訪問日:令和元年11月3日(日)
出 発:奈良交通「砂茶屋バス停」
到 着:近鉄電車「近鉄奈良駅」
大坂から奈良を結んだ「暗越奈良街道」。最終回は、前回のゴール「砂茶屋交差」から世界遺産「奈良公園」の南端に立つ「奈良縣里程元標」をめざす。今日のコースは「酷道」ではなく、距離的にも短いので給水・トイレには困らない。
近鉄奈良線「富雄駅」。大阪の中心「難波」から約30分(450円)。駅南側のバス乗り場から午前9時35分発「若草台」行きの奈良交通バスに乗車。
約10分(280円)で前回(と言っても約1年前だが)のゴール「砂茶屋バス停」へ。下りのバス停は「砂茶屋交差」の90mほど手前にある。午前9時50分スタート。
進行方向に進み「砂茶屋交差」へ。角には「スーパーオークワ」があり、午前9時から営業しているので給水・トイレが可能だ。左(東)に曲がる。
前回訪れた60mほど手前の「間男地蔵尊」前の案内表示によると「奈良公園」まで約8kmだ。昼前にはゴールできるな。
途中からセンターラインのない道になる。
ずっと、この案内表示があるので迷わないだろう。
3階建ての立派な蔵の横を通り過ぎる。
右に「赤膚焼窯元大塩昭山」。「赤膚焼」とは、19世紀初期に開窯したと伝わる焼き物だ。
その隣には、「赤膚焼窯元大塩玉泉」。「赤膚焼」の窯元は、奈良市・大和郡山市に6つあるそうだが、この2つの窯元は親族らしい。
街道らしい道が続く。
池を左に見ながら進む。
しばらくすると「第二阪奈自動車道」をくぐる。かつて大阪・奈良間は、「国道308号線」が「国道170号線(大阪外環状線)」に突き当たった後、「阪奈道路」で「生駒山地」を山越えするのが一般的なルートであったが、平成9年4月、「阪奈トンネル」開通と同時に「阪神高速東大阪線」がこの「第二阪奈自動車道」に乗り入れ、大阪市内から奈良までを高速道路で結んだ。
虫籠窓の旧家。
東へ進んでいくと、再度、左に池が現れる。ここで「国道」は左に大きくカーブする。正面には「奈良県総合医療センター」。
この後、「国道」より広い「県道」が北から合流してくるが狭い方の「国道」へ進む。「暗越奈良街道」は、とにかく東へ東へと歩くのだ。
秋らしい風景。
しばらく歩くと左にお地蔵様が。前の石標には「歯痛地蔵菩薩」と刻まれていた。
お地蔵さまから5分ほどで左にこんもりとした「森」が見えてくる。「垂仁天皇陵飛地い号」と書かれていた。いわゆる陪塚だな。
そして「奈良宝来郵便局」を過ぎると、このような石標が。
石標に従って右へ曲がるとすぐに大きな古墳に突き当たる。第11代「垂仁(すいにん)天皇陵」だ。「景行天皇」の父にあたる。ということは「日本武尊」のおじいちゃんか。
墳丘長227mの大きな前方後円墳だが、ここは「後円部」。拝所は、反対側の「前方部」にある。日を改めて訪れることにしよう。「国道」に戻り東へ進む。
100mほどで右に近鉄橿原線「尼ヶ辻駅」。「唐招提寺」「薬師寺」への入口であるが、真っ直ぐ東へ進む。
すぐに左から大きな道が合流してくる。この道は、先ほど説明した「阪奈道路」から分岐してきた道である。「阪奈道路」は、昭和33年12月に開通。当初は有料道路であったが、昭和56年12月以降は無料となり、今でも大阪・奈良間を結ぶ道路として利用されている。その三角州状の一角にお堂が建つ。案内表示を見ると、東大寺大仏建立に縁がある阿弥陀様とお地蔵様を祀っているようだ。
「都橋」で「秋篠川」を渡る。「奈良の都」に入るということだな。
少し歩くと右に地蔵堂。「石造地蔵菩薩立像」といい、文永2(1265)年に造られたそうだ。
「三条大路5」交差を越える。奈良市街というより「平城京」に入ったようだ。
右に「スーパーオークワ」を過ぎ、角に「セブンイレブン」がある「三条大路4丁目」交差。この辺りに「平城京」のメインストリート「朱雀大路」が南北に走っていた。遠くに復元された「朱雀門」が見える。まだまだ東へと進む。
立派な旧家の横に「出屋敷地蔵尊」。安産にご利益があるそうだ。
「三条大路⒉」交差。ここで「国道24号線」と交わり「国道308号線」は終点となる。しかし、まだまだ東へと進む。ここからは「県道1号線」を歩く。
「佐保川」を渡る。
「奈良大宮郵便局」を過ぎると「三条栄町」交差で「県道1号線」は右へと流れていくが、そのまま真っ直ぐ進もう。とにかく東へ進むのだ。
ディリーカナートイズミヤを過ぎると右に「奈良女子高」。明治26(1893)年、天理市に「正気書院」として開校し、今に続く古い私立学校だ。
300mほどで右に「ホテル日航奈良」。奈良市は世界的な観光地であるにもかかわらず、ほかの観光地に比べてホテル・旅館が極端に少ないと言われる。その中では最大級のホテルだろう。
「ホテル日航奈良」を過ぎれば、すぐにJRの高架をくぐる。すぐ右に「JR奈良駅」。JR「関西本線」の駅で「大和路線」ともいい、大阪・天王寺まで約40分。
寺院風の2代目駅舎は、昭和9年の建築で「奈良市総合観光案内所」として利用されている。何やらバザーをしているようだ。
JR奈良駅を過ぎると観光地らしい雰囲気の通りになる。「三条通り」だ。
「三条通り」を進んでいく。
そして間もなくゴール。その手前に「南都(なんと)銀行本店」。奈良県を中心に展開する大手の地方銀行だ。
この社屋は大正15年建築の重厚な建物。国の登録有形文化財に登録されている。私の勤め先では、この銀行を給料の振込口座に指定すると給料明細書には、何と「ナント***,***円」と印字される。
「南都銀行」隣の「東向商店街」アーケードを過ぎれば左に「奈良縣里程元標」。3日間に分けて歩いた「暗越奈良街道」のゴールだ。午前11時50分着。ここまでの歩紀「10454歩」(7.1km)。大坂「高麗橋」の「里程元標」から、途中、最寄り交通機関までの往復を含めてだが「57718歩」(39.23km)の道のりだった。よく歩いたな。
元の「奈良縣里程元標」は、明治21(1888)年7月、ここから西へ約20m離れた先ほど通った商店街との辻に設置されたが、木製のため朽ちてしまったそうだ。そこで「平城遷都1300年」を記念して残されていた石の台座をここへ移し、当時の資料を元に平成22(2010)年5月、観光のシンボルとしてここに復元された。その際、大正9年に設置された「奈良市道路元標」(右の小さな石標)と後ろの「御高札場」もあわせて移設されたそうだ。
「暗越奈良街道」は、無理すれば2日で踏破できたと思うが、「古の都」「世界遺産」の「奈良」を目の前にしてとんぼ返りはもったいないと思い、この後、半日かけて「奈良の都」を散策するために時間配分をした。今日は「3連休」の真ん中。これから訪れる「ならまち」での昼食は、どこも満員で厳しいだろう。少し早いが「奈良縣里程元標」の真ん前にあった「お好み焼き・鉄板焼かめや」で食事にしよう。
ミックスモダン(880円)を注文。
さて、これから「ならまち」を散策しよう。「奈良縣里程元標」向かいの「餅飯殿(もちいどの)商店街」に入る。
近鉄「奈良駅」前の「東向商店街」から続く、奈良市でも最も賑やかな商店街である。
「餅飯殿商店街」のアーケードを抜け、次の信号を越えた辺りから「ならまち」。旧奈良市街の一部であり、戦災を免れたことから江戸時代の風情が残っている。
雰囲気の良い旅館。
古い建物が残る。
こんな風景、大阪市の谷町界隈にも見られたな。
インターネットでプリンアウトした案内地図を頼りにぐるっと回る。「御霊神社」。
その北側には、この後、訪れる「元興寺」の「塔址」。幕末まで、ここに高さ70mを越える五重塔がそびえていたそうだ。
今は住宅街の真ん中にあり、寂れた雰囲気が漂う。
「吉田蚊帳」。古い木造家屋とレトロな洋風建築が繋がった建物で、今は「のれん」などを扱っている。観光客向けの商品も扱っているようだ。この角を右に曲がる。
少し歩いて左に曲がれば「元興寺」。蘇我入鹿が創建したと伝わり、奈良・平安時代には「官寺」として勢力を誇り、「ならまち」も「元興寺」を中心に栄えた(拝観料500円)。
国宝の「極楽堂」。しかし「藤原氏」の時代に入ると、奈良の中心は「興福寺」に移り、次第に衰退していったという。
石仏の間を通り抜け、振り返れば「極楽堂」と繋がる「禅室」の様子がよくわかる。これも国宝だ。
そして、この瓦は飛鳥時代に焼かれた日本最古の瓦屋根だそうだ。
「元興寺」から出て右に曲がり、先ほどの道を左へ。信号手前には「清酒春鹿醸造元」。前には、観光用の人力車が。
ここでは、試飲用のグラス(500円)を買えば、5種類のお酒が試飲できる。
呑兵衛の私。早速、試飲してみた。間に、和らぎ水の「仕込水」、最後に「奈良漬」が付く。
どのお酒も美味しかったが、一番最初に飲んだ「春鹿超辛口純米酒(300ml)」(616円)を買って蔵を後にする。
目の前の信号を左折すれば、すぐに「名勝旧大乗院庭園」(入園料200円)。
寛治元(1087)年に創建された「興福寺」門跡である「大乗院」の庭園である。「門跡」とは、寺院の支院の中でも大きな勢力を誇ったものをいうそうだ。
庭園の北側には「奈良ホテル」。明治の「廃仏毀釈」により売却された「大乗院」跡地の一部に明治42年に開業された。奈良を訪れる貴賓の迎賓館にふさわしい重厚な構えである。
「大乗院庭園」から「奈良ホテル」を眺める。
「奈良ホテル」の駐車場を抜ければ、再度「ならまち」へ続く。「奈良町情報館」が立つ四辻を北に進む。
すぐに「猿沢池」。周囲360mほどの小さな池だが「興福寺五重塔」を写す風景は「奈良八景」にも選ばれている。
さあこれから「五十二段」と呼ばれる石段で「興福寺」に向かうぞ。本当に52段あった。
「興福寺」とは、天智8(669)年、藤原鎌足の病気平癒を祈願して造立された「山階寺」を前身とし、「平城遷都」に際して「平城京」に移され「興福寺」の号を授かったという。
すぐ左には「南大門跡」。「興福寺」は、これまで幾度かの火災により多くの建造物が焼失・再建を繰り返してきた。しかし、「南大門」は、享保2(1717)年1月の大火による焼失以来、再建されることはなかった。現在、東西30mに及ぶ基壇が復元されており、その大きさから平城京の「朱雀門」に匹敵する大きさだったと想像される。
ここから「時計回り」に参拝する。西側には「南円堂」。寛政元(1789)年に再建された国の重要文化財で、国宝「不空羂索観音菩薩座像」「法相六祖座像」「四天王像」が安置されている。
前の石段を下り、西側に回れば「三重塔」。鎌倉時代に再建された「興福寺」最古の建造物で国宝に指定されている。ただ、境内の端にあるためか、周辺はひっそりとしている。
北に進めば、突き当りに「北円堂」。「南円堂」と同じ八角形の建造物で「南円堂」よりやや小ぶりであるが、承元4(1210)年再建の国宝で、安置されている「弥勒如来座像」「無著像」「世親像」は運慶作といわれ、延暦10(791)年造立の墨書がある「四天王像」とともに国宝に指定されている「国宝の固まり」だ。
すぐ前に見える「中金堂」をぐるっと回って東側のチケット売り場へ。中に入れば、昨年(平成30年)再建され、10月7日から11日まで落慶法要が執り行われた「中金堂」が目の前に。享保2(1717)年1月の焼失以来、300年ぶりに天平の偉容がよみがえったのだ(拝観料500円)。
東西37m、南北23m、高さ21m。「興福寺」最大の「中金堂」は、奈良時代の基壇・礎石をそのまま利用し、創建当時の姿を忠実に再現したという。堂内には「木造釈迦如来坐像」。
「中金堂」のすぐ北には「仮講堂」。
そして境内北東隅に「国宝館」。明治7年に取り壊された「食堂」跡に、宝物収蔵庫として昭和34年に建てられ「乾漆八部衆像」「乾漆十大弟子像」「千手観音菩薩像」「金剛力士像」「板彫十二神将像」「天燈鬼像」「龍燈鬼像」「銅造仏頭」などの国宝級仏像が多数安置されている(拝観料700円~東金堂共通券900円)。
「乾漆八部衆像」のひとつが、あの有名な「阿修羅像」である。ただ、館内は写真撮影禁止である。
その南側には「東金堂」と「五重塔」が並ぶ。
「東金堂」は、応永22(1415)年再建の国宝。「維摩居士像」「文殊菩薩像」「木造四天王像」「木造十二神将像」などの国宝のほか多くの重要文化財が安置されている。ここも堂内は写真撮影禁止だ(拝観料300円~国宝館共通券900円)。
「東金堂」の南隣に「五重塔」。応永33(1426)年再建の国宝で、高さ50.1mの大塔は、夜間ライトアップされるそうだ。
「五重塔」南から「興福寺」境内を後にする。「三条通り」に出て左(東)に進めば、250mほどで「春日大社一之鳥居」。
これより春日大社に向かう。この辺りは「飛火野」という。神様のお使いといわれる鹿たちが、鹿せんべいをねだったり、のんびりと休んでいる。
「萬葉植物園」への分かれ道を右に進めば「二之鳥居」。
「鳥居」をくぐれば、社務所前にある「伏鹿手水所」で身を清め、「回廊」と呼ばれる「御本殿」のある方向へと向かう。ゆるい階段を上ると「南門」。春日大社の正面玄関にあたり、国の重要文化財に指定されている。
高さ12m。春日大社最大の門だ。ここから内側が、東西南北の「回廊」に囲まれた春日大社の主要部分で、すべてが重要文化財に指定されている(特別参拝料500円)。
目の前に「御本殿」が見えるが、順路に従い一度「回廊」の外に。春日大社には、3000を超える燈籠があり「万燈籠」と呼ばれる。
ぐるっと回り「回廊」内に戻れば「中門」。朱色が美しい。「中門」を「御本殿」と間違える方が多いそうだが、「御本殿」は「中門」の内側にある。春日大社は、藤原家の「祖神」として、神護景雲2(768)年、常陸国鹿島(茨城県)から「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」、下総国香取(千葉県)から「経津主命(ふつぬしのみこと)」、河内国枚岡(大阪府)から「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」「比売神(ひめがみ)」の四神を招いて創建されたと伝わる。それぞれの神を祭る4つの「御本殿」は国宝である。写真撮影は禁止されている。
参拝を終え、境内を出る前にもう一度振り返って「中門」を望む。
さあ、日も陰ってきた。東大寺に向かう。ほとんどの施設は、午後5時に門を閉めるので急ごう。まだ、多くの観光客が歩いている。
正面に「南大門」。「東大寺」への入口だ。創建当時の門は、平安時代に倒壊。現在の門は、鎌倉時代の正治元年(1199)年に再建されたもので国宝に指定されている。高さ25.5m。18本の大円柱で支えられているという。でかいな。
左右には「木造金剛力士立像」。これも国宝だ。
「南大門」をくぐれば正面に「大仏殿」の屋根が見えてくる。
「大仏殿」への入口である「中門」。享保元(1716)年ごろの再建で国の重要文化財に指定されている。左に回れば入り口になっている(拝観料600円)。
そして中へ。目の前には「大仏殿」。正式には「金堂」と呼ぶ。とにかく「でかい!」。間口57.5m。高さ49.1m。さすが「世界最大級の木造建造物」だ。
2度の火災に遭い、現在の「大仏殿」は、江戸時代の宝永6(1709)年に落慶したそうだ。創建当時の間口は86mあったという。
そして「大仏殿」正面に何気なく立つ「金銅八角燈籠」。たびたび修理されているそうだが、基本的には奈良時代創建時のもので国宝である。すごいな。
さあ堂内へ。ご本尊である「大仏様」。正式には「盧舎那仏」と言うのだそうだが、一般的には「奈良の大仏さん」として親しまれている。高さは14.7m。もちろん国宝である。
そして、何と。「大仏様」は、三脚を使わなければ写真撮影OKなのだ。この後、「二月堂」や「正倉院」も回りたかったのだが時間がない。そういえば、今は「正倉院展」が開催されている。また、いつか来よう。
「登大路」と呼ばれる大通りを西へ進む。左には「奈良国立博物館新館」。「日本書紀」など多くの国宝等を所蔵する(拝観料520円)。
その隣には「奈良国立博物館本館」。明治28年「帝国奈良博物館」として開設。国の重要文化財に指定され、現在は「なら仏像館」として使用されている。
10分ほどで本日のゴール近鉄奈良線「近鉄奈良駅」。午後4時45分着。ここから「大阪難波駅」まで約40分(560円)。本日の歩紀トータルは「29208歩」(19.86km)。撮影禁止のため写真では紹介できなかったが、教科書などで見た「国宝」をこんなにたくさん目の前で見ると人生観が変わるな。何か、涙が出そうになるよ。大阪から1時間もかからないところにこれだけたくさんの「国宝」が。京都も近いし、大阪って本当に良いところですね。
出 発:奈良交通「砂茶屋バス停」
到 着:近鉄電車「近鉄奈良駅」
大坂から奈良を結んだ「暗越奈良街道」。最終回は、前回のゴール「砂茶屋交差」から世界遺産「奈良公園」の南端に立つ「奈良縣里程元標」をめざす。今日のコースは「酷道」ではなく、距離的にも短いので給水・トイレには困らない。
近鉄奈良線「富雄駅」。大阪の中心「難波」から約30分(450円)。駅南側のバス乗り場から午前9時35分発「若草台」行きの奈良交通バスに乗車。
約10分(280円)で前回(と言っても約1年前だが)のゴール「砂茶屋バス停」へ。下りのバス停は「砂茶屋交差」の90mほど手前にある。午前9時50分スタート。
進行方向に進み「砂茶屋交差」へ。角には「スーパーオークワ」があり、午前9時から営業しているので給水・トイレが可能だ。左(東)に曲がる。
前回訪れた60mほど手前の「間男地蔵尊」前の案内表示によると「奈良公園」まで約8kmだ。昼前にはゴールできるな。
途中からセンターラインのない道になる。
ずっと、この案内表示があるので迷わないだろう。
3階建ての立派な蔵の横を通り過ぎる。
右に「赤膚焼窯元大塩昭山」。「赤膚焼」とは、19世紀初期に開窯したと伝わる焼き物だ。
その隣には、「赤膚焼窯元大塩玉泉」。「赤膚焼」の窯元は、奈良市・大和郡山市に6つあるそうだが、この2つの窯元は親族らしい。
街道らしい道が続く。
池を左に見ながら進む。
しばらくすると「第二阪奈自動車道」をくぐる。かつて大阪・奈良間は、「国道308号線」が「国道170号線(大阪外環状線)」に突き当たった後、「阪奈道路」で「生駒山地」を山越えするのが一般的なルートであったが、平成9年4月、「阪奈トンネル」開通と同時に「阪神高速東大阪線」がこの「第二阪奈自動車道」に乗り入れ、大阪市内から奈良までを高速道路で結んだ。
虫籠窓の旧家。
東へ進んでいくと、再度、左に池が現れる。ここで「国道」は左に大きくカーブする。正面には「奈良県総合医療センター」。
この後、「国道」より広い「県道」が北から合流してくるが狭い方の「国道」へ進む。「暗越奈良街道」は、とにかく東へ東へと歩くのだ。
秋らしい風景。
しばらく歩くと左にお地蔵様が。前の石標には「歯痛地蔵菩薩」と刻まれていた。
お地蔵さまから5分ほどで左にこんもりとした「森」が見えてくる。「垂仁天皇陵飛地い号」と書かれていた。いわゆる陪塚だな。
そして「奈良宝来郵便局」を過ぎると、このような石標が。
石標に従って右へ曲がるとすぐに大きな古墳に突き当たる。第11代「垂仁(すいにん)天皇陵」だ。「景行天皇」の父にあたる。ということは「日本武尊」のおじいちゃんか。
墳丘長227mの大きな前方後円墳だが、ここは「後円部」。拝所は、反対側の「前方部」にある。日を改めて訪れることにしよう。「国道」に戻り東へ進む。
100mほどで右に近鉄橿原線「尼ヶ辻駅」。「唐招提寺」「薬師寺」への入口であるが、真っ直ぐ東へ進む。
すぐに左から大きな道が合流してくる。この道は、先ほど説明した「阪奈道路」から分岐してきた道である。「阪奈道路」は、昭和33年12月に開通。当初は有料道路であったが、昭和56年12月以降は無料となり、今でも大阪・奈良間を結ぶ道路として利用されている。その三角州状の一角にお堂が建つ。案内表示を見ると、東大寺大仏建立に縁がある阿弥陀様とお地蔵様を祀っているようだ。
「都橋」で「秋篠川」を渡る。「奈良の都」に入るということだな。
少し歩くと右に地蔵堂。「石造地蔵菩薩立像」といい、文永2(1265)年に造られたそうだ。
「三条大路5」交差を越える。奈良市街というより「平城京」に入ったようだ。
右に「スーパーオークワ」を過ぎ、角に「セブンイレブン」がある「三条大路4丁目」交差。この辺りに「平城京」のメインストリート「朱雀大路」が南北に走っていた。遠くに復元された「朱雀門」が見える。まだまだ東へと進む。
立派な旧家の横に「出屋敷地蔵尊」。安産にご利益があるそうだ。
「三条大路⒉」交差。ここで「国道24号線」と交わり「国道308号線」は終点となる。しかし、まだまだ東へと進む。ここからは「県道1号線」を歩く。
「佐保川」を渡る。
「奈良大宮郵便局」を過ぎると「三条栄町」交差で「県道1号線」は右へと流れていくが、そのまま真っ直ぐ進もう。とにかく東へ進むのだ。
ディリーカナートイズミヤを過ぎると右に「奈良女子高」。明治26(1893)年、天理市に「正気書院」として開校し、今に続く古い私立学校だ。
300mほどで右に「ホテル日航奈良」。奈良市は世界的な観光地であるにもかかわらず、ほかの観光地に比べてホテル・旅館が極端に少ないと言われる。その中では最大級のホテルだろう。
「ホテル日航奈良」を過ぎれば、すぐにJRの高架をくぐる。すぐ右に「JR奈良駅」。JR「関西本線」の駅で「大和路線」ともいい、大阪・天王寺まで約40分。
寺院風の2代目駅舎は、昭和9年の建築で「奈良市総合観光案内所」として利用されている。何やらバザーをしているようだ。
JR奈良駅を過ぎると観光地らしい雰囲気の通りになる。「三条通り」だ。
「三条通り」を進んでいく。
そして間もなくゴール。その手前に「南都(なんと)銀行本店」。奈良県を中心に展開する大手の地方銀行だ。
この社屋は大正15年建築の重厚な建物。国の登録有形文化財に登録されている。私の勤め先では、この銀行を給料の振込口座に指定すると給料明細書には、何と「ナント***,***円」と印字される。
「南都銀行」隣の「東向商店街」アーケードを過ぎれば左に「奈良縣里程元標」。3日間に分けて歩いた「暗越奈良街道」のゴールだ。午前11時50分着。ここまでの歩紀「10454歩」(7.1km)。大坂「高麗橋」の「里程元標」から、途中、最寄り交通機関までの往復を含めてだが「57718歩」(39.23km)の道のりだった。よく歩いたな。
元の「奈良縣里程元標」は、明治21(1888)年7月、ここから西へ約20m離れた先ほど通った商店街との辻に設置されたが、木製のため朽ちてしまったそうだ。そこで「平城遷都1300年」を記念して残されていた石の台座をここへ移し、当時の資料を元に平成22(2010)年5月、観光のシンボルとしてここに復元された。その際、大正9年に設置された「奈良市道路元標」(右の小さな石標)と後ろの「御高札場」もあわせて移設されたそうだ。
「暗越奈良街道」は、無理すれば2日で踏破できたと思うが、「古の都」「世界遺産」の「奈良」を目の前にしてとんぼ返りはもったいないと思い、この後、半日かけて「奈良の都」を散策するために時間配分をした。今日は「3連休」の真ん中。これから訪れる「ならまち」での昼食は、どこも満員で厳しいだろう。少し早いが「奈良縣里程元標」の真ん前にあった「お好み焼き・鉄板焼かめや」で食事にしよう。
ミックスモダン(880円)を注文。
さて、これから「ならまち」を散策しよう。「奈良縣里程元標」向かいの「餅飯殿(もちいどの)商店街」に入る。
近鉄「奈良駅」前の「東向商店街」から続く、奈良市でも最も賑やかな商店街である。
「餅飯殿商店街」のアーケードを抜け、次の信号を越えた辺りから「ならまち」。旧奈良市街の一部であり、戦災を免れたことから江戸時代の風情が残っている。
雰囲気の良い旅館。
古い建物が残る。
こんな風景、大阪市の谷町界隈にも見られたな。
インターネットでプリンアウトした案内地図を頼りにぐるっと回る。「御霊神社」。
その北側には、この後、訪れる「元興寺」の「塔址」。幕末まで、ここに高さ70mを越える五重塔がそびえていたそうだ。
今は住宅街の真ん中にあり、寂れた雰囲気が漂う。
「吉田蚊帳」。古い木造家屋とレトロな洋風建築が繋がった建物で、今は「のれん」などを扱っている。観光客向けの商品も扱っているようだ。この角を右に曲がる。
少し歩いて左に曲がれば「元興寺」。蘇我入鹿が創建したと伝わり、奈良・平安時代には「官寺」として勢力を誇り、「ならまち」も「元興寺」を中心に栄えた(拝観料500円)。
国宝の「極楽堂」。しかし「藤原氏」の時代に入ると、奈良の中心は「興福寺」に移り、次第に衰退していったという。
石仏の間を通り抜け、振り返れば「極楽堂」と繋がる「禅室」の様子がよくわかる。これも国宝だ。
そして、この瓦は飛鳥時代に焼かれた日本最古の瓦屋根だそうだ。
「元興寺」から出て右に曲がり、先ほどの道を左へ。信号手前には「清酒春鹿醸造元」。前には、観光用の人力車が。
ここでは、試飲用のグラス(500円)を買えば、5種類のお酒が試飲できる。
呑兵衛の私。早速、試飲してみた。間に、和らぎ水の「仕込水」、最後に「奈良漬」が付く。
どのお酒も美味しかったが、一番最初に飲んだ「春鹿超辛口純米酒(300ml)」(616円)を買って蔵を後にする。
目の前の信号を左折すれば、すぐに「名勝旧大乗院庭園」(入園料200円)。
寛治元(1087)年に創建された「興福寺」門跡である「大乗院」の庭園である。「門跡」とは、寺院の支院の中でも大きな勢力を誇ったものをいうそうだ。
庭園の北側には「奈良ホテル」。明治の「廃仏毀釈」により売却された「大乗院」跡地の一部に明治42年に開業された。奈良を訪れる貴賓の迎賓館にふさわしい重厚な構えである。
「大乗院庭園」から「奈良ホテル」を眺める。
「奈良ホテル」の駐車場を抜ければ、再度「ならまち」へ続く。「奈良町情報館」が立つ四辻を北に進む。
すぐに「猿沢池」。周囲360mほどの小さな池だが「興福寺五重塔」を写す風景は「奈良八景」にも選ばれている。
さあこれから「五十二段」と呼ばれる石段で「興福寺」に向かうぞ。本当に52段あった。
「興福寺」とは、天智8(669)年、藤原鎌足の病気平癒を祈願して造立された「山階寺」を前身とし、「平城遷都」に際して「平城京」に移され「興福寺」の号を授かったという。
すぐ左には「南大門跡」。「興福寺」は、これまで幾度かの火災により多くの建造物が焼失・再建を繰り返してきた。しかし、「南大門」は、享保2(1717)年1月の大火による焼失以来、再建されることはなかった。現在、東西30mに及ぶ基壇が復元されており、その大きさから平城京の「朱雀門」に匹敵する大きさだったと想像される。
ここから「時計回り」に参拝する。西側には「南円堂」。寛政元(1789)年に再建された国の重要文化財で、国宝「不空羂索観音菩薩座像」「法相六祖座像」「四天王像」が安置されている。
前の石段を下り、西側に回れば「三重塔」。鎌倉時代に再建された「興福寺」最古の建造物で国宝に指定されている。ただ、境内の端にあるためか、周辺はひっそりとしている。
北に進めば、突き当りに「北円堂」。「南円堂」と同じ八角形の建造物で「南円堂」よりやや小ぶりであるが、承元4(1210)年再建の国宝で、安置されている「弥勒如来座像」「無著像」「世親像」は運慶作といわれ、延暦10(791)年造立の墨書がある「四天王像」とともに国宝に指定されている「国宝の固まり」だ。
すぐ前に見える「中金堂」をぐるっと回って東側のチケット売り場へ。中に入れば、昨年(平成30年)再建され、10月7日から11日まで落慶法要が執り行われた「中金堂」が目の前に。享保2(1717)年1月の焼失以来、300年ぶりに天平の偉容がよみがえったのだ(拝観料500円)。
東西37m、南北23m、高さ21m。「興福寺」最大の「中金堂」は、奈良時代の基壇・礎石をそのまま利用し、創建当時の姿を忠実に再現したという。堂内には「木造釈迦如来坐像」。
「中金堂」のすぐ北には「仮講堂」。
そして境内北東隅に「国宝館」。明治7年に取り壊された「食堂」跡に、宝物収蔵庫として昭和34年に建てられ「乾漆八部衆像」「乾漆十大弟子像」「千手観音菩薩像」「金剛力士像」「板彫十二神将像」「天燈鬼像」「龍燈鬼像」「銅造仏頭」などの国宝級仏像が多数安置されている(拝観料700円~東金堂共通券900円)。
「乾漆八部衆像」のひとつが、あの有名な「阿修羅像」である。ただ、館内は写真撮影禁止である。
その南側には「東金堂」と「五重塔」が並ぶ。
「東金堂」は、応永22(1415)年再建の国宝。「維摩居士像」「文殊菩薩像」「木造四天王像」「木造十二神将像」などの国宝のほか多くの重要文化財が安置されている。ここも堂内は写真撮影禁止だ(拝観料300円~国宝館共通券900円)。
「東金堂」の南隣に「五重塔」。応永33(1426)年再建の国宝で、高さ50.1mの大塔は、夜間ライトアップされるそうだ。
「五重塔」南から「興福寺」境内を後にする。「三条通り」に出て左(東)に進めば、250mほどで「春日大社一之鳥居」。
これより春日大社に向かう。この辺りは「飛火野」という。神様のお使いといわれる鹿たちが、鹿せんべいをねだったり、のんびりと休んでいる。
「萬葉植物園」への分かれ道を右に進めば「二之鳥居」。
「鳥居」をくぐれば、社務所前にある「伏鹿手水所」で身を清め、「回廊」と呼ばれる「御本殿」のある方向へと向かう。ゆるい階段を上ると「南門」。春日大社の正面玄関にあたり、国の重要文化財に指定されている。
高さ12m。春日大社最大の門だ。ここから内側が、東西南北の「回廊」に囲まれた春日大社の主要部分で、すべてが重要文化財に指定されている(特別参拝料500円)。
目の前に「御本殿」が見えるが、順路に従い一度「回廊」の外に。春日大社には、3000を超える燈籠があり「万燈籠」と呼ばれる。
ぐるっと回り「回廊」内に戻れば「中門」。朱色が美しい。「中門」を「御本殿」と間違える方が多いそうだが、「御本殿」は「中門」の内側にある。春日大社は、藤原家の「祖神」として、神護景雲2(768)年、常陸国鹿島(茨城県)から「武甕槌命(たけみかづちのみこと)」、下総国香取(千葉県)から「経津主命(ふつぬしのみこと)」、河内国枚岡(大阪府)から「天児屋根命(あめのこやねのみこと)」「比売神(ひめがみ)」の四神を招いて創建されたと伝わる。それぞれの神を祭る4つの「御本殿」は国宝である。写真撮影は禁止されている。
参拝を終え、境内を出る前にもう一度振り返って「中門」を望む。
さあ、日も陰ってきた。東大寺に向かう。ほとんどの施設は、午後5時に門を閉めるので急ごう。まだ、多くの観光客が歩いている。
正面に「南大門」。「東大寺」への入口だ。創建当時の門は、平安時代に倒壊。現在の門は、鎌倉時代の正治元年(1199)年に再建されたもので国宝に指定されている。高さ25.5m。18本の大円柱で支えられているという。でかいな。
左右には「木造金剛力士立像」。これも国宝だ。
「南大門」をくぐれば正面に「大仏殿」の屋根が見えてくる。
「大仏殿」への入口である「中門」。享保元(1716)年ごろの再建で国の重要文化財に指定されている。左に回れば入り口になっている(拝観料600円)。
そして中へ。目の前には「大仏殿」。正式には「金堂」と呼ぶ。とにかく「でかい!」。間口57.5m。高さ49.1m。さすが「世界最大級の木造建造物」だ。
2度の火災に遭い、現在の「大仏殿」は、江戸時代の宝永6(1709)年に落慶したそうだ。創建当時の間口は86mあったという。
そして「大仏殿」正面に何気なく立つ「金銅八角燈籠」。たびたび修理されているそうだが、基本的には奈良時代創建時のもので国宝である。すごいな。
さあ堂内へ。ご本尊である「大仏様」。正式には「盧舎那仏」と言うのだそうだが、一般的には「奈良の大仏さん」として親しまれている。高さは14.7m。もちろん国宝である。
そして、何と。「大仏様」は、三脚を使わなければ写真撮影OKなのだ。この後、「二月堂」や「正倉院」も回りたかったのだが時間がない。そういえば、今は「正倉院展」が開催されている。また、いつか来よう。
「登大路」と呼ばれる大通りを西へ進む。左には「奈良国立博物館新館」。「日本書紀」など多くの国宝等を所蔵する(拝観料520円)。
その隣には「奈良国立博物館本館」。明治28年「帝国奈良博物館」として開設。国の重要文化財に指定され、現在は「なら仏像館」として使用されている。
10分ほどで本日のゴール近鉄奈良線「近鉄奈良駅」。午後4時45分着。ここから「大阪難波駅」まで約40分(560円)。本日の歩紀トータルは「29208歩」(19.86km)。撮影禁止のため写真では紹介できなかったが、教科書などで見た「国宝」をこんなにたくさん目の前で見ると人生観が変わるな。何か、涙が出そうになるよ。大阪から1時間もかからないところにこれだけたくさんの「国宝」が。京都も近いし、大阪って本当に良いところですね。