「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

秋に向かう南丹~「亀岡」「八木」「園部」ドライブ歩紀~

2013-10-17 22:45:45 | 日記
訪問日:平成25年10月14日(月・祝)

 現在の京都府と兵庫県(一部、大阪府)にまたがり7藩を有したという広大な旧丹波國。稲刈りが終わり、紅葉が始まる前のこの時期、南丹と呼ばれる「亀岡」「八木」「園部」をマイカーを利用しながら山陰道に沿って歩く。町歩きなので給水・トイレには困らない。

出 発:道の駅「ガレリアかめおか」駐車場
到 着:道の駅「ガレリアかめおか」駐車場


 午前8時50分、豊能町の自宅をマイカーで出発。箕面森町を抜け「中止々呂美」交差から国道423号線に入り、京都府亀岡市へと向かう。この道は、以前、「摂丹街道を歩く1・2」で歩いた道だ。1日かけて歩いた道も車だとあっという間。午前9時30分、今日の出発点である道の駅「ガレリアかめおか」に着く。ここの駐車場に車を停めさせてもらう。
 

 すぐ前の「国道9号線」を右に進み「曽我谷川」という川を渡って左折、川沿いに歩く。
 

 5~60mほどで右に小さな神社が現れる。「伊達神社」ここで今日一日の無事を祈願する。
 

 住宅の間を抜け一方通行路に出て左折。裁判所の裏を進んで行く。
 

 突き当たりの手前に「石田先生誕生地」の碑。石田先生とは「石田梅岩」という人で、1685年、現在の亀岡で生まれ、日常道徳のあり方を探求し「心学」を説いたという。ここが誕生地というのではなく、亀岡市が誕生地という意味で建てられたのだろう。
 

 突き当たりを右折し、角に銀行が立つ交差点へ。
 
 
 ここが、旧摂丹(亀岡)街道の終(起)点であり、旧山陰道と交わる。交差点の角に道標が埋まる(「摂丹街道を歩く2~亀岡街道~」参照)。
  

 ここを左折し、亀岡駅方向へ進む。途中、右には、京都鉄道の創始者で元貴族院議員・田中源太郎の生家が建つ。
 

 明治31年に建てられた洋館と書院造りの和館、650坪の日本庭園が残り、今は「楽々荘」という料亭になっている。
 

 ここから亀岡駅までは、石田梅岩の教えに因んで「心学の道」と名付けられている。町おこしの一環だろう「しんがくん」というゆるキャラも描かれている。
 

 「楽々荘」から10分ほどで左にJR山陰本線「亀岡駅」が現れる。先ほどの田中源太郎が京都・嵐山から園部にかけて開設した「京都鉄道」の駅として明治32年開業し、その後、国鉄(JR)の駅となった。昭和18年に建てられた前駅舎は、木造のレトロ駅だったが、平成18年に取り壊され、2年後の平成20年、現在の駅舎が完成した。
 

 駅の裏側は、山まで田んぼが続く「田舎」風景が広がる。
 

 駅構内の「観光案内所」。市内観光地図やパンフレットなどが揃っている。京都府亀岡市。ここは、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波攻略のため築いた「亀山城」の城下町。今も古い寺社や街並みが残る。「亀岡」は、かつて「亀山」と呼ばれた。1869年、三重県亀山市と混同するからと「亀岡」に改称される。そのため文中には「亀岡」「亀山」の両方が出るが、誤りではないのであしからず。
 

 駅前の通りを突き当たりまで進む。
 

 そこは、亀山城址の堀跡に沿って作られた「南郷公園」。後ほど訪れる。
 

 信号を左折すると旧山陰道から国道9号線までを結ぶ道となり、亀岡市と姉妹都市提携をしているオーストリアの都市名から「クニッテルフェルト通り」と名付けられている。街路樹は「イチョウ」。時節柄、銀杏の臭い(香りではない)がする。
 

 途中、左に「浄土宗光忠寺」。
 

 寺の裏には「丹波亀山藩形原松平家」の御廟所がある。形原(かたはら)松平家は、元和4(1618)年、三河形原の大名となり、「摂津高槻藩」「下総佐倉藩」「丹波篠山藩」を経て、寛永17(1640)年、ここ亀山藩主となり幕末を迎えたという。
 

 「クニッテルフェルト通り」をさらに進み、案内標識に従い左折すると「三宅神社」。
 

 その奥には「曹洞宗昌壽院」。
 

 ぐるっと回ってクニッテルフェルト通りを横断し、街中へと入っていく。ここからは、古い街並みや多くの寺社が残る。
 

 児童公園を過ぎると道が「枡形」に曲がる。城下町に良く見られる防御用の造りで、案内板には「遠見遮断」と書かれている。
  

 その角を曲がれば立派な蔵が。
 

 次の角には「毘沙門尊天」。
  

 左に曲がれば「臨済宗聖隣寺」。山門左の石像は「達磨さん」か?
 

 向かいには「曹洞宗宗堅寺」。禅寺が並ぶ。
 

 「毘沙門尊天」の前を過ぎ、次の角を右に曲がる。「東堅町」の街並み。
 

 100mほどで「八坂神社」。ここで折り返す。
 

 「西堅町」の街並みを歩く。
 

 筋をはさんだ「西堅町会議所」の敷地内に「羽衣山」と書かれた「山車小屋」のような建物が。
 

 ここの秋祭りには、祇園祭りのように「山鉾」が巡行するようだ。
 

 道を進んでいくと「京町」という通りに入る。
 

 左に「京町天満宮」
 

 「京町」の街並み
 

 突き当たりを左に曲がり「真宗大谷派正誓寺」の前を過ぎると「亀山城惣堀跡」。亀山城は、「内堀・外濠・惣堀」の三重の堀で囲まれ、一番外側の「惣堀」の外側に足軽屋敷があったという。
 

 元の道に戻る。「難波山」と書かれた山車小屋の奥に「浄土宗宗福寺」が見える。
 

 次の角を左に曲がると古い「お米屋さん」。向かいの石灯籠は「愛宕山」のもの。「安政」の刻字が。
 

 奥には「浄土宗専念寺」「浄土真宗誓顕寺」が並ぶ。
 

 さらに奥には「塩屋町」の街並み。
 

 元の角まで戻り、右に曲がれば左方向に「呉服町通り」が続く。
 

 「浦島山」の山車小屋がある場所には、昔「火の見櫓」があったようだ。
 

 家の建て替えやマンションの建設が進んでいるようだが、周辺の景観に配慮されている。
 

 

 「呉服町」の街並み。
 

 120年以上の歴史を有する「丹山酒造」。
 

 五代目は、女性杜氏だとか。
 

 さらに通りを進んで行く。
 

 左に何やら大きな蔵が。「難波醤油醸造」
 

 ここも100年以上の歴史があり「ひしほの匠庵」と書かれた看板が掲げられていた(当日は休日)。
 

 古い民家を過ぎれば左に曲がる。
 

 一本北の通りに出ると親水公園がある。ここは「亀山城お堀わくわく公園」という。これは亀山城の外堀跡だ。
 

 「わくわくする」の「わくわく」かと思ったが、親水に沿って進むと「なまこ壁」風の小屋があり、その中には伏流水が湧き「野菜洗い場」いなっていた。「湧き水」の「わくわく」とかけていたんだな。こんなきれいな水が湧くので酒造りができるのだろう。
 

 「旅籠町」に入る。
 

 「旅籠町」の街並み
 

 途中から「柳町」になる。
 

 「高砂山」の山車小屋が見えれば右折する。
 

 旧山陰街道を横切ると正面に「日蓮宗法華寺」と「妙見堂」。
 

 その隣に「浄土宗寿仙院」「法華宗本門寺」と寺院が並ぶ。
 

 「本門寺」から見える道は、先ほど横切った旧山陰街道だ。
 

 「旧山陰街道」の街並み。
 

 次の角を左折し、次の四つ角を右折。紳士服の「はるやま」の裏を小さな川に沿って歩く。
 

 「浄土宗大圓寺」というお寺の裏に突き当たるが、そこにある川は亀山城の外堀跡だ。
 

 そして、そのすぐ右に「秋葉神社」。
 

 真っ直ぐ進んでいくと「曹洞宗円通寺」の前に出る。
 

 お寺の前を通り過ぎる。
 

 突き当たりには「関酒造」。江戸時代に副業として酒造りをしていた豪農が明治8年に創業したそうだ。
 

 関酒造に突き当たって左へ。さらに突き当たったところにも古い街並みが。
 

 その街並みを抜け、亀岡小学校、中学校、高等学校を右に見ながら進む。その向かいに見える生け垣に囲まれた施設は??
 

 宗教法人「大本」。以前、「綾部」を歩いた時にも「大本」の施設を訪れた。「大本」は、霊能者・出口なおにより明治25年に開かれた神道系の教団だ。綾部が「祭祀の中心」であり、大正に入って荒れ果てた亀山城址を教団が買い取り「宣教の中心」として「二つの聖地」を持つこととなった。つまり、亀山城址は「大本」の敷地内にあるのだ。(「3つの柏原を訪ねる1 丹波柏原~途中下車の旅。「柏原」「福知山」「綾部」を歩く~」参照)
 

 しかし、教団の受付に声をかければ、予約なしに自由に城址を見学することができる。敷地内に入り、「みろく会館」という建物の受付に行くと女性の職員が、パンフレットを見ながら簡単に説明をしてくれる。
 

 説明を受け「神苑」と呼ばれる聖地へと向かう。途中、左に見える「万祥池」と呼ばれる池は、亀山城の内堀の名残だ。
 

 説明通りに手水舎で身を清めた後、「万祥殿」と呼ばれる神殿の受付へ。すると拝所の前で神職がお祓いをしてくれる。これで見学OKだ。
しかし、立派なパンフレットを頂き、お祓いまでしてもらって「無料」とは。お賽銭を納め、参拝をする。ここは、出雲大社同様、「二礼四拍手一礼」の作法で行う。
 

 神殿左の元本丸入口から城址に入る。すぐ右に巨大な石垣が現れる。旧亀山城本丸の石垣だ。実は、「大本」は、歴史観の相違や体制変革思想などから戦前、治安維持法違反・不敬罪などで2度の弾圧を受ける。その際、教団施設は、ことごとく破壊された。この石垣は、戦後、信者らの手によって再建されたものである。
 

 聖地であることから「禁足地」には立ち入ることはできない。
 

 神苑を一巡して亀山城址を後にする。
 

 教団敷地から出て左に進むと、すぐに大きな池が見える。かつての外堀跡だ。
 

 「南郷公園」として遊歩道が整備されている。
 

 全国の城址がそうであるように周辺には官庁や公共施設が並ぶ。この辺りには昔、「御作事」と呼ばれる藩の営繕を担当する部署が置かれていたようだ。
 

 公民館前の信号を渡り「北町通り」という筋に入る。ちょっとした商店街になっている。
 

 200メートルほどで、最初に訪れた亀岡街道の終(起)点に出る。
 

 しばし亀岡街道を歩く。
 

 大通りに合流すると、左に「亀岡市役所」の庁舎が見えてくる。
 

 市役所を過ぎると「加塚交差点」。ここは、国道としての「山陰道(国道9号線)」と「亀岡街道(国道423・372号線)」の合流点だ(「摂丹街道を歩く2~亀岡街道~」参照)。
 

 加塚交差点を右折し、国道9号線に沿って進む。午後0時30分、道の駅「ガレリアかめおか」着。「亀岡」での歩紀「15376歩」(13.22km)。
 

 ここの道の駅は、お土産屋さんのほか亀岡市のコミュニティセンターとして図書館や生涯教育センターなどが設けられている。ちょうど昼時だったので、ここのレストランで昼食をとろうと思ったが、最終日とはいえやはり三連休。レストランは長蛇の列だった。とりあえず次の目的地「八木」方面に向け、国道9号線を走ることにした。
 

 途中、何軒かファミレスや牛丼店などがあったが「丸亀製麺」に入ることにした。私は、特にグルメや食通というわけではないが、これまで「海の幸」「山の幸」「肉・魚・野菜」などいろいろなものを食べてきた。しかし以前、香川・讃岐を訪れ「讃岐うどん」を食べたとき「こんなに美味いものはない。」と思った。うどんだから「出汁が命」ではなく「麺」そのものが美味いのだ。小麦粉を練って茹でただけのシンプルな食べ物だが「これほど美味い」ものはない。それ以来「讃岐うどん」ファンになった。
 

 温かいかけうどんにネギをたっぷり入れて「えび天・イカ天・半熟たまご天」をトッピング。合計710円。
 



出 発:「公立南丹病院」駐車場
到 着:「公立南丹病院」駐車場


 次の目的地「八木」。先ほど訪れた「亀岡」と、この後訪れる「園部」とのちょうど中間に位置する。室町時代に築かれた八木城の城下町として、また、山陰道の宿場町として発展した2kmほどの細長い街並みが桂川に沿って残る。ただ、八木城自体は完全な山城で、町の南西にそびえる城山(344m)の頂上に遺構が残るのみで、今回は訪れない。

 町の北部に建つ「公立南丹病院」。ここの駐車場(有料・90分400円)に愛車を停め、歩数計をリセットして午後1時20分、出発する。病院は、大きな近代的な病院だが、駐車場入口には古い門柱が残る。
 

 まず、病院前の国道9号線に出て、一旦、亀岡方向に逆戻りする。
 

 すぐに一つ目の信号「八木交差」に出るので右折すると、正面にJR「八木駅」が建つ。木造平屋建て瓦葺きの小さな駅舎だ。このままの姿で残れば、いつか文化財として町のシンボルになるんだろうな。
 

 良い雰囲気だ。
 

 元に戻り、「八木交差」を渡る。地方の商店街らしく寿司の仕出し屋が立つ。
 

 地図で見ると町の中央に「四つ角」があるが、その手前の細い筋に入り、真っ直ぐ進む。
 

 5分ほどで国道9号線と交わり、目の前の「鹿草交差」で鋭角に左折すれば、ちょうど街並みの南端に出る。ここから、本町5、4、3、2丁目と進んでいく。
 

 すぐに街道らしい街並みになる。
 

 妙見山への道標。
 

 立派な土蔵。
 

 右に良い雰囲気の路地が現れたので入って行こう。
 

 すぐに堤防が現れるので上ると赤い鳥居が。地図では「白玉神社」と記されていたが、お稲荷さんが祀られていた。
 

 参拝を終え、堤防下に下りると古い病院が。今でも診てくれるのだろうか。
 

 先ほどの路地を反対側から望む。
 

 さらに古い街並みを進む。
 

 防災センターを過ぎると右に立派な蔵のある建物が現れる。
 

 「八木酒造」。そういう季節なのか、亀岡の酒蔵もそうだったが「奈良漬け用酒粕あります」の張り紙が。
 

 すぐに町の中心にある「四つ角」に出る。角には商店が立ち、この町で一番「賑やか」な所なのだろう。
 

 右に曲がると「丹波名物鬼みそ漬」の看板が。矢印の方を見ると。
 

 ここで味噌を作っているのだろう。大きな屋根の建物が立つ。
 

 すぐ目の前には「大堰橋」。桂川が流れる。この雄大な流れにより、八木は「水運」の町としても栄えたようだ。
 

 「四つ角」に戻って右へ進む。ここにも古い街並みが残る。
 

 「BARBAL ツハリ?」。「あっ、右から読むのか。リハツ(理髪)」。
 

 狭い路地をのぞき込む。
 

 「本町2丁目」の街並み。
 

 間もなく街並みが途切れ、右の堤防上に小さな公園が見える。公園の奥に「お稲荷さん」が祀られていた。
 

 1km足らずの「町歩紀」を終え、ちょっと戻り右折する。「ふれあい歩道」という遊歩道を進み、次の路地を右に曲がる。
 

 左には「南丹市役所八木支所」。「八木町」は、平成の大合併で「園部町」「日吉町」「美山町」と合併し、「南丹市」となった。
 

 午後2時10分、「公立南丹病院」駐車場に戻る。駐車料金を支払おうと、駐車券を精算機に入れると「60分以下無料」だった。「八木」での歩紀「4333歩」(3.72km)。
 



出 発:「園部総合公園」駐車場
到 着:「園部総合公園」駐車場


 最後の訪問地「園部」。元和5(1619)年、但馬・出石より国替えによって移封された「小出吉親」により「園部藩」が誕生。小麦山(子向山)に築かれた園部城の城下町として栄えた。園田城跡から市街地の東にそびえる天神山をぐるっと時計回りに歩く。「園部総合公園」の駐車場(無料)にマイカーを駐車。午後2時30分、出発。
 

 駐車場に向かって左側に「園部城址」の石碑と案内板が立つ。
 

 その左に「櫓門」が残る。今は「京都府立園部高等学校」の正門となっている。
 

 駐車場に戻って園内に入る。正面には「天守閣?」。この建物は、天守閣風に建設された「南丹市国際交流会館」という施設だ。あまりに立派なので、これが園部城天守閣と勘違いする人もいるらしい。元々、園部城に天守閣はなく「園部陣屋」と呼ばれた。
 

 園部総合公園は、小麦山(標高約174m)を中心に城址公園として整備されている。お稲荷さんの下から山に入る。
 

 山といっても園部自体の標高が高いので、あっという間に登ってしまう。
 

 舗装道と合流すれば石灯籠の間の階段を上る。
 

 今は、多くの忠魂碑などが並んでいるが、ここが小麦山の頂上だ。先ほど述べたように園部城には天守閣が作られなかったが、この場所に天守閣と見紛うような三層の「小麦山櫓」がそびえていたそうだ。幕末期、全国の城が廃城となる中、京都に近かった園部陣屋は「帝都御守衛」の名目で明治に入ってから堀などが整備され、わが国最後の城して「園部城」として生まれ変わった。
 

 ヘアピンカーブの舗装道を下り、園部小学校を過ぎたところから左に折れ、園部川沿いに歩く。半田川という小川との合流点で小さな橋を渡り、陸上競技場の先を歩く。
 

 目の前に見える「横田橋」を渡るとすぐ右側に道があるので入る。そしてすぐ左に「千手観世音堂」が立つ。
 

 ここから「河原町」に入る。かつての城下町であり、古い家も残るが街並みを形成するには至らない。
 

 3分ほどで「園部大橋」という橋に出るので園部川を渡る。橋のたもとにある「石川楼」という料亭は、歴代藩主たちが船遊びを楽しんだという。
 

 料亭の前に「南丹警察署」と「園部郵便局」が立ち、その片隅に「お稲荷さん」が。
 

 橋を渡ったところの信号を中心に放射線状に道が伸びるが「上本町商店街」へと入る。
 

 「上本町」もかつての城下町である。ところどころ古い建物が残る。
 

 

 ただ、建て替えも進み、途中からは新しい道が整備されている。
 

 300mほどで信号に出るので左折する。そこには「若松町商店街」のアーチが立つが、なんか寂れた雰囲気がする。
 

 アーチをくぐってすぐに左折。角には古い町家が。
 

 そのまま進むとすぐ左に「散髪屋さん」。もう廃業しているのかなと思ったが、入口を見ると「勝手ながら15、16日は休ませて頂きます」との真新しい張り紙が。現役だ。
 

 お風呂屋さん(銭湯)や散髪屋さん(床屋)の廃業、建て替えにより町の風景が変わっていく中、こんな店を見るとうれしくなる。
 

 通りを真っ直ぐ、つまり元の方向(西)へ歩いて行く。浄土真宗寶福寺に突き当たると、そこにも古い町家が。
 

 右に折れ、園部川に沿って50mほど歩き右へ。再び東の方向へ進む。今度は古い工場。
 

 「天鵞絨」と書いて「ビロード」と読むんだ。初めて知った。「歩紀」はためになるなぁ。
 

 通りに出て右へ。先ほどの「若松町商店街」のアーチをくぐって左へ。真宗大谷派浄教寺に突き当たって右折する。
 

 突き当たりにも町家。「旅館合羽家」の看板。
 

 「本町」の街並み。
 

 

 途中から「新町」に入る。
 

 「新町」界隈が最も古い街並みが残っているように思う。
 

 小島屋という旅館の壁には、古い「京バス」の看板。ただ、そこは今も「ぐるりんバス」というコミュニティバスの停留所になっている。
 

 天神川橋という橋に出たところで街並みは終わる。左の駐車場の奥には「カトリック丹波教会園部聖堂」。
 

 正面に踏切が見えれば右へ。しばらく山陰本線に沿って歩く。ここは、天神山の東麓だ。
 

 右に「小山東町区公民館」が見えれば右折し、なだらかな坂道を上る。
 

 「京都医療科学大学」と「京都建築大学校」のキャンパスの間を進み、天神山の南麓を歩く。右にキリスト教系の幼稚園が現れれば右へ曲がり、天神山西麓を歩く。直径600mほどの茶碗を伏せたような小さな山塊だ。遠くに「南丹市国際交流会館」を望む。「園部城天守閣」と見間違えても仕方ないほど立派だ。
 

 すぐに大きな石灯籠と鳥居の前に出る。「生身天満宮」だ。この山が「天神山」と呼ばれる謂われがわかった。
 

 鳥居をくぐる。結構、立派な神社だ。元は、小麦山にあったそうだが園部城築城の際、この場所に遷座したそうだ。ここは、日本最古の天満宮と言われている。全国の天満宮は、菅原道真が延喜3(903)年、太宰府で亡くなったあと「天神さん」として祀ったが、ここ園部は、菅原氏の知行所で菅原道真の邸宅があったと伝わり、当社が道真公が太宰府に流され、まだ存命中から道真公を祀ったため、そのように言われているのだ。そのため「生身(いきみ)」天満宮と呼ばれる。
 

 参拝を終え天満宮を出る。途中、「園部公園」は左との案内標識が立つが、そのまま真っ直ぐ進む。
  
  
 200mほどで古い「消防団詰所」。
 

 その隣には、曹洞宗南陽禅寺。
 

 山門の右には「原保太郎切腹の石」。説明文によると、園部藩士であった原は、天誅組との交際の嫌疑を受け、17歳の時、この石の上で切腹を考えたが、結局、脱藩して官軍と合流。その後、明治に入り、山口県・福島県の知事、北海道庁長官を歴任。貴族院議員を経て、昭和11年、90歳で亡くなったという。「生きていてよかったね。」
  

 寺院前の道を西に進み、最初に訪れた「園部総合公園」へ。池の水面には「南丹市国際交流会館」が映る。
 

 午後4時10分。愛車「ランちゃん」が待つ駐車場に着。「園部」での歩紀「9678歩」(8.32km)。
 

 この後、カーナビの導くまま、丹波・能勢の山間部を抜け帰路につく。トータル「29387歩」(25.26km)。
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