訪問日:平成25年3月2日(土)
出 発:阪急バス「余野」
到 着:JR「亀岡駅」
前回の「余野街道」に続いて摂丹街道のうち「能勢・余野」から「京・亀岡」を結ぶ「亀岡街道」の部分を歩く。京都・亀岡は、かつて「亀山」と呼ばれていたが、版籍奉還により、明治2年、三重・亀山と混同するからと「亀岡」に改められた。そのため「亀岡街道」は、かつて「亀山街道」と呼ばれていた。前回、歩いた余野街道においても道標や説明書きで「かめやま道」という名前がたくさん出てきたのもそのためだ。ややこしいので、このページでは「亀岡街道」とする。旧道があるのか、ないのか。よくわからないので、とりあえず国道423号線に沿って歩く。
前半は、ほぼ平坦な道を歩く。「笑路」を過ぎた頃から「明智戻り岩」入口までは緩やかな下り坂。そこからは大きく高度を下げ、その後、終点の亀岡駅までは平坦な道を歩く。自販機は適度にあるが、店・トイレはあまりない。
前回のゴール「能勢・余野」が今日のスタート地点。私は、例によって豊能町巡回バスでやってきたが、大阪市内方面からであれば阪急池田駅から阪急バスで約40分、540円。豊能町役場前に到着する。9時35分出発。
大坂を出発し、茨木を経て進んできた「亀岡街道」は、ここ「余野」で「余野街道」と交わり京・亀岡へと続く。余野交差点を左(西)に曲がり亀岡街道を進むが、交差点のすぐ北側にコンビニがある。ここからゴールの亀岡までコンビニはないので、必要なものがあればここで購入しよう。
「小泉橋」で余野川を渡り、前回の「余野ぶらぶら」で歩いた立派な屋敷前を通り過ぎ、再度「城之越橋」で余野川を渡る。すぐに「切畑口」で国道423号線と合流する。
途中でわずか200mほどだが村中に入る道が現れるので、そちらに進む。
お地蔵様があるので、この道が旧道なのだろう。
すぐに国道と合流するが、国道の向こうに見える小径が角度的に明らかに延長線上に見えるので、国道を渡り余野川堤防沿いの道に進む。
余野川沿いの道も10分ほどで国道へ上がる道に突き当たる。
国道沿いにはお地蔵様。
そのすぐ前は「妙見口」という三叉路で、左折すれば「野間峠」を経て妙見山と能勢に続く。ここでいくつかの小川が集まり余野川となる。そのまま国道を北に進む。
コスモスの里と牧の棚田を左に見ながら進む。
前方に喫茶レストランが見えると左の小径にそれる。そこには「牧の妙見山道標」が立つ。豊能町教育委員会の説明文によると京都の「講」により建立され明治期のものらしい。「右 能勢妙見宮」とある。「亀岡街道」は、京の人からすれば「妙見山」への道でもあるのだ。道標の向こうに見える小川に沿って歩く。
山裾で左からの道と合流すれば、すぐに鳥居と石灯籠が現れる。「牧太歳神社」だ。「太」歳と書くが「おおとし」と読む。以前来たときにはなかったが、真新しい「社号標」が立っていた。左脇にはお地蔵様が。
鳥居をくぐれば、杉の大木が二本並び、そこから150mほど参道が続く。
境内は広く、奉納殿も備えた立派な神社だ。今日一日の無事を祈願する。
御祭神は、素戔嗚尊など。大歳神社なので「年神様」をお祀りするのだろう。
神殿に向かって右側に小さな道があるので進んで見た。すぐに小さな貯水池があり、山手にはお社が建てられている。
村の水源地のようで清らかな水が貯えられている。
棚田の畦道を進んでいく。
すぐに国道423号線と合流し、数分で「牧公民館」に着くが、ここには自販機とトイレがある。ここは、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~「彼岸花とコスモスが咲く秋の棚田を訪ねる」」で訪ねた。
公民館横の広場には「合併記念碑」が建っている。写真の碑文を読み起こすと
当は、旧藩時代旗本領に属し、牧村といったが、明治22年、自治制発布に伴い、京都府南田郡西別院村字牧となった。以来
60年余り、民は大阪府への合併希望を潜在意識として常に持ち続けて来た。丁度、町村合併促進法の施行によって表面化し、
亀岡市誕生にも極力反対したが、諸般の情勢上、一応、昭和30年1月1日、亀岡市西別院町牧となった。その後も大阪府への合併
実現に努力し、遂に、昭和33年4月1日、宿願の大阪府豊能郡東能勢村牧となった。
ここ「牧」は、かつては京都府南桑田郡西別院村(現亀岡市西別院町)だったが、村人たちは大阪府に編入されることを強く望み、昭和33年4月、大阪府豊能郡東能勢村(当時)に編入されたことを記念して建てられたものだ。記念碑のすぐ隣には「浄土宗梅相院」の石段が境内へと続く。
ここは、かつての松尾城主「長沢山城守」の菩提寺として建立されたもので、山門が「医薬門」という珍しい構造になっている。
山門をくぐり左へ。境内の墓地の端っこに、竹藪を背に「地蔵坐像道標」が。延享5(1748)年の造立で地蔵尊の台石は道標になっており右側面に「右いけた道」と刻まれている。
左側面には「左かめ山道」。実際の方向とは逆になっており、何れかから移されたものだが、元の場所は不明だとか。
そして、お寺のすぐ前は、大阪と京都の府境だ。
大阪と京都の「府界」石碑が立つ。「これより丹波の國に入る。」と言いたいが、先ほどの説明のとおり、昭和33年までこの辺りは京都府であり「旧丹波の國」であったので国境ではない。
府境を越えるとすぐに、この辺りの水田が「妙見山御供米田」であったことを示す石標などが並ぶ。
そして数十m先の右側に「お食事処弁天の里」という店がある。「玉子かけご飯」が有名だ。インターネットでも紹介されている。時間は、午前10時30分過ぎ、昼ご飯には少々早いが「朝昼」兼用の食事をしよう。
ご飯とみそ汁、高野豆腐煮、漬け物付きで400円。ご飯「大盛り」(+50円)もあるが「並」で十分。
玉子は、自分で取りかけ放題。味付けの醤油も選べる。
地元で採れる野菜や地玉子、鶏肉、猪肉なども販売されているが、腹ごしらえを終え店を出る。
店のすぐ北隣に酒屋があり、振り返るとそこから左に入る道があるので、その道を進む。雪が舞ってきた。
すぐ左に市杵島神社がある。
ここは、奥にある白髭神社の境内社で、その名前からわかるとおり、天照大神と須佐之男命の誓約(うけい)の際に誕生した宗像三女神のひとり「市寸島比売命(=市杵島姫)」を祀るが、神社と言うより「泉」だ。
社殿裏から湧き出る清水は、かつて心優しい皇女が乳の出が悪く困っていたところ、命を助けた白蛇のお告げにより、この清水を飲んだところ乳の出が良くなったということから「乳の泉」と呼ばれるようになったとか。今も多くの人が水を汲みに来る。
ただ、水汲み場は、一旦湧き水を溜めた池から導水されており、その池の水は長らく空気に触れているし、落ち葉や枯れ草も浮いている。私が以前訪れた時には、その池で蛙をくわえた大きな蛇が泳いでいた。別に蛇が泳いでいたから水質が悪いと言うことではないし、市杵島姫は仏教では「弁財天」「弁天さん」とされ、弁財天は白蛇の化身というから因縁もあるのだろうが、飲用に際しては自己責任で。
奥にある本殿「白髭神社」に詣る。かなり吹雪いてきた。
覆屋の中に社殿があり、御祭神は、大戸道命・応神天皇・天児屋根命である。琵琶湖の白髭神社は、宗像三女神をご祭神とする安芸の宮島「厳島神社」同様、湖上に赤い大鳥居が浮かぶ。白髭神社と宗像三女神とは深い関係があるのだろう。
吹雪の中を進む。左に菜園分譲地が見えれば間もなく「柚原(ゆのはら)」の集落に着く。
立派な土蔵だ。
茨木方面から進んできた道が突き当たる「柚原」の三叉路。ここは、診療所や小学校、郵便局、公民館、駐在所などが集まる。地図上では「ヤマザキショップ」があるが潰れていた。個人店は、潰れていたり休日は閉店している場合が多いので、やはり店舗情報は「コンビニ」を基本にした方が良いだろう。
公民館横には「臨済宗常楽寺」の鐘楼と「多吉神社」の鳥居が並ぶ。かなり吹雪いている。
「多吉神社」。最も最初に高天原に御現れになった「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」とともに「造化三神」と呼ばれる「高御産巣日神(タカミムスヒノカミ」と「神産巣日神(カムムスヒノカミ)」の二神が御祭神だ。
拝殿に続く石段の左には、湧き水だろうかきれいな水が溜められ、しめ縄で結界されていた。ここで禊ぎをするのだろうか。
郵便局前の酒屋さんは、私の愛飲酒「秋鹿」を取り扱っている。ただし、店は閉まっている。「竹炭」も売っているようだ。
国道を下っていく。歩道と車道が分離しているので安全だ。歩道があると言うことは、人が行き来するのだろう。
途中、左側に英国風のカフェレストランがあり、結構、流行っているのか車がたくさん停まっていた。
レストランを過ぎれば、天理教の教会の前に「能勢妙見山」と書かれた道標。下には「右 ちか道 左 本街道」と彫られている。手前に転がっている石も道標だ。
しばらく歩くと右に棚田が開け、集落に出る。「笑路」という集落だ。「わろうじ」と読む。
相変わらず吹雪いているな。
道路左側に「一石一字法華経塔」が。下には「右 のせ 犬甘野道 左 大阪 いけた(だ)」と読める。
能勢妙見山御供米田の石碑も。
すぐ前の三叉路が「笑路」交差点。
交差点の角には「左 能勢妙見山道」の道標。
土蔵の前で「雪宿り」。
笑路を過ぎたころから国道423号線は、歩車道の区別がなくなる。比較的車が少なく、道も広いが車には気をつけて歩こう。
右に鳥居と石灯籠が見えてくる。京から妙見山へは、かつて「万寿越」という旧道があったようだ。鳥居右の道がそのようだが、今は途絶えている。
鳥居手前には、この辺りの水田が妙見宮御供米田であったことを示す石標が。
鳥居の真ん前にも同様の石碑が立っている。
国道を進んでいくと「皿谷池」という大きな池が右に見える。この池の下から「法貴谷川」という川が流れる。
国道添いには、廃業した食堂とラーメン屋が。こういう風景は、本当に寂しい。途中にも廃業した店が見られる。
国道は、法貴谷川に沿ってカーブしながら徐々に高度を下げていく。
国道の両脇は深い森。夜間、この辺りは鹿がよく出没する。
道幅も狭くなり、通過車両に危険を感じ始めたころ「明智の戻り岩」の案内板が現れる。ここから国道423号線は、ヘアピンカーブを繰り返し、一気に100mほど高度を下げる。
ここからは「法貴谷ハイキングコース」となり国道からそれる。時間は、午後0時10分、先ほど遅い食事をしたので「ソイジョイ」で軽く食事を済ませる。
ハイキングコースに入る。
すぐに大きな岩が現れるが、これが「明智戻り岩」と呼ばれる岩らしい。「屏風岩」とも呼ばれる。明智光秀の進軍をも拒むほどの難所であったので、このように名付けられたのだと思っていたが、説明文を読むと「織田信長から豊臣秀吉の中国攻めの援軍を命ぜられた明智光秀が、ここで本能寺へ鉾先を変え、後戻りしたことから、明智戻り岩と呼ばれるようになった。」ということが書かれている。
岩面には、お題目が彫られている。
国道が高度を下げる分、ハイキングコースも急な下り坂が続く。逆コースであれば、かなりの難所だっただろう。浮き岩が多いので、足元に十分注意して歩こう。
途中、小さな滝がいくつか見られる。
「明智戻り岩」との分岐点の先に砂防ダムが糸のように流れを引いていたので、そちらへ向かう。
砂防ダムの前まで行くと、右上に何やら祠が見える。比較的新しい祠だが、古い磨崖仏か何かをお祀りしているのだろう。崖を登って、すぐ前まで行ける。
元の道に戻り、右に砂防ダムの小さなダム湖が見えると、間もなく山道も終わる。ダム下の竹藪には「南妙法蓮華経」の法界石塔と石灯籠が佇む。竹が入っていると言うことは、かなり長い間、人の手が入っていないのだろう。
最後の急な坂道を下ると、左に「国狭槌(くにさつち)神社」が現れる。御祭神の「国狭槌命」は、野山を司る神様といわれ、かつて石工たちが信心したことから、今も土木建築関係者らによる信仰が厚いといわれる。
境内は冬にもかかわらず苔むした静かな雰囲気だった。
神社を過ぎれば集落に出る。ここら辺りは「法貴」という集落らしい。村を抜け「天台宗天王禅寺」前で国道423号線と合流する。
国道を進むと、すぐ左に鳥居が。ここも妙見山への参道で、神仏習合の名残が深い妙見山は、途中、多くの鳥居が残る。
そして、鳥居の足元には「北辰妙見大菩薩」の道標。足元には「右 能勢妙見山ちか道」の文字が。私の勝手な推測かも知れないが、妙見山への道標は、大坂側より京側の方に立派なものが多く残っているように思う。京側の「講」には裕福な人が多いのか。それとも、実績重視の「浪速商人」と違い、都のプライドがそうさせたのか。
国道を進み、田んぼの真ん中に一つ目の信号が見えてくれば左に。
すぐ右の屋敷の脇に「妙見宮」と書かれた石灯籠が立つ。
そのまま進むと左手に小さな消防用水が現れ、そのすぐ横に「愛宕山」の石灯籠が。直線距離で亀岡の北東約7kmに愛宕山(924m)がそびえ山頂には愛宕神社が鎮まる。愛宕社は、火伏せの神様として信仰が厚く、各地で愛宕信仰が見られる。この灯籠もそのひとつだろうか。
まっすぐ進むと「臨済宗慈雲禅寺」。
先ほどの愛宕山石灯籠まで戻り左へ。曽我部町法貴の町を過ぎる。途中、道の脇にはお地蔵様。
集落を抜け、田んぼの真ん中の四つ角にも愛宕社の石灯籠が立ち、ここを過ぎれば三叉路に突き当たるので左へ。
すぐに右側に古い土壁の建物と茅葺きの屋敷が見える。
その前を過ぎれば「河内橋」という橋に出るので川の手前を右に。
犬飼川という川の土手には桜並木が。まだ花の季節には早いが、春には見事な桜並木となる。平成の時代に入って植樹されたらしいが、公園化されていないおよそ300mの桜並木が素晴らしい。
(平成23年4月に撮影)
先ほど見た茅葺きの屋敷は、裏から見ると茅が崩れていた。
桜並木が終わる所に赤い「天神橋」という橋が架かる。その名のとおり天神さんにつながる。
「犬飼天満宮」。境内入り口には、樹齢500年を越える立派な杉の木がそびえる。
奉納殿の壁には消防団の「ポンプ入魂式」の記念写真が掲げられていた。これも日本の原風景だろう。みんな神様の力を借りて暮らしているのだ。(写真は本殿)
牛像の下からは山の湧き水が引かれていた。
その湧き水が流れてできた泉には「弁財天」が祀られている。
犬飼天満宮から南に進み鳥居をくぐって左に曲がる。水路沿いに進んでいく。
白壁の土蔵には「亀」が。
水路が分かれるところに石碑が。道標らしい「右 山道 左 妙見」と読める。
さらに進んで行くとすぐ右側に大きな木造瓦葺きの建物があったので表にまわると「公民館」だった。カーテン越しに中をのぞくと、広い板の間が広がっており、たくさんの表彰状が掲げられていた。
ここの集落は、縦横に水路が引かれている。
水路脇には「近畿自然歩道」の案内板が。
集落を抜けると国道423号線と合流する。そこにも妙見山を示す道標が立つ。「右 山道 左 妙見道」
しばらく国道423号線を歩く。この辺りは、歩道と車道が区別されている。
10分ほどで「亀岡市立曽我部小学校」前の交差点に出るので左折する。次の四つ辻の角に立つ「浄土宗晴明寺」のお堂の前にお地蔵様と道標が並ぶ。
半分は埋まっているが「右 かめ(やま) 左 あな(ふ)」と書かれているのだろう。
1kmほど田んぼの中の一本道を歩く。ここは、ひがん花の里らしい。その頃、また訪れてみたい。
右側に「愛宕山」と「金毘羅山」の石灯籠が並んでいる。
石灯籠を過ぎ、左に「原田邸のセンダン」という大木が見えれば「穴太寺」も近い。
天台宗穴太(あなお)寺。「あなおお(う)じ」「あのうじ」などと呼ばれる。正面の「仁王門」は、江戸時代中期の再建。
慶雲2(705)年、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が創建したといわれる。西国観音霊場二十一番札所にもなっている。拝観時間は、午前8時から午後5時まで。本堂・庭園は、拝観料500円。境内は無料。
本堂は1735年再建。ご本尊は「薬師如来」。本堂に安置されている「木彫釈迦涅槃像」は、撫でた部分の病気が良くなる「なで仏様」として多くの人がお参りする。
多宝塔。1804年の再建。本堂とともに京都府指定文化財に指定されている。
この奥に素晴らし庭園があるようだが、冬期は公開されていないようだ。庭先の梅も蕾は堅いままだった。
仁王門前を左に行くとすぐに「圓山應擧誕生地」の石碑が立つ。円山応挙は、享保18(1733)年、ここ丹波國桑田郡穴太村で農家の次男として生まれた。狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家で幽霊画などが有名だ。なお、後ろの茅葺き屋根の家は、まったく関係のない個人宅である。
圓山應擧誕生地前の道を南に進む。この辺りの水田を整備したときのお地蔵様を集めているのだろうか。
突き当たりを左に曲がり「重利」の集落を歩く。
右手に「曹洞宗三恵院」という寺と「重利倶楽部」と掲げられた木造の建物が現れる。
その向かいには「重利消防団」の倉庫。
そのまま180mほど進むと国道423号線に合流するので左折し、国道沿いを歩く。時々、吹雪く。
京都縦貫道が跨ぐ「重利」交差点で国道423号線は終わる。
ここからは、国道372号線が亀岡街道を引き継ぐ。右には「愛宕山」の石灯籠。
ガソリンスタンドの向こうには「豆屋黒兵衛」というお土産屋さんがある。京漬物や黒豆のスイーツなどが売られている。
あと300mで国道372号線は、国道9号線と合流する。
合流する手前にお地蔵様が並ぶ。厳冬期なのにきれいな花が供えられていた。
「加塚」交差点。国道としての山陰道(国道9号線)、亀岡街道(国道372号線)の合流点だ。付近は、亀岡市役所や警察署・検察庁・裁判所などが並ぶ官庁街だ。
市役所の前には、亀岡市が生んだ生涯教育の先駆者「石田梅岩」という人に因んだ顕彰碑が建てられていた。亀岡市は、同氏が説いた「心学」という理念に基づいて、さまざまなことに取り組んでいるそうだ。後ろは、亀岡市役所。
旧道は、後しばらく続く。「市役所前バス待合所」の右側から脇道に入る。これが旧街道だそうだ。確かにお地蔵様が並ぶ。
そして200mほど進むと角に銀行がある交差点に着く。ここが、どうも亀岡街道の終点らしい。
交差点の南角に「すぐ穴太寺」の道標が埋まる。右は「亀岡町道路元標」。これで「余野街道」「亀岡街道」と2回に分けて「摂丹街道」を歩いた。歩いて感じたことは、余野街道や能勢街道は、多くの旧道や脇道があったが、亀岡街道は、ほぼ国道423号線に沿って進んでいること。そして、多くの道標の行き先が最終点である「池田」や「大坂」「茨木」ではなく「妙見山」であることだ。
人口密度が高い大坂からは、多くの京へ続く道があったが、京からの主な道は「東海道」や「西国街道」で、亀岡街道は、もっぱら「妙見詣」に利用されたのだろうか。
午後3時、今回のゴール「JR亀岡駅」に着く。亀岡市内は、別の機会に歩こうと思うので、これより帰途につく。京都駅を経由して大阪駅まで約1時間(1110円)。本日の歩紀「25169歩」(21.64km)。
出 発:阪急バス「余野」
到 着:JR「亀岡駅」
前回の「余野街道」に続いて摂丹街道のうち「能勢・余野」から「京・亀岡」を結ぶ「亀岡街道」の部分を歩く。京都・亀岡は、かつて「亀山」と呼ばれていたが、版籍奉還により、明治2年、三重・亀山と混同するからと「亀岡」に改められた。そのため「亀岡街道」は、かつて「亀山街道」と呼ばれていた。前回、歩いた余野街道においても道標や説明書きで「かめやま道」という名前がたくさん出てきたのもそのためだ。ややこしいので、このページでは「亀岡街道」とする。旧道があるのか、ないのか。よくわからないので、とりあえず国道423号線に沿って歩く。
前半は、ほぼ平坦な道を歩く。「笑路」を過ぎた頃から「明智戻り岩」入口までは緩やかな下り坂。そこからは大きく高度を下げ、その後、終点の亀岡駅までは平坦な道を歩く。自販機は適度にあるが、店・トイレはあまりない。
前回のゴール「能勢・余野」が今日のスタート地点。私は、例によって豊能町巡回バスでやってきたが、大阪市内方面からであれば阪急池田駅から阪急バスで約40分、540円。豊能町役場前に到着する。9時35分出発。
大坂を出発し、茨木を経て進んできた「亀岡街道」は、ここ「余野」で「余野街道」と交わり京・亀岡へと続く。余野交差点を左(西)に曲がり亀岡街道を進むが、交差点のすぐ北側にコンビニがある。ここからゴールの亀岡までコンビニはないので、必要なものがあればここで購入しよう。
「小泉橋」で余野川を渡り、前回の「余野ぶらぶら」で歩いた立派な屋敷前を通り過ぎ、再度「城之越橋」で余野川を渡る。すぐに「切畑口」で国道423号線と合流する。
途中でわずか200mほどだが村中に入る道が現れるので、そちらに進む。
お地蔵様があるので、この道が旧道なのだろう。
すぐに国道と合流するが、国道の向こうに見える小径が角度的に明らかに延長線上に見えるので、国道を渡り余野川堤防沿いの道に進む。
余野川沿いの道も10分ほどで国道へ上がる道に突き当たる。
国道沿いにはお地蔵様。
そのすぐ前は「妙見口」という三叉路で、左折すれば「野間峠」を経て妙見山と能勢に続く。ここでいくつかの小川が集まり余野川となる。そのまま国道を北に進む。
コスモスの里と牧の棚田を左に見ながら進む。
前方に喫茶レストランが見えると左の小径にそれる。そこには「牧の妙見山道標」が立つ。豊能町教育委員会の説明文によると京都の「講」により建立され明治期のものらしい。「右 能勢妙見宮」とある。「亀岡街道」は、京の人からすれば「妙見山」への道でもあるのだ。道標の向こうに見える小川に沿って歩く。
山裾で左からの道と合流すれば、すぐに鳥居と石灯籠が現れる。「牧太歳神社」だ。「太」歳と書くが「おおとし」と読む。以前来たときにはなかったが、真新しい「社号標」が立っていた。左脇にはお地蔵様が。
鳥居をくぐれば、杉の大木が二本並び、そこから150mほど参道が続く。
境内は広く、奉納殿も備えた立派な神社だ。今日一日の無事を祈願する。
御祭神は、素戔嗚尊など。大歳神社なので「年神様」をお祀りするのだろう。
神殿に向かって右側に小さな道があるので進んで見た。すぐに小さな貯水池があり、山手にはお社が建てられている。
村の水源地のようで清らかな水が貯えられている。
棚田の畦道を進んでいく。
すぐに国道423号線と合流し、数分で「牧公民館」に着くが、ここには自販機とトイレがある。ここは、以前「野里町歩紀~摂河泉をゆく~「彼岸花とコスモスが咲く秋の棚田を訪ねる」」で訪ねた。
公民館横の広場には「合併記念碑」が建っている。写真の碑文を読み起こすと
当は、旧藩時代旗本領に属し、牧村といったが、明治22年、自治制発布に伴い、京都府南田郡西別院村字牧となった。以来
60年余り、民は大阪府への合併希望を潜在意識として常に持ち続けて来た。丁度、町村合併促進法の施行によって表面化し、
亀岡市誕生にも極力反対したが、諸般の情勢上、一応、昭和30年1月1日、亀岡市西別院町牧となった。その後も大阪府への合併
実現に努力し、遂に、昭和33年4月1日、宿願の大阪府豊能郡東能勢村牧となった。
ここ「牧」は、かつては京都府南桑田郡西別院村(現亀岡市西別院町)だったが、村人たちは大阪府に編入されることを強く望み、昭和33年4月、大阪府豊能郡東能勢村(当時)に編入されたことを記念して建てられたものだ。記念碑のすぐ隣には「浄土宗梅相院」の石段が境内へと続く。
ここは、かつての松尾城主「長沢山城守」の菩提寺として建立されたもので、山門が「医薬門」という珍しい構造になっている。
山門をくぐり左へ。境内の墓地の端っこに、竹藪を背に「地蔵坐像道標」が。延享5(1748)年の造立で地蔵尊の台石は道標になっており右側面に「右いけた道」と刻まれている。
左側面には「左かめ山道」。実際の方向とは逆になっており、何れかから移されたものだが、元の場所は不明だとか。
そして、お寺のすぐ前は、大阪と京都の府境だ。
大阪と京都の「府界」石碑が立つ。「これより丹波の國に入る。」と言いたいが、先ほどの説明のとおり、昭和33年までこの辺りは京都府であり「旧丹波の國」であったので国境ではない。
府境を越えるとすぐに、この辺りの水田が「妙見山御供米田」であったことを示す石標などが並ぶ。
そして数十m先の右側に「お食事処弁天の里」という店がある。「玉子かけご飯」が有名だ。インターネットでも紹介されている。時間は、午前10時30分過ぎ、昼ご飯には少々早いが「朝昼」兼用の食事をしよう。
ご飯とみそ汁、高野豆腐煮、漬け物付きで400円。ご飯「大盛り」(+50円)もあるが「並」で十分。
玉子は、自分で取りかけ放題。味付けの醤油も選べる。
地元で採れる野菜や地玉子、鶏肉、猪肉なども販売されているが、腹ごしらえを終え店を出る。
店のすぐ北隣に酒屋があり、振り返るとそこから左に入る道があるので、その道を進む。雪が舞ってきた。
すぐ左に市杵島神社がある。
ここは、奥にある白髭神社の境内社で、その名前からわかるとおり、天照大神と須佐之男命の誓約(うけい)の際に誕生した宗像三女神のひとり「市寸島比売命(=市杵島姫)」を祀るが、神社と言うより「泉」だ。
社殿裏から湧き出る清水は、かつて心優しい皇女が乳の出が悪く困っていたところ、命を助けた白蛇のお告げにより、この清水を飲んだところ乳の出が良くなったということから「乳の泉」と呼ばれるようになったとか。今も多くの人が水を汲みに来る。
ただ、水汲み場は、一旦湧き水を溜めた池から導水されており、その池の水は長らく空気に触れているし、落ち葉や枯れ草も浮いている。私が以前訪れた時には、その池で蛙をくわえた大きな蛇が泳いでいた。別に蛇が泳いでいたから水質が悪いと言うことではないし、市杵島姫は仏教では「弁財天」「弁天さん」とされ、弁財天は白蛇の化身というから因縁もあるのだろうが、飲用に際しては自己責任で。
奥にある本殿「白髭神社」に詣る。かなり吹雪いてきた。
覆屋の中に社殿があり、御祭神は、大戸道命・応神天皇・天児屋根命である。琵琶湖の白髭神社は、宗像三女神をご祭神とする安芸の宮島「厳島神社」同様、湖上に赤い大鳥居が浮かぶ。白髭神社と宗像三女神とは深い関係があるのだろう。
吹雪の中を進む。左に菜園分譲地が見えれば間もなく「柚原(ゆのはら)」の集落に着く。
立派な土蔵だ。
茨木方面から進んできた道が突き当たる「柚原」の三叉路。ここは、診療所や小学校、郵便局、公民館、駐在所などが集まる。地図上では「ヤマザキショップ」があるが潰れていた。個人店は、潰れていたり休日は閉店している場合が多いので、やはり店舗情報は「コンビニ」を基本にした方が良いだろう。
公民館横には「臨済宗常楽寺」の鐘楼と「多吉神社」の鳥居が並ぶ。かなり吹雪いている。
「多吉神社」。最も最初に高天原に御現れになった「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」とともに「造化三神」と呼ばれる「高御産巣日神(タカミムスヒノカミ」と「神産巣日神(カムムスヒノカミ)」の二神が御祭神だ。
拝殿に続く石段の左には、湧き水だろうかきれいな水が溜められ、しめ縄で結界されていた。ここで禊ぎをするのだろうか。
郵便局前の酒屋さんは、私の愛飲酒「秋鹿」を取り扱っている。ただし、店は閉まっている。「竹炭」も売っているようだ。
国道を下っていく。歩道と車道が分離しているので安全だ。歩道があると言うことは、人が行き来するのだろう。
途中、左側に英国風のカフェレストランがあり、結構、流行っているのか車がたくさん停まっていた。
レストランを過ぎれば、天理教の教会の前に「能勢妙見山」と書かれた道標。下には「右 ちか道 左 本街道」と彫られている。手前に転がっている石も道標だ。
しばらく歩くと右に棚田が開け、集落に出る。「笑路」という集落だ。「わろうじ」と読む。
相変わらず吹雪いているな。
道路左側に「一石一字法華経塔」が。下には「右 のせ 犬甘野道 左 大阪 いけた(だ)」と読める。
能勢妙見山御供米田の石碑も。
すぐ前の三叉路が「笑路」交差点。
交差点の角には「左 能勢妙見山道」の道標。
土蔵の前で「雪宿り」。
笑路を過ぎたころから国道423号線は、歩車道の区別がなくなる。比較的車が少なく、道も広いが車には気をつけて歩こう。
右に鳥居と石灯籠が見えてくる。京から妙見山へは、かつて「万寿越」という旧道があったようだ。鳥居右の道がそのようだが、今は途絶えている。
鳥居手前には、この辺りの水田が妙見宮御供米田であったことを示す石標が。
鳥居の真ん前にも同様の石碑が立っている。
国道を進んでいくと「皿谷池」という大きな池が右に見える。この池の下から「法貴谷川」という川が流れる。
国道添いには、廃業した食堂とラーメン屋が。こういう風景は、本当に寂しい。途中にも廃業した店が見られる。
国道は、法貴谷川に沿ってカーブしながら徐々に高度を下げていく。
国道の両脇は深い森。夜間、この辺りは鹿がよく出没する。
道幅も狭くなり、通過車両に危険を感じ始めたころ「明智の戻り岩」の案内板が現れる。ここから国道423号線は、ヘアピンカーブを繰り返し、一気に100mほど高度を下げる。
ここからは「法貴谷ハイキングコース」となり国道からそれる。時間は、午後0時10分、先ほど遅い食事をしたので「ソイジョイ」で軽く食事を済ませる。
ハイキングコースに入る。
すぐに大きな岩が現れるが、これが「明智戻り岩」と呼ばれる岩らしい。「屏風岩」とも呼ばれる。明智光秀の進軍をも拒むほどの難所であったので、このように名付けられたのだと思っていたが、説明文を読むと「織田信長から豊臣秀吉の中国攻めの援軍を命ぜられた明智光秀が、ここで本能寺へ鉾先を変え、後戻りしたことから、明智戻り岩と呼ばれるようになった。」ということが書かれている。
岩面には、お題目が彫られている。
国道が高度を下げる分、ハイキングコースも急な下り坂が続く。逆コースであれば、かなりの難所だっただろう。浮き岩が多いので、足元に十分注意して歩こう。
途中、小さな滝がいくつか見られる。
「明智戻り岩」との分岐点の先に砂防ダムが糸のように流れを引いていたので、そちらへ向かう。
砂防ダムの前まで行くと、右上に何やら祠が見える。比較的新しい祠だが、古い磨崖仏か何かをお祀りしているのだろう。崖を登って、すぐ前まで行ける。
元の道に戻り、右に砂防ダムの小さなダム湖が見えると、間もなく山道も終わる。ダム下の竹藪には「南妙法蓮華経」の法界石塔と石灯籠が佇む。竹が入っていると言うことは、かなり長い間、人の手が入っていないのだろう。
最後の急な坂道を下ると、左に「国狭槌(くにさつち)神社」が現れる。御祭神の「国狭槌命」は、野山を司る神様といわれ、かつて石工たちが信心したことから、今も土木建築関係者らによる信仰が厚いといわれる。
境内は冬にもかかわらず苔むした静かな雰囲気だった。
神社を過ぎれば集落に出る。ここら辺りは「法貴」という集落らしい。村を抜け「天台宗天王禅寺」前で国道423号線と合流する。
国道を進むと、すぐ左に鳥居が。ここも妙見山への参道で、神仏習合の名残が深い妙見山は、途中、多くの鳥居が残る。
そして、鳥居の足元には「北辰妙見大菩薩」の道標。足元には「右 能勢妙見山ちか道」の文字が。私の勝手な推測かも知れないが、妙見山への道標は、大坂側より京側の方に立派なものが多く残っているように思う。京側の「講」には裕福な人が多いのか。それとも、実績重視の「浪速商人」と違い、都のプライドがそうさせたのか。
国道を進み、田んぼの真ん中に一つ目の信号が見えてくれば左に。
すぐ右の屋敷の脇に「妙見宮」と書かれた石灯籠が立つ。
そのまま進むと左手に小さな消防用水が現れ、そのすぐ横に「愛宕山」の石灯籠が。直線距離で亀岡の北東約7kmに愛宕山(924m)がそびえ山頂には愛宕神社が鎮まる。愛宕社は、火伏せの神様として信仰が厚く、各地で愛宕信仰が見られる。この灯籠もそのひとつだろうか。
まっすぐ進むと「臨済宗慈雲禅寺」。
先ほどの愛宕山石灯籠まで戻り左へ。曽我部町法貴の町を過ぎる。途中、道の脇にはお地蔵様。
集落を抜け、田んぼの真ん中の四つ角にも愛宕社の石灯籠が立ち、ここを過ぎれば三叉路に突き当たるので左へ。
すぐに右側に古い土壁の建物と茅葺きの屋敷が見える。
その前を過ぎれば「河内橋」という橋に出るので川の手前を右に。
犬飼川という川の土手には桜並木が。まだ花の季節には早いが、春には見事な桜並木となる。平成の時代に入って植樹されたらしいが、公園化されていないおよそ300mの桜並木が素晴らしい。
(平成23年4月に撮影)
先ほど見た茅葺きの屋敷は、裏から見ると茅が崩れていた。
桜並木が終わる所に赤い「天神橋」という橋が架かる。その名のとおり天神さんにつながる。
「犬飼天満宮」。境内入り口には、樹齢500年を越える立派な杉の木がそびえる。
奉納殿の壁には消防団の「ポンプ入魂式」の記念写真が掲げられていた。これも日本の原風景だろう。みんな神様の力を借りて暮らしているのだ。(写真は本殿)
牛像の下からは山の湧き水が引かれていた。
その湧き水が流れてできた泉には「弁財天」が祀られている。
犬飼天満宮から南に進み鳥居をくぐって左に曲がる。水路沿いに進んでいく。
白壁の土蔵には「亀」が。
水路が分かれるところに石碑が。道標らしい「右 山道 左 妙見」と読める。
さらに進んで行くとすぐ右側に大きな木造瓦葺きの建物があったので表にまわると「公民館」だった。カーテン越しに中をのぞくと、広い板の間が広がっており、たくさんの表彰状が掲げられていた。
ここの集落は、縦横に水路が引かれている。
水路脇には「近畿自然歩道」の案内板が。
集落を抜けると国道423号線と合流する。そこにも妙見山を示す道標が立つ。「右 山道 左 妙見道」
しばらく国道423号線を歩く。この辺りは、歩道と車道が区別されている。
10分ほどで「亀岡市立曽我部小学校」前の交差点に出るので左折する。次の四つ辻の角に立つ「浄土宗晴明寺」のお堂の前にお地蔵様と道標が並ぶ。
半分は埋まっているが「右 かめ(やま) 左 あな(ふ)」と書かれているのだろう。
1kmほど田んぼの中の一本道を歩く。ここは、ひがん花の里らしい。その頃、また訪れてみたい。
右側に「愛宕山」と「金毘羅山」の石灯籠が並んでいる。
石灯籠を過ぎ、左に「原田邸のセンダン」という大木が見えれば「穴太寺」も近い。
天台宗穴太(あなお)寺。「あなおお(う)じ」「あのうじ」などと呼ばれる。正面の「仁王門」は、江戸時代中期の再建。
慶雲2(705)年、文武天皇の勅願により大伴古麻呂が創建したといわれる。西国観音霊場二十一番札所にもなっている。拝観時間は、午前8時から午後5時まで。本堂・庭園は、拝観料500円。境内は無料。
本堂は1735年再建。ご本尊は「薬師如来」。本堂に安置されている「木彫釈迦涅槃像」は、撫でた部分の病気が良くなる「なで仏様」として多くの人がお参りする。
多宝塔。1804年の再建。本堂とともに京都府指定文化財に指定されている。
この奥に素晴らし庭園があるようだが、冬期は公開されていないようだ。庭先の梅も蕾は堅いままだった。
仁王門前を左に行くとすぐに「圓山應擧誕生地」の石碑が立つ。円山応挙は、享保18(1733)年、ここ丹波國桑田郡穴太村で農家の次男として生まれた。狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家で幽霊画などが有名だ。なお、後ろの茅葺き屋根の家は、まったく関係のない個人宅である。
圓山應擧誕生地前の道を南に進む。この辺りの水田を整備したときのお地蔵様を集めているのだろうか。
突き当たりを左に曲がり「重利」の集落を歩く。
右手に「曹洞宗三恵院」という寺と「重利倶楽部」と掲げられた木造の建物が現れる。
その向かいには「重利消防団」の倉庫。
そのまま180mほど進むと国道423号線に合流するので左折し、国道沿いを歩く。時々、吹雪く。
京都縦貫道が跨ぐ「重利」交差点で国道423号線は終わる。
ここからは、国道372号線が亀岡街道を引き継ぐ。右には「愛宕山」の石灯籠。
ガソリンスタンドの向こうには「豆屋黒兵衛」というお土産屋さんがある。京漬物や黒豆のスイーツなどが売られている。
あと300mで国道372号線は、国道9号線と合流する。
合流する手前にお地蔵様が並ぶ。厳冬期なのにきれいな花が供えられていた。
「加塚」交差点。国道としての山陰道(国道9号線)、亀岡街道(国道372号線)の合流点だ。付近は、亀岡市役所や警察署・検察庁・裁判所などが並ぶ官庁街だ。
市役所の前には、亀岡市が生んだ生涯教育の先駆者「石田梅岩」という人に因んだ顕彰碑が建てられていた。亀岡市は、同氏が説いた「心学」という理念に基づいて、さまざまなことに取り組んでいるそうだ。後ろは、亀岡市役所。
旧道は、後しばらく続く。「市役所前バス待合所」の右側から脇道に入る。これが旧街道だそうだ。確かにお地蔵様が並ぶ。
そして200mほど進むと角に銀行がある交差点に着く。ここが、どうも亀岡街道の終点らしい。
交差点の南角に「すぐ穴太寺」の道標が埋まる。右は「亀岡町道路元標」。これで「余野街道」「亀岡街道」と2回に分けて「摂丹街道」を歩いた。歩いて感じたことは、余野街道や能勢街道は、多くの旧道や脇道があったが、亀岡街道は、ほぼ国道423号線に沿って進んでいること。そして、多くの道標の行き先が最終点である「池田」や「大坂」「茨木」ではなく「妙見山」であることだ。
人口密度が高い大坂からは、多くの京へ続く道があったが、京からの主な道は「東海道」や「西国街道」で、亀岡街道は、もっぱら「妙見詣」に利用されたのだろうか。
午後3時、今回のゴール「JR亀岡駅」に着く。亀岡市内は、別の機会に歩こうと思うので、これより帰途につく。京都駅を経由して大阪駅まで約1時間(1110円)。本日の歩紀「25169歩」(21.64km)。