日野日出志「ホラー自選集」の第4話「博士の地下室」と第6話「泥人形」をまとめて紹介します。私はこの2話が苦手なんですよ。
「博士の地下室」は日野日出志が傾倒する映画「フランケンシュタイン」の影響があるような気がします。不気味な洋館に博士夫婦、助手、召使い、家政婦の老婆が住んでいます。博士と助手は美しい動物を作ろうと、地下室で動物実験を繰り返していました。けれども失敗続きで、産まれてくる動物達は身体に障害を持っているものばかりでした。そんな動物達を処分させるために召使いが雇われていたのですが、動物達を不憫に思った召使いは自分の小屋に隠していたのでした。
博士の夫人は妊娠しており、老婆が身の回りの世話をしています。博士の研究を知った婦人は「でも動物なんて自然のままが一番美しいものだわ」「それを人間の手でつくりかえるなんて」と言いますが、博士は聞く耳を持ちません。ところが、ある風の強い夜に召使いの小屋が吹き飛ばされて、隠されていた動物達が庭にあふれかえってしまいます。博士は自分の手で処分しようと飛び出しますが、それを不審に思った婦人が庭を見ると……。
この動き、テンポ、構図、異様な画風に引き込まれてしまいます。そして老婆に呼ばれて婦人のもとに戻った博士が見た光景は……。
この作品は1970年に発表されています。近年のバイオテクノロジーの発達によって生命倫理学が注目されていますが、生命を人間がいじるという根源的な不安をストレートに描いた問題作でしょう。
「泥人形」も1970年の作品です。「怨念の漫画家が現代の悪を告発する!」と扉ページに書いてあります。こちらは公害問題についての作品で、毒の煙を出す煙突が立ち並ぶ工場地帯が舞台です。周辺に住む子供達はだれもが(先天的か後天的かわかりませんが)身体に障害を持っています。
「泥人形」はストーリーらしいものはありません。子供達が空き地に集まり、泥をこねて巨大な人形を作ります。すると工場の煙が人形に吸い込まれていき、ついには動き出します。その泥人形に向かって子供達が恨みをぶつける、という救いの無いようなできごとです。それなのに最後のページではなぜか不思議な安堵感があります。子供達が現実と折り合いをつけながらも懸命に生きているからでしょうか。
これら二作の共通点は「科学技術とその弊害」と言えます。だれもが科学技術に対して持っている素朴な疑問を怪奇漫画の体裁にしたものでしょう。科学技術によって身体の設計が変異させられた者達がたくさん出てくるという点が、私がこれら二作を苦手とする理由なのかも知れません。
日野日出志作品紹介のインデックス
「博士の地下室」は日野日出志が傾倒する映画「フランケンシュタイン」の影響があるような気がします。不気味な洋館に博士夫婦、助手、召使い、家政婦の老婆が住んでいます。博士と助手は美しい動物を作ろうと、地下室で動物実験を繰り返していました。けれども失敗続きで、産まれてくる動物達は身体に障害を持っているものばかりでした。そんな動物達を処分させるために召使いが雇われていたのですが、動物達を不憫に思った召使いは自分の小屋に隠していたのでした。
博士の夫人は妊娠しており、老婆が身の回りの世話をしています。博士の研究を知った婦人は「でも動物なんて自然のままが一番美しいものだわ」「それを人間の手でつくりかえるなんて」と言いますが、博士は聞く耳を持ちません。ところが、ある風の強い夜に召使いの小屋が吹き飛ばされて、隠されていた動物達が庭にあふれかえってしまいます。博士は自分の手で処分しようと飛び出しますが、それを不審に思った婦人が庭を見ると……。
この動き、テンポ、構図、異様な画風に引き込まれてしまいます。そして老婆に呼ばれて婦人のもとに戻った博士が見た光景は……。
この作品は1970年に発表されています。近年のバイオテクノロジーの発達によって生命倫理学が注目されていますが、生命を人間がいじるという根源的な不安をストレートに描いた問題作でしょう。
「泥人形」も1970年の作品です。「怨念の漫画家が現代の悪を告発する!」と扉ページに書いてあります。こちらは公害問題についての作品で、毒の煙を出す煙突が立ち並ぶ工場地帯が舞台です。周辺に住む子供達はだれもが(先天的か後天的かわかりませんが)身体に障害を持っています。
「泥人形」はストーリーらしいものはありません。子供達が空き地に集まり、泥をこねて巨大な人形を作ります。すると工場の煙が人形に吸い込まれていき、ついには動き出します。その泥人形に向かって子供達が恨みをぶつける、という救いの無いようなできごとです。それなのに最後のページではなぜか不思議な安堵感があります。子供達が現実と折り合いをつけながらも懸命に生きているからでしょうか。
これら二作の共通点は「科学技術とその弊害」と言えます。だれもが科学技術に対して持っている素朴な疑問を怪奇漫画の体裁にしたものでしょう。科学技術によって身体の設計が変異させられた者達がたくさん出てくるという点が、私がこれら二作を苦手とする理由なのかも知れません。
日野日出志作品紹介のインデックス
「博士の地下室」の動物達は、毛並などかなりリアリティのある描かれ方をしているのですが、「泥人形」の子供達の方は単純且つ漫画チックな絵で描かれていながら、その造詣が何処かいびつであるという点が、リアルに描かれるよりも却ってショッキングに思わせる結果となっている。私はこの2作品も直接読んだ事はないのですが、「漫画チックな絵で造詣がいびつ」といったキャラは他の多くの作品でも見られ、「タッチは漫画チックで好ましいのに、描かれている内容は恐ろしい」といった、画風と内容のちぐはぐさこそが、私も長年日野作品を苦手として避けていた、主たる要因だった様に思えてなりません。
ところで「泥人形」のこのカット、右端の泥人形の存在だけは説明を聞かないと解りませんが、それ以外の部分は、無表情に公害を垂れ流す背景の工場群に、いびつな姿の子供達。何も言葉が無くても一目で全てが理解出来る、素晴らしいアートですね。
そう考えると、上のカットはさらに印象が深くなります。工場と煙の黒、子供達の白、泥人形だけが立体的かつグレーに描かれています。泥人形は子供達の怒りを受け止めるために煙の毒から生まれたのか(黒の中の白)、懸命に生きる子供達の悪意から生まれたのか(白の中の黒)。いろいろと深読みができそうですね。おっしゃる通り、アートの領域かもしれません。
二作の画風の違いも興味深いです。「博士の地下室」は劇画に近い画面作りですが、「泥人形」等の作品では「まんが日本昔ばなし」のような絵柄です。そういうイノセントな絵でこういう子供達を描かれると、確かに読者にとって消化不良を起こすでしょう。かといって写実的に描いても、よくできた不気味な絵になるだけで、逆にリアリティーが希薄になりそうです。読者が思わず脳内で不気味さを増幅してしまう絵柄なのでしょうね。
というのも、僕は60~70年代の臨海工業地域で育ちましたので、作品中の子供達とは「同年代・同境遇」のようなものだからです。幸い、障害はありませんでしたが。
しかし「同年代・同境遇」であるがゆえに、この作品からはトラウマを一切受けていません。自分が日々感じていた公害の実態とは、(フィクションと分かっていても)懸け離れていたからでしょう。
当時の僕が恐怖していたのは、公害それ自体よりも漠然とした「公害問題」だったように思います。近い将来に人類が滅亡してしまうんじゃないか?という。
当時の漫画からは、多かれ少なかれそういう香りがしていましたから、この作品も埋没していたように感じます。「公害問題」をよほどダイレクトに描いた『漂流教室』や、(漫画ではないですが)『ゴジラ対ヘドラ』だの『ノストラダムスの大予言』の方が、トラウマという意味ではずっと生々しかった。
今になって思えば、「現代の悪を告発」などという「陳腐」な切り口は、70年にはもう古び始めていたのかもしれません。日野先生はその辺りまで敏感に察知して、あえて「不思議な安堵感」の漂う描き方をしたのかもしれませんね。
公害のもたらす事態に恐怖するのではなく、前向きに乗り越えなくてはならないという意思を少年たちに感じます。公害によって体が変異してしまうことは怪奇なことではあっても、少年たちにとっては恐怖ではなく、本当の恐怖は町全体に潜んでいると。誰かを悪者にして事の解決を図るよりも、人類の問題として全員で考えようと。
そしてそういう決意を別に言葉にするでもなく、ラストシーンで夕日に向かって振り返った少年たちの中に「全人類の意思」のようなものを読者は間違いなく感じ、そこに思わず安堵するのが本作の最大の見所かもしれませんね。