を利用した水車を動力として古くから伸線工業(針金製造)が盛んである。わりと大きな針金工場で、敷地内には入れないが趣のある洋風の社屋が建っている。
 

 狭い路地を抜けていく。小さなお社があったので参拝する。拝殿の横には一升瓶と紙コップが置かれていた。セルフサービスの御神酒だ。
 

 ここから自転車がやっとの路地を抜けると、突然目の前に大きな鳥居が現れる。これから訪ねる「石切神社」の一の鳥居だろうか。
 

 参道を進んでいくと石切神社の「絵馬殿」前に出る。今日最後の神社「石切神社」に着く。正式名は「石切劔箭神社」というが「石切さん」と親しまれている。「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」とその御子「可美真手命(ウマシマデノミコト)」をご祭神とする。「饒速日命」とは、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)」つまり、初代神武天皇が東征の際、一戦を交えた「長髄彦(ナガスネヒコ)」の主である。石切神社の周辺に、その戦場である「孔舎衛(くさか)」「盾津(たてつ)」の地名が残る。
 

 石切神社は、「でんぼの神様」として親しまれている。「でんぼ」とは大阪弁で「でき物・腫れ物」のこと。同社の祭神は、でんぼとは何の関係もないが、石をも切る鋭い剣なので腫れ物などすっぱりと切るということだろう。「腫れ物=腫瘍=癌」ということで「癌封じ」としての信仰も厚い。この日も拝殿から絵馬殿までお参りの行列が並んでおり、参拝を断念した。また、後日に来よう。
 

 しかし、ちゃっかり「御神酒」だけはいただいた。
 

 石切神社でもう一つ有名なのは参道の商店街である。神社前から近鉄奈良線石切駅前まで続く細長く、かつ狭い坂道の商店街だ。
 

 私が子供の頃の印象として、この商店街は、生駒山からの急流を利用した水車で漢方薬を製造し、病気平癒を祈願にきた参拝客相手の漢方薬店が並び、漢方薬の材料となるマムシや人体模型、何やらおどろおどろしい絵が並ぶ独特の雰囲気を持つ商店街だった。
 

 その合間に参拝客相手の食堂やお土産物屋さん、日用品店や衣料品店などが肩を寄せ合っていた。
 

 

 確かに当時から何件かの「手相見」や「命名」などの占いが見られたが、最近では、その「はっきりしない神秘性(Deep性)」からパワースポットとしての印象が強調され100件ほどの占い師が店を連ね「占いの街」となっている。
 

 「石切大仏」。この地でマムシの漢方薬で財を成した方が建立したものだが昭和50年代のことで私が子供のころにはなかった。
 

 「石切不動明王」なるお不動さんまでできている。いつの間にできたのだろう。
 

 つまり「占い」も「大仏」も「不動明王」も古の石切とは何の縁もない。そのためか商店街も特に「占い」「大仏」「不動明王」などはPRしていないように感じられる。「昔の石切が懐かしい」そんなことを考えながら歩いているうちに近鉄石切駅前に着いた。近鉄奈良線で来ればここがスタート地点になる。私はここから実家まで歩いて帰る。本日の歩紀「17910歩」(15.40km)。 
 

 


 
 
コメント
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