「ファウンデーションと帝国」(1952)と「1984年」(1949)
ついこのあいだ、fb友のDan BreedenさんからSex Crimeという楽曲を紹介され、ちょっとだけ思い当たるところがありましたので、お伝えします。それは、ただ1984と連呼する衝撃的な歌なのですが。
ご存じのように、「1984年」は有名なGeorge Orwel が全体主義の恐怖を鮮明にした未来予想図でDystopia SF小説です。
ディストピアとは、ユートピアの反対語で、ユートピアが「すべての者に公平に幸福が分配される理想の社会的」に反して、ある少数の特権階級が、人民を監視し、衣食住全般を管理する。
この「全体主義」についての議論が今日、また再燃しつつあるようです。それは、比喩的に言えば、右でも左でも、傾き過ぎた、日の出、日没を表徴していて、地を焦がす危ないatmosphere を醸し出しているみたいです。
多くの人がややもすると、誤解しているかも知れませんが、その対立概念が「個人・自由」と考えているようです。でも、今日の様態は、その両極ににわかに垣根を取り外される局面が現出しています。
いわゆるIT依存の社会の現出です。個人の自由意志の選択も、その動機、プロセスにおいても、超コンピューターにコントロールされて、錯覚を与えている日常生活です。アシモフは、そのようなコンピューターをマルチバック(Multivac )と呼んで、彼の作品中に登場させています。
アイザック・アシモフの「ファウンデーションと帝国」には、ミュールという、人間の意思、感情をコントロールして、彼の手先として利用するという、そして、ハリ・セルダンの「心理歴史学」に変調をきたさせるという怪物が登場します。彼は、片や、放射能、原子力を嫌悪する人物でもあるのですから、ただ単なる徹頭徹尾な悪玉ではないとも、描かれていて、読者には少しだけ、理解するのに厄介ではあります。
しかも、続く「Foundation and Earth 」(1988)には、そのミュールが、無機物、有機物を問わず全体融合体としてのガイアの出身であることも謎解きの厄介さを助長させています。
彼ミュールは、自分自身を「第一市民」と呼んでいるように、ここでも統率者「Big Brother 」と呼んだOrwell の影響を想起させられます。
いわば、今日の哲学的地平線の大きな課題としては、この全体主義という大壁が人類の将来に立ちはだかっていることをまず、深く認識することから始まらないといけないということでしょう。
そしてさらに、あらゆる科学諸学科とともに哲学的思考がさらにもとめられる時代が到来したのでありましょう。
https://youtu.be/MDQ7dq7a8T4
伊尹