”スローライフ滋賀” 

「ウォーキング三昧」ブログの続編です。令和元年(2019年)5月1日に移行しています。

【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第79回) タイでの日常生活と食生活(その3)

2024-03-11 06:00:00 | 海外の旅
食生活 タイ料理
 日々の食事は妻やお手伝いさんが作る日本食を食べていた。食材調達ができる日本人向けスーパーが近くにあった。少々値段は高かったが殆どのもが買えたし、豆腐、納豆などローカルメイドさえあった。

 また、外食は自宅マンションから徒歩で数分~10分くらいの範囲内に色んなレストランがあり、日本料理店も結構な数があった。勿論、街中の道端には屋台がいつでもあった。殆どのタイ人はテイクアウトか屋台などの外食が生活スタイルになっている。よって安価で美味しいローカルのタイ飯は至るとこで食べられ私は直ぐに好きになってしまった。

タイ料理の代表的なもの
【ご飯もの】カオ・マン・ガイ (鶏スープで炊いたチキンライス)
【ご飯もの】パッ・ガパオ・ガイ(バジルの爽やかな風味と、スパイシーなピリ辛の鶏挽き肉に、ご飯の相性抜群。上にのせた目玉焼きを崩して食べればよりマイルドになる)
【麺料理】パッタイ
【麺料理】カオ・ソーイ(タイ北部で親しまれている揚げカレーラーメン )
【パン】パートンコー
【サラダ】ソムタム
【揚げ物】ボーピア・トード
【スープ】トム・ヤム・クン

 世界三大スープと呼ばれているのは、タイの「トムヤムクン」、中国の「フカヒレスープ」、フランスの「ブイヤベース」、ロシアの「ボルシチ」の4種類。
 

世界三大スープの1つ、トムヤムクン。「トム」は煮る、「ヤム」は和える、「クン」はエビ。 ぷりぷりのエビが入った酸っぱくて辛いスープは、一度食べたら忘れられない美味しさ。 


 そんなこともあり我が家は1週間に1度くらいは外食に出掛け、色んなタイの料理を食し楽しんだ。タイ料理は一般的に辛いがハマるとたまらなく美味しく好きになる。ヌードル、魚、貝、肉料理等多種である。

私が好きなタイ料理
トムヤンクン(えびが入った酸味と辛味のあるスープ )

タイスキ(タイの鍋料理)( 魚介類や薄切り肉、野菜などを湯炊きし、たれをつけて食べる鍋料)。
『ナムチム(タイ風つけタレ)』は ニンニクや唐辛子、ココナッツシュガーやライムなどで作るのが一般的で、甘辛い味に酸味がプラスされている。

 





カオ・パットカイチアオ(卵焼き付きタイ風焼チャーハン)

カオ・マン・ガイ(鶏肉のバジル炒め)


タイ風グリーンカレー(レッシュなコリアンダー、キダチトウガラシ(青唐辛子)、レモングラス等のハーブ類。 これらの材料をすり鉢とすりこぎを使いすりつぶしてペーストを作り、ココナッツミルクでのばして作る )


ソムタム (熟す前のまだ青いパパイヤに、トマト、インゲン、ピーナッツ、干しエビなどを加え、唐辛子、ライム、ナンプラー、パームシュガーを、木製または石製の〝クロック〟という鉢に入れ、〝サーク〟という棒で叩き潰しながら和えたもの)



 その中で私が気に入ったのが廉価で美味しい「タイすき」だ。野菜、肉団子、いび、などの具を薄味付きのスープで焚き、独特の辛い味のたれをつけて食べる。
 タイには「コカ」と「mk」のタイすきのレストランがあるが私は「mkレストラン」のたれの味が好きだ。職場の昼食でも数人以上集まると週に何回も食べていた。勿論、家族でも近くのmkによく行っていた。
 その他に、バンコクの「ソンブーン」レストランの海鮮料理は秀逸で少々高いがいつも混んでいた。いつぞや元プロレスラーの猪木に出くわしたこともあった。
日本食のレストランも多数あり、廉価ながら美味しい日本料理店には家族で行ったものだ。また、イタリアンレストランも近くにあり、パスタやパエリアなどをよく食べに行った。
 勿論、タイ人が日常利用する大衆食堂や屋台を入れればきりがない。子供達も辛さに慣れ、あれからもう30年以上も経つがタイ料理の大ファンで今も妻が作る美味しいタイ料理を食べている。

南洋果物 フルーツ天国のタイ
 タイだけには限らないが東南アジアは果物の宝庫である。タイではあらゆる南洋の果物が安価で食べられる。
 バナナ、りんご、みかん、スイカ、パイナップル、マンゴー、ドラゴンフルーツ、ジャックフルーツ、ドリアン、ランブータン、マンゴスチン、ロンコン、サラ、サントール、ノイナー、ポメロ、パパイヤ、チョンプー、グアバ、桑の実などキリがない。
 中でも果物の王様と言われる「ドリアン」は独特の匂いがあるので好き嫌いがあるが食べれば美味しい。現地でも値段は少々高かったが義母はこのドリアンが好きだった。果物の女王「マンゴスチン」も美味しい。 
 私は昼食後、軽い触感のチョンプー、グアバをよく食べていた。タイ人は道ばたでランチのテイクアウトと一緒に買い、食べていたのを思い出す。
 また、自宅ではお手伝いさんに買って来てもらったちょっと小さめのオレンジを何個も絞って貰い、朝食時に飲むんだオレンジジュースは新鮮で濃くて甘い絶品の生ジュースだった。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第78回) タイでの日常生活と食生活(その2)

2024-02-29 06:00:00 | 海外の旅
 もう30年前の1993年~1995年に家族と共に赴任した「タイの生活」の続編(その2)である。

交通事情
 1993-1995年当時は高架鉄道の「スカイトレイン」、地下鉄の(バンコク・メトロ)はまだ工事中だったが両方との現在ではバンコク首都圏の重要な交通網となっており、また、交通渋滞の緩和にも大きく寄与している。
 「タイ国鉄」はタイ国内全体に路線を持っているが基幹路線を中心であり、首都圏のアクセスラインにはなっておらず日常活動の足になる鉄道はなかった。

 よって、バンコク市内の市民生活の足はバス、自家用車、モーターバイク、メータータクシー(シーロー)、ツクツク(サムロー=小型3輪自動車)、バイクタクシーであった。
 大型のバスも各地多数走っており安く利用できたが路線が複雑で良く分からなかったことと、個々に運転手付きの車(レンタカーで新車のトヨタコロナ)を持っていたので、2年間、私個人はタイのバスには乗ったことはなかった。

↑クルンテープ・アピワット中央駅

 しかし、バンコクの生活に慣れ気丈(?)な妻は利用していたことがあった。唯一、列車で観光目的でカンチャナブリのクワイ河鉄橋に行った時、バンコクの「フアランポーン駅」から乗ったことがある。現在は新しい駅の「クルンテープ・アピワット中央駅」から地方への発着駅となっている。
 普通列車や近郊列車、観光列車などに関しては、これまで通り「フアランポーン駅」発着である。

 
↑↓フアランポーン駅
 
                  ↑クワイ河鉄橋
 出張でタイ国内の遠隔地に行くときには飛行機でその近くの空港まで飛び、社用車は現地で待機してくれていた。特に地方は車がないと話にならないので社用車には陸路先回りして現地に行って貰っていた。

 空港は当時、ドンムアン空港で現在のスワンナプーム国際空港(2006年開港)はまだ開港していなかった。現在では国内がドンムアン、国際がスワンナプームと分けられている。

↑スワンナプーム国際空港

↑ドンムアン空港

 国際線はタイ国際航空、国内線はバンコク・エアウエイズが主に運行させている。
 当時のドンムアン空港に行くには、ほぼ並行した鉄道もあったが空港利用には全く機能を果たしていなかった。また、事実上、高速道路か一般国道の2種類しかなくほぼ並行している鉄道は空港利用には全く機能を果たしていなかった。
 ホテルと空港間にはリムジンバスがあったがバンコク市内のでに自宅があった1993年~1995年はタクシーを利用することが多かった。これまでタクシーはまだメータ付きでなく、乗車の時一々運賃交渉するのが鬱陶しいしかった。慣れぬ観光客などは高い運賃を取れることもあった。その内、メータータクシーが一気に増えほぼ運賃交渉をせずとも安心できるようになった。


 タイでは特にバンコクでは市民の足、小型3輪自動車である「トゥクトゥク =サームロット」が有名である。
昔、日本で軽自動車が発売される前に「ダイハツ・ミゼット」と言う小型3輪自動車を出していたことがあった。そのミゼットに似た3輪車「サムロー」が「トゥクトゥク 」である。バタバタと爆音と噴煙を出して走るツクツクはタイの風物詩の1つだろう。
 そのツクツクはタクシーを使うほどでも無いところへちょっと行くときや、渋滞で急ぐ時、荷物がある時など利用することが多く便利である。50バーツも出せばかなりのところまで行ってくれた。観光客も珍しいのかよく乗っているのを今日でも見ることができる。


 従って人々の足は車とバス、近場はツクツクが庶民の足であった。人間で言えば毛細血管に似て、交通渋滞が激しいバンコク市内の小路(ソイ)を走る「バイクタクシー」は少々危険であるが最も速い足である。
 乗車する人はヘルメットをかぶり後部でドライバーにつかまり走るが女性はバイクの後部座席に横座りで座るが危なかっしいがそれでもスイスイと洪水の車の間をぬって走ってゆく。

バンコクの寺院と観光地巡り
 タイは仏教徒の国で信心深い。国教は仏教で国王は仏教の庇護者でもある。
僧侶が毎朝托鉢に回る。大抵のタイ人は仏教を信じていて寺院だけでなく市中の仏像に頭をたれ拝む。タンブンと言ってお布施もする。
 タイの男性 は20歳の成人後に出家を経ることで一人前になると伝統的に考えられていて数か月出家する人も多く、結婚 などの前に出家をする方も多い。

 タイの国中に立派な寺院が多く、首都バンコクには「エメラルド寺院」の通称で知られている「ワット・プラ・ケオ(王宮)」は、1782年にラーマ1世が現在の王朝であるチャクリー王朝を開いたときに護国寺として建てた寺院で最も有名な寺院がある。男子も半ズボンなどは認めれず長ズボンの着用が求められる。(持ってない者には臨時に長ズボンを貸してくれる)
 
 ↑ワットプラケオ(王宮)

 「ワット・アルン(暁の寺) 」はチャオプラヤー河の岸辺にひときわ美しい大仏塔 がそびえたつ、「ワット・ポー 」は長さ46mの巨大な寝釈迦仏の寺。ワットポーはタイ古式マッサージの総本山。

↑ワットアルン            ↑ワットポー(涅槃寺・寝仏寺)

 この他、訪れていない立派な寺院が至る所にあったので今から見ればもっと頻繁に行けばよかったと思う。

タイの水上マーケット


 バンコクの南西約80kmにある「ダムヌン・サドゥアック水上マーケット」は一番有名な水上マーケットである。活気があって素朴な見どころがあるここの水上マーケットにやはり一度は行ってみたいところである。
 早朝から昼過ぎまで開かれているが市場がもっとも賑わうのは朝8~10時頃である。可能であれば朝9時頃までに到着した方が良いと言われる。
その他にも数カ所水上マーケットがあるようだが私達は行ったことがない。

買い物・お土産
 バンコクでは日常生活の食料や生活用品等はほぼ何でも買える。バンコク市内には数店、日本の食料品のスーパーマーケットがあり普通の生活には不自由することがない。また、日本のデパート(伊勢丹、大丸等)や現地資本のデパート内のスーパーにも日本の食品も売っている。

 タイ人の市民が利用する現地の大小の市場や商店街があり、そこではタイのあらゆるものが買える。時々、タイの市民生活を知るためにも言っていた。
その1つに泥棒マーケットと呼ぶ大きなバンコク市内のローカルマーケットでは時々、「アサヒドライ」がバンコクのローカルマーケットに出回る、そんな情報があった時はマーケットに出かけたものだ。只、アサヒドライが製造が日が経っていることから気が抜けて美味しくなかったことが多かった。多分、船員が無断で持ち込んだものに違いない。(国際線の船は公海・領海外では無税。領海に入って持ちこむ場合は税金を払う必要があるが無断で持ち込んだものだろう)

チャトチャクのウイークエンドマーケット


 バンコク郊外のチャトチャククと言う地区に大きなマーケットがある。ここはタイの陶磁器、彫り物、衣料品、観葉植物、肉や魚も売っており、観光客は必ずと言っていいほど訪れる。私は妻と日常の置物や土産物をよく買いに行っていた。

 私はバンコク市内の靴、スーツ店でオーダーメイドしていた。帰国の何か月前には懇意にしていた中華系タイ人の家具店でライティングデスクを特注した。あれから30年近くになるが今も愛用している。また、日本人経営の画廊ではタイ人の画家にバンコクの風景水彩画も描いて貰ったことがある。
 1995年に帰国後、何年かしてバンコクを訪れた時、家具店で久しぶりに再会して旧交を温めたこともある。

タイシルクのジムトンプソン

 
 「ジム・トンプソン」 こと ジェームズ・ハリソン・ウィルソン・トンプソンは、アメリカ人の実業家、軍人。タイ王国のシルクを世界に広めたことで知られる。 
 「ジム・トンプソン」は、1948年以来、米国人ジム・トンプソン氏が情熱を傾け育て上げた手織りタイシルクの芸術品だ。「タイの至宝」として珍重され、永年門外不出を守ってきたが、いまや世界的なブランドとしてその名を馳せている。 
 商品は飽きが来ず、タイへの観光客の殆どが何らかのジムトンプソン製品を買って帰るほど外国人にも有名である。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第77回) タイでの日常生活と食生活(その1)

2024-02-20 06:00:00 | 海外の旅
 1993年~1995年の2年間、家族同伴でタイのバンコクに赴任した。今から30年前であっという間の2年間であった。
 家族にとっては初めての海外生活でタイ語も満足にできなくても現地に馴染めだろうか、タイから日本に帰国後学業は遅れないだろうか、タイの食事は大丈夫だろうか、病気になった時十分な医療を受けられるだろうかなど心配事もあった。初めはそんな心配もあったが全般的には杞憂だった。

住生活環境
 大抵の日本人はバンコクの日本人が多く住むエリアのマンションに住んでいた。その主な理由は安全、交通、買い物、レストランなど生活に便利な場所で日本人学校への通学送迎バスサービスがある地域だったからである。
 私たちのマンションは築10年以上経っていたが11階建ての10階(250㎡の広さ)に住み、交通、買い物、外食等に便利な位置にあった。オーナーはインド人で我が家の上の11階に住んでいて色んな相談が出来て都合がよかった。
 同時期に赴任した同僚はめいめい好きな物件を探し住んでいた。私たちのマンションには他社の日本人家族が居たが同僚はいなかった。

 日々の通勤の手段は車で運転手を雇っていた。よって勤務時間帯に自分で運転することはなかった。週末に自分で運転したこともあったが特にバンコクは交通事情が悪く事故も多かったことから週末に車で外出するときは運転手に時間外手当を支払って出掛けた。
 バンコク日本人学校やインターナショナルスクールはスクールバスを提供していたがサービスエリア外に住む人は送迎の手段を自己で確保する必要があった。

 日本人学校は日本の先生が日本から派遣されていた。子供達は少ない時間ながらもタイ語の授業があったが上達はしなかった。また、自宅で英語やピアノの個人レッスンも受けることできた。日本式の塾もあり受験勉強も出来た。
 妻は現地でタイ語やタイ料理のレッスンに通っていた。妻にとって身近な先生はお手伝いさんだった。また、逆に妻がお手伝いさんへの日本食と日本語の先生だった。

病院
↑バムルンラード病院

 バンコク市内には外人が良く利用する大きな病院が2-3(バムルンラード病院、サミティベート病院、ゼネラル病院)あった。これらの病院では高度医療も受けられ優秀な医師がいて安心して受診できた。また、バンコク市内には日本で医学を学んだ開業医院もあった。我が家が利用したバムルングラッド病院には日本語の通訳が常駐し重宝されていた。それらの病院は医師の力量、設備も良く安心出来た。
 病院では治療費などは日本の「海外傷害保険」が適用されるため事実上持ち出し無しだった。子供が入院した時も一切個人の支払いはなく、入院中の食事は某有名日本料理店のメニューから選び、出前をして貰うことがあったがこの分も保険でカバーされていて驚いた。
 アジアの国ではタイのバンコクは日本と同等のレベルがあるとされ定期健康診断も現地受けていた。その他の国は定期健康診断で日本に帰国したり、バンコクに来る人も居た。日本企業は一般的に健康診断を兼ねて年に1度か2年で帰国できる制度が大半だったが、当時我々は年に2度帰国できる厚い制度があった。しかし、健康診断や病院には問題なかったのでタイに滞在の2年間1度も日本に帰らなかった。

お手伝いさん(”あやさん”と呼んでいた)
 バンコクのある日本人の家庭では毎日の食事(日本食)を全てベテランのお手伝いさんにお任せのところもあった。
 我が家のお手伝いさん(”あやさん”)は知り合いの紹介で東北部出身の若い女性を雇った。彼女は初めてお手伝いさんの仕事をするため同じくお手伝いさんをしていた姉を頼ってバンコクに出て来たばかりの新人だった。
 そのため初めはタイ語しか話せなかったのでコミュニケーションが難しかった。しかし、素朴で正直な人だったので直ぐ慣れて行った。お手伝いさんには初めは洗濯や室内の清掃、食器洗い、お買い物などを手伝って貰っていたようだ。

 我が家の食事は基本的に妻が日本食を食作っていたがやがて妻の指導で次第に簡単な日本食はお手伝いさんに任せられるようになった。現に妻が用事で短期間日本に帰った時にはお手伝いさんが毎日食事を作ってくれた。我が家の味付けとそん色ないほど日本食に上達していて驚くくらいだった。

 当時、まだ国民すべてがタイは企業などで雇用できる労働環境が十分確保できていないこともあってお手伝いさんや運転手もれっきとした職業だった。
当時、お手伝いさんは住み込みだったが月給は月1万円程度だった。それでも西欧人やタイ人家庭のお手伝いをするより日本人家庭を希望した。理由は待遇が良い、日本人の人使いは優しいからだと言われていた。現に我が家も年2回、お手伝いさんが帰省する時は心づけと手土産を持参させていた。また生活に必要なものも与えていた。基本的に勤務は月~金だったが週末手伝って欲しい時は時間外手当を支給してやって貰った。手当が入るので気持ちよく働いてくれていた。
 余談になるが日本へ帰国する時、お手伝いさんに離職証明、つまり日本人の我が家で働いていたことの証明をしてあげた。次の働き場所を探すのに有利になるからである。

 お手伝いさんには家の中のことだけでなく、長男が放課後クラブ活動で定時のバスで帰宅できない場合、大きな道のバス停まで長男を出迎えに行ってくれた。
通常は朝夕、送迎のスクールバスがマンションまで来てくれるのだが定時スクールバス以外は各マンションに送り届けてくれない。よってバスが止まるところで下車し、徒歩で帰宅することになる。我が家の場合、5-6分のところがスクールバスのバス停だったが安全確保のため、クラブのある日はお手伝いさんが出迎え行ってくれた。
 しかし、その出迎えが結構大変なのだ。バンコクはほぼ終日交通渋滞で運転時間が読めない。いつバスが到着する分からないので待ちぼうけが当たり前である。
特にバンコク市内は車の排ガスで目や喉が痛くなった。また朝夕でも暑い。交通事情によっては1時間遅れは日常茶飯事である。そんな時でも彼女は我慢強く待っていてくれ有難かった。

 タイは暑いが風があるので体感は涼しく感じる。特に日蔭は。そんな訳で窓を開けると換気が出来気持ちが良いのだが排ガスのカーボンの煤で黒くなるので開けられない。エアコンが必需である。
 エアコンだがタイ人はガンガンに冷やすのには閉口する。我々には寒いのでカーデガンなどを羽織る人も多い。昔はスクールバスはエアコンが付いていなかったらしいが我々がいた頃には全車エアコン付きになっていた。日常生活にはエアコンがないとやれない。 ー続くー
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第76回) タイ北部とゴールデントライアングルツアー

2024-02-10 06:00:00 | 海外の旅
 1973年から1975年の2年間、タイのバンコクに赴任したがこの間、家族で何回もタイ国内の旅行を楽しんだ。
ざっと覚えているだけでもプーケット島、サムイ島、アユタヤ周辺、チェンマイ等の北部、スコタイ、泰緬鉄道、バンコク市内及び周辺など数えきれない。
 日本国内でも家族でそんなに頻繁に旅をしてはいなかったが折角、タイ国に来たのだからと積極的に出かけた。当時日本円とタイバーツの交換レートは3分の1以下だったこともあり廉価だった。

 旅は家族5人と妻の母親がバンコクに来ていた時は6人だった。その殆どは運転手付きのマイクロバスの貸し切りで英語が話せるドライバーをお願いしていた。大抵は3泊5日位のツアーだった。


 その内の1つとして「タイ北部とゴールデントライアングル」ツアーが今回の旅の記録である。
 タイの首都バンコクは7-800万人の人口を擁する大都市だが、タイ北部のチェンマイ、チェンライ有名である。特にチェンマイ人口はバンコクと比べるべくもないが(27万人のタイ国第4の都市)がつては第二の都市と言われた「チェンマイ」は文化歴史があり、タイ王室の避暑地の離宮もある。チェンマイと隣の「チェンライ」はタイ、ミャンマー、ラオスを流れる「メコン川」の3カ国が接する地帯を「ゴールデントライアングル」がる。


 山岳地帯のタイ北部は南のバンコクと比べて涼しい。この山岳地帯にはカレン、リス、ラフ、アカ、ヤオ、モンなど大別して10種の民族が住んでおり現在では100万人くらいに増えていると言う。各部族は衣装、腕輪、首輪その他の装飾品、編み物、織物など綺麗で独自なものを現在も継承している。
 
 ゴールデントライアングル(黄金の三角地帯)
 黄金の三角地帯とは、東南アジアのタイ、ミャンマー、ラオスの3国がメコン川で接する山岳地帯で、ミャンマー東部シャン州に属する。
世界最大の麻薬密造地帯であった。別名ゴールデン・トライアングルと呼ばれ、アフガニスタン・パキスタン・イラン国境付近の「黄金の三日月地帯」と並ぶ密造地帯である。現在では経済成長や取締強化により、タイやラオスでの生産は減少傾向にあるらしい。


 自然に囲まれたタイ第二の都市チェンマイ。仏教信仰の篤いタイの古都とあって、標高1080mに建つドイ・ステープ寺院の他、プラシン寺院、チェディルアン寺院、チェンマン寺院、スアンドーク寺院など必見の寺院が多数存在
する。バンコクのナイトバザールも有名だがチェンマイのナイトバザールも賑わう。
 タイ北部の山岳地帯に住むメオ族の村へ訪問できるツアーやエレファントトレッキング も楽しんだ。                                                      
 喧噪で華やかな大都市バンコクとは一味違ったチェンマイやその他の北部地方への旅もまた思い出深いものなった。
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【国際線フライトと海外の旅の物語】 (第75回) 初めての韓国と緊張感があった38度線の板門店

2024-01-30 06:00:00 | 海外の旅
  日本から最も近い外国である「韓国」に初めて訪れたのは1990年、この時も単独でビジネス出張に出かけた。また、その時、飛行機による日帰りでプサン(釜山)に視察に出掛けた。

 韓国へは2006年に妻とソウル及び近郊へ観光旅行に行っだけで2回しか行ったことがないがそれとてもう18年も前になる。   
 
 初回のビジネス訪韓は2泊3日でソウルで打ち合わせとプサンでの視察を行った。ソウルでのミーティングはほぼ順調に進捗し、6-7人一同で相手側主催の「ビジネスランチ」に招待された。
 美味しい韓国料理を頂き、少々のアルコールも出た。勤務時間内のビジネスランチなのでお酒はたしなむ程度である。昼食は初めは和気あいあいの良き雰囲気で歓談し話も弾んだが途中から、多少アルコールが回ったのか、どういう訳か戦前のことが話題になり、日本はけしからん、今でも許さないと糾弾調になって来た。私はこのような話には乗らなかったが私にも謝罪せよのような感じの雰囲気になったが主催者側が気まずい雰囲気を察し鎮静化を図ってくれた。

 韓国では戦前の歴史認識の違いを含めて相手側の反応や対応に気をつけるようこころがけていた。
私は終戦後生まれで戦前のことは直接知らない。韓国のように戦後、戦争、政治教育などはは受けていない。一方、韓国では現在の若者も戦前のことについて教育を受けてると聞く。戦前の植民地時代の被害者としての韓国の人たちからみれば時として被害者意識が表出するのだろうと思った。

 しかし、救いはこの時、相手側全員同じ論調ではなかったし、落ち着くようになだめている人もいた。良きビジネスパートナーと友好のためのビジネスランチは白けたものになった。相手側の上司はこの日のランチでの出来事に対し無礼を謝罪をしてくれた。韓国では日韓の歴史認識の違いは未だに微妙な問題であることを肌身で知ったのであった。

↑写真:朝日新聞より

 こんなことがあったが一度は行ってみたかった「板門店」(パンムンジョン)を訪れた。ソウルから1時間もすれば行ける未だに国連が管理する38度線の厳しい現状を見た。
 ここは日本の植民地問題とは違う次元の、厳しい朝鮮半島「南北問題」の最前線である。終戦後の昭和23年に勃発した朝鮮半島は38度線で休戦されたがテレビや報道でいつも見る「板門店」では常時南北の両軍が常駐し、監視しあっている軍事・政治上の最前線でもある。(*南側は米軍を主体とする国連軍)

 先にも述べたが私は戦後生まれで終戦後、アメリカの日本駐留軍のことも直接は知らない。「板門店」は今は休戦しているが朝鮮の南北が角を突き合わす緊張した場所であった。「板門店」の中に入る前、不測自体が発生した場合、被害を受けることもあっても保証しないとの誓約書にサインさせられた。さすがそのときは厳しい現実を肌身で認識した。

 しかし、異なる政治思想や体制が違うとはいえ、戦後半世紀以上にもなるのに同一民族がこれほどいがみ合うことも理解できなかった。
初めて韓国を訪れた時から30年近くの時間が過ぎたが現実は好転するどころか更に厳しい現状に複雑な気持ちになる。正に近くて遠い国である。
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