違憲下自衛隊 ⇔合法⇒菊印皇軍虎威借る狐「上官命令≒天皇陛下命令」前法2項刑法裁判⇒軍法裁判自民9条3項=後法優先削除同

違憲カジノ=政府利害関係者=背任罪=入場規制無⇔「市県府道民税・電気ガス水道完納」貧困ギャンブラー家庭子供生活環境保全無

井出商店「テレビ和歌山: ちゃぶ台」食中毒・宝くじ⇒「事実無根」

2012年05月05日 | どうよ!?
:井出商店店主証言!法廷で警察官証言すれば⇒信号無視有罪!

:和歌山見張り番⇒今後物証(写真。ビデオ映像等)

:信号無視⇒赤白黄色白黒決着⇒

:道路上で押し問答⇒危険予見⇒早期処理⇒物証提示!

;⇒無ければ⇒「不起訴!判決」を求め!

:次回開廷⇒6月4日月曜 ★午前10時 和歌山簡易裁判所刑事!

:懲役3ヶ月の刑事罰前科者を⇒カエリ・顧みず裁判★要請!

:例: 泉南警察署「山下清人 警部補」⇒

:飲酒検知器データー★物証拠★捏造事件⇒証拠!

:飲酒★高額摘発専門!⇒ライン川城同様⇒悪代官!


> ちゃぶ台 テレビ和歌山

2012年5月5日(土) 22時00分~22時45分

井出の大将と和歌山ラーメントーク

様々な場所にちゃぶ台と出演者が出没。

和歌山に関わりのあるゲストを招き、ちゃぶ台を囲み、ざっくばらんにトークを展開。


[収録場所]井出商店[ゲスト]井出紀生さん和歌山のイメージといったら必ず出てくる「和歌山ラーメン」。

和歌山市の新事業で今秋から「和歌山ラーメン」を

★案内するタクシーも走行を予定しています。

改めて「和歌山ラーメン」の魅力をトークしていきます。

出演者出演 マエオカテツヤ 堀内孝治

じじつ-むこん 1 【事実無根】
事実に基づいていないこと。事実であるという根拠がないこと。
「うわさは―だ」

「事実無根」に似た言葉» 類語の一覧を見る間違い 誤り いつわり でたらめ 根も葉もない

:ちゃぶ台初めて見ました何かの縁かも!?

:イツ・何時もは興味が湧かなかったが

:今回は和歌山の観光資源⇒「井出商店」だから視聴!

:今回はじめて視聴して納得できた宝くじ二回当てた!?

:「“宝くじ買っても居無い”」との回答!

:「スープ使い回し」「食中毒」(ハワイ旅行中)

:和歌山の誰かと遭えば皆様この話題

:どの様なメカニズムで流言飛語出発点は何方様!?

:次回はこの話題のルーツ発信源を捜査番組希求!

:私も一瞬思った⇒使い回しの元凶

:黒い粉⇒骨髄らしいが⇒

:「黒胡椒」⇒スープを飲み干す私

:鉢の底に沈殿物!(骨髄) ⇔コショウ・黒胡椒判断した!


備忘録:::

:噂話をオモシロオカシク・面白可笑しく流布

:右から左では⇒文句たれの私としてはお粗末過ぎて出来ません!

:何度も記載してるが和歌山市保健所に

:直接電話話にて⇒保健所に確認した⇒

:回答は「営業停止★無!」確認!

:この情報「守秘義務 ⇔公開」とお聞きした

:公開可能との御回答!★やっとシャベレ・喋る!

:しかし井出商店呼称も古風⇒内装も変わらず昭和!

:私も日本人もアジアの仏像の様に新品金ピカよりか!

:岡山児島発⇒ダメージ加工ジーンズ「付加価値」感じる!

:日本国国歌が影響しているのか「♪コケムス・苔生す まああで」

:高速道路和歌山インターチェンジ看板(カカシ)

:永らく歴史⇒ボロボロ(経年変化)掲示!

:【経年変化】(ダメージ加工)★歴史の重みを感じる!


【わび・さび 侘・寂】は、日本の美意識の1つ。一般的に、質素で静かなものを指す。
本来侘(わび)と寂(さび)は別の概念であるが、現代ではひとまとめにされて語られることが多い。
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【Blob Jumpブロブジャンプ】:【走り遅い私 ⇔バランス】⇒【坂を登り】⇒滑り降りる⇒腹凹!

2012年05月05日 | どうよ!?
【Blob Jumpブロブジャンプ】

とは大きな★マットのようなものを

湖などに浮かべ、一方の端に飛ぶ人がスタンバイし、

高い位置から飛び降りた人がもう一方の端に着地してスタンバイ中の人を空高く跳ね上げる遊びです。

今回、17メートルという記録を叩きだし世界記録を樹立しました。

写真見てると違和感ありますが、高すぎます。。


:昨年:エアーバッグ(スキー・スノボード⇒ジャンプ⇒着地)

:競輪場とマリーナシティー等⇒駐車場借受⇒設置⇒交渉失敗!

:ローラー・インラインスケート等歩道禁止

:是程の遊具を⇒使用可能⇒公園等少数!

:秋葉山山頂等⇒上部から⇒スラローム⇒

:滑り降りるコース建設を要請

:国体関連にて建設要請⇒却下!?トホホ!

:箱物建設⇒「5%キックバック風習!?」多額狙い!?トホホ!

:【走り遅い私 ⇔バランス】⇒【★坂を登り】⇒滑り降りる!

:スピード⇒スリル⇒(お腹凹む⇒医療費★減!)
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無責任「“想定外”」発言時点で予見!全原発停止⇒夏(:ピーク)電力不足

2012年05月05日 | 専横⇒特権.権威,信頼,有形力には敵わ無い
全原発停止 これでは夏の電力が不足する
2012年05月05日01時39分 提供:読売新聞

国内で1基だけ稼働している北海道電力泊原子力発電所3号機が5日、運転を停止する。全国50基の原発がすべて止まり、全電源の3割が失われる異常事態だ。

 原発の稼働がゼロになるのは、原発がわずか2基だった1970年以来、42年ぶりである。

 東京電力福島第一原発の事故の影響で、定期検査で止めた原発を、検査を終えた後も再稼働できなくなっていることが原因だ。

 事故の教訓を踏まえ、原発の安全性を再確認するのは重要だ。だが、政府の原子力政策が迷走し、再稼働への手続きにブレーキをかけた点は看過できない。

 菅前首相による突然の「脱原発宣言」など場当たり的な対応は、原発への不信を増幅させた。「やらせメール問題」をはじめ、電力会社や原子力安全・保安院の不祥事も、足を引っ張った。

 野田首相らは4月中旬、新たな判断基準で関西電力大飯原発3、4号機の安全を確認し、再稼働は妥当だと判断した。しかし、地元の理解を得られず、調整はなお難航している。枝野経済産業相の発言がぶれた影響も大きい。

 このままでは電力需要が膨らむ夏に間に合わない恐れがある。

 特に大飯原発のある関電管内は原発依存度が高い。再稼働しないと、猛暑時の電力不足は約15%にのぼるという。法律による節電の義務づけや計画停電が、必要になるかもしれない。

 首相が先頭に立ち、大飯原発の再稼働実現に向け、地元の説得に全力を挙げるべきだ。

 深刻さは関西にとどまらない。節電などの効果を入れても、全国の夏の電力需給は綱渡りだ。15基以上の原発が動いていた去年に比べてはるかに厳しい。昨夏のように、節電すれば乗り切れる、と楽観するのは危険である。

 経団連が先月に実施した調査では、製造業の7割が電力供給に不安があれば減産すると答えた。

 原発を代替する火力発電の燃料費は、全国で年3~4兆円も余計にかかる見込みで、電力料金のさらなる値上げも懸念される。電力不足が景気を冷やし、産業空洞化に拍車をかけることになろう。

 厳しい節電目標を家庭に強いれば、真夏の暑さが高齢者など弱者の健康を損なう恐れがある。

 原子力規制庁の設立が遅れ、大飯以外の再稼働手続きがストップしているのも大きな問題だ。

 与野党は規制庁設置を巡る協議を進め、再稼働の審査にあたる新体制作りを急がねばならない。



:【日当★2万円以下の賃金カット分⇒事故死者★命の価格!】

:公務員≒賠償責任無⇒「親方●日の丸」

: ⇔民間人⇒賠償責任⇒「全て★自腹!」

:夜行バス2名運行⇒ドライバー1名様運航⇒事故!

:670km⇒1分間も目をツム・瞑れ無い

:バス往復⇒平均コスト18万円相場⇒

:下請け⇒再発注⇒各1万円抜き⇒再発注15万円受注!

:【日雇い⇒日当★2万円以下の賃金カット分⇒事故死者★命の価格!】

つむ・る 0 【▼瞑る】(動ラ五[四])
〔「つぶる」の転〕目を閉じる。つぶる。
「目を―・る」 [可能] つむれる
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原発 ⇔ホンダCVCC対評価 排気ガス規制法米国マスキー法当時世界一厳合格!

2012年05月05日 | 専横⇒特権.権威,信頼,有形力には敵わ無い

:風力⇒日本国の何処でも吹いて居る!?(水不足⇒四国瀬戸内地方)

:官僚の天下り先⇒強欲ワタリ⇒★亡国!

:会計検査院・同じ穴のムジナ・狢穀潰し!?

:官僚御役人様は⇒どの様な社会貢献⇒公共の福祉⇒功績叙勲(説明して頂ければ納得!?)


 CVCCに対する評価 [編集]当時世界一厳しく、パスすることは不可能とまで言われた米国のマスキー法という排気ガス規制法(1970年12月発効)の規制値を、最初にクリアしたエンジンである。その功績により「CIVIC CVCC」はSAE(米国自動車技術者協会)の月刊機関誌(AUTOMOTIVE ENGINEERING)上で20世紀優秀技術車(Best Engineered Car)の1970年代優秀技術車に選ばれた。[2]当時社長であった本田宗一郎はCVCC開発の報を聞き大幅な売上が見込めると大喜びするが「排気ガス問題を減らし、少しでも空気が綺麗になるように願って開発したものであって、社の売上に貢献するためではない」と開発陣からの突き上げを喰らい、本田はさめざめと反省する。[3]

社団法人自動車技術会の「日本の自動車技術180選」の「ガソリンエンジン」部門で、「マスキー法を後処理(エアポンプや触媒等)無しでクリアできる最初のエンジンとして米環境保護庁(EPA)より認められた複合渦流調速燃料方式」として選出されている。

2007年に、日本機械学会が創立110年を記念し制定した機械遺産(6号)に、「日本の排出ガス低減技術を世界のトップに引上げた歴史的な機械」として認定されている。

CVCCの問題点は、燃焼室形状が複雑で燃焼室表面積が大きく熱損失が起こり出力の低下につながったり、専用のバルブ、カム、ロッカーアーム、キャブレターなど構造が複雑になる等であった[要出典]。その後、触媒技術の進歩によりエンジン本体での対応がなくても、排気ガス浄化が可能になり、ホンダからCVCCの技術を導入し、研究や試験的発売もしていたメーカーは採用を止め[4][5]、世界的な流れには成りえなかった。長く採用していたホンダ自体も、後にCVCCの採用を止めている。



【全原発停止】
原発きょう稼働ゼロ 泊3号機停止で42年ぶり
2012.5.4 22:28

定期検査に入るため、5日深夜に発電を停止する北海道電力泊原発3号機(右)=4日、北海道・岩内町(大西史朗撮影)
 国内の原子力発電所50基中、唯一運転している北海道電力の泊原発3号機(北海道泊村、91万2千キロワット)が、法律で定められた定期検査に入るため、5日深夜に発電を停止する。政府は関西電力大飯原発3、4号機の再稼働への同意を福井県などに要請しているが、めどは立っていない。泊3号機の停止で、国内で稼働する原発は、42年ぶりにゼロとなる。

 北海道電は、5日夕から制御棒を挿入して泊3号機の出力を低下させ、午後11時ごろ発電を停止する。原子炉内の核燃料157本のうち40本前後を新品に交換するなど、検査期間は71日間を予定。ただ、再稼働にはストレステスト(耐性検査)や地元了解が必要になるため、停止期間は「未定」としている。

 泊3号機は、平成21年12月に運転を開始した国内最新鋭の原発で、事故を起こした福島第1原発とは別の加圧水型(PWR)原子炉を採用している。

 東日本大震災発生時は第1回定検中で調整運転をしていたが、その後営業運転に移行。北海道電は、4月下旬に2回目の定検入りを予定していたが、他の火力発電がトラブルで停止し、電力の安定供給のため、5月5日まで運転延長を決めた経緯がある。

 電気事業連合会によると、国内の原発稼働がゼロとなるのは、日本原子力発電の2基(東海原発、敦賀原発1号機)体制だった当時、2基が同時停止した昭和45年4月30日~5月4日以来。



:アメリカ国製原発⇒ターンキー方式⇒改造⇒高額⇒

:日本地震国⇒実情不都合⇒看過放置!日本亡国!

:バス運輸⇒器物損壊罪とは成ら無い⇒2名運行⇒ケチ⇒

:バス乗客生命⇒二万円以下!?⇒監督官庁不作為!

:往復18万円⇒1万円⇒1万円中抜き搾取⇒「想定外!?」

:無駄使いして4ヶ月ボーナス受給!【責任不問元凶】

:「猫に鈴付け」⇒「信賞必罰」★給与⇒「人事院勧告」50人以上猶予だけ参考!?

:刑法193条公務員職権乱用罪 保身最優先⇒自らの違法エビデンス⇒ゲンチ・言質書庫隠滅!

:川柳:「5:公務員 7:仕事減らして 5:ミス減らす!」

:青色発光ダイオード発明対価たった6億円!

:佐藤久夫東京高裁判事!(地裁発明対価200億円)韓国産業を栄えさせた佐藤功労者!?
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光秀⇒春日局⇒【稲葉正成】秀秋を東軍に寝返に成功、戦後秀秋と対立し美濃に蟄居。

2012年05月05日 | 目からウロコ 
春日局(かすが の つぼね)/斎藤福(さいとう ふく、天正7年(1579年) - 寛永20年9月14日(1643年10月26日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性で、江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号である。

父は美濃国の名族斎藤氏(美濃守護代)の一族で明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉一鉄の娘・あん。稲葉正成の妻で、正勝、正定、正利の母。養子に堀田正俊。江戸城大奥の礎を築いた人物であり、松平信綱、柳生宗矩と共に家光を支えた「鼎の脚」の一人に数えられた。また、朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として随一の存在であり、徳川政権の安定化に寄与した。


【稲葉 正成】(いなば まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名。美濃十七条藩主、下野真岡藩初代藩主。正成系稲葉家宗家初代。

林政秀の次男。母は安藤某の娘。正室は稲葉重通の娘、継室は稲葉重通の養女・福(春日局、斎藤利三の娘)、継々室は山内康豊の娘。子は稲葉重通の娘との間に正次(長男)、娘(堀田正吉正室)。

★春日局との間に正勝(次男)、正定(3男)、正利(5男)。山内康豊の娘との間に正吉(10男)、娘(朽木稙綱正室)。養子は政貞。


稲葉重通の婿養子となるが、重通の娘に先立たれた為に代わりに重通の姪である★「福」を養女として正成に嫁がせた。

これが後の★春日局である。正成は義父と共に★豊臣秀吉に仕えたが、

秀吉の命を受けて★小早川氏に入った小早川秀秋の家臣(家老・5万石)となり、

秀秋を補佐した。四国・小笠原征伐で活躍し、慶長の役(朝鮮出兵)では秀秋に従軍した。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは平岡頼勝と共に徳川家康と内通し、

秀秋を★東軍に寝返らせる事に成功した。しかし、戦後秀秋と★対立し美濃に蟄居する。

慶長7年(1602年)、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると浪人となる。

慶長9年(1604年)7月、家康の嫡孫・竹千代(後の徳川家光)の★乳母が京都所司代板倉勝重によって募集された折に★妻の福が志願して採用されると、福と離縁した。

その経緯については諸説あるが、正成が愛人を作ったと知った福が激怒して家を去ったとする説、

勝手に乳母に応募した事に激怒した正成が離縁した説、

乳母に採用された事を知って「女房の御蔭で出世した」と言われるのを恥じて離縁状を出した説、

福に幕府から直接乳母に召されると言う話を正成が受けて、福は一時江戸へ行くのを渋ったが、乳母として幕府に忠勤すれば、正成も家康の覚えが良くなり、大名に取り立てられるのではと考え、進んで江戸へ行き、実際に正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてからしばらくして離縁したという説、

更にこれらの出来事は全て口実で正成を家康に仕官させる為に正成と福が示し合わせて離縁したとする説などがある。

なお、稲葉家は本来の嫡男であった正次ではなく、★福の産んだ子であるという理由で正勝が継いでおり、少なくとも★離縁後も福と稲葉家のつながりは大きいのは事実である。

後に家康に召し出され、以後は徳川氏の家臣として仕える。

慶長12年(1607年)には★旧領の美濃国内に1万石の領地を与えられ大名に列した(十七条藩)後、家康の孫にあたる松平忠昌の★家老となる。

大坂夏の陣では忠昌を補佐して戦功を挙げて、元和4年(1618年)に越後糸魚川2万石の所領を与えられ、忠昌の附家老となった。寛永元年(1624年)、忠昌の越前福井藩相続に伴う移動に従わず、勝手に出奔浪人し、幕府により子の正勝の領内で蟄居を命ぜられる。寛永4年(1627年)、独立した大名として再び召し出され下野真岡藩2万石に封じられる。翌寛永5年(1628年)、58歳で死去。
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淀君と秀吉公⇒豊臣秀頼誕生! ⇔「関白秀次⇒一族皆殺」≒同じ養子小早川秀秋

2012年05月05日 | 目からウロコ 
★【軍監】・石田三成の★報告を受けた秀吉は⇒秀秋に★激怒し、筑前名島三十五万石の大身から

秀秋を⇒越前北ノ庄★十五万石に★左遷する旨を決めた。

五大老会議で秀秋の罪を★【不問】とし、減封を★「取り消】した。

徳川家康公に救われた★恩義!⇒関ヶ原で⇒家康の★【発砲★督戦】を受け、

西軍を裏切り、東軍勝利に大きく貢献したのは有名だ・・・


これは光栄の「爆笑三国志」のパクリです。
菜根版名誉挽回してみませんか

第五頁 天下分目偏
石田三成 (1560~1600)………好かれるも嫌われるも極端につき

 徳川家康に牙を剥いた彼は江戸時代を通じて完全な悪者にされた。豊臣秀吉に仕えるようになったきっかけは有名だが、それがために茶の汲み方を始めとするお追従で出世したかのようなイメージが強い。武断派と言われた加藤清正・福島正則などを敵に回したことからも戦場働きもないのに秀吉の寵愛をかさに着てふんぞり返っていたイメージは更にクローズアップされている。歴史漫画では痩せぎすのクソ生意気を絵に書いた石田三成像が何度書かれたか数え切れない。何せ秀吉の側で彼の命を伝えるとして大名達に無理難題を吹っかける役は大抵三成なのだ(事実はどうあれ)。そして関ヶ原の戦いで小早川秀秋を始め、多くの大名にそっぽ向かれて敗北したことからその人望のなさは強烈なイメージを持ち、彼のイメージは長年にわたってひどいものがあった。   ★以下割愛抜粋


小早川秀秋(1582~1602)………若造には重すぎた荷
 関ヶ原の戦いで決定的な裏切りを為し、それが人生最大のイメージとなっている彼の生涯はその二年後に彼の頓死により、御家も嗣子なきがゆえに改易となったために御家を潰した益体なしでもある。戦場にて最後まで裏切りを躊躇った優柔不断ぶりも武将として誉められたものではなく、その姿は多くの歴史漫画でも必要以上にカッコ悪く描かれ、およそ彼をカッコよく描く漫画は皆無である(肖像画からしてたれ目の変な顔である)。秀吉の養子となり、行動如何では★関白も夢ではなかっただけにギャップの激しさは悲劇ですらある。


弁護1 少年を翻弄した二人の天下人。
 豊臣秀吉と徳川家康の間に立たされた、と聞けば大半の人間が物凄い重圧の場に居ると同情するのではないだろうか?

小早川秀秋とはその★双方から異なる★恩を受けた男なのだ。

 まず秀吉の養子となった者達の運命を見ればその重圧が窺い知れる。長く実子に恵まれなかった秀吉は養子達を殊の外溺愛した。

 甥(姉の子)秀次は関白になった(実子の死後だが)。結城秀康は彼を疎んじた実父の家康より秀吉に懐き、一説には秀頼も義兄として勇猛な彼を頼った。

宇喜多秀家は同じく秀吉を養父とする豪姫(前田利家四女)と娶わせられ、十代にして五大老に序せられた。
 当の秀秋は秀吉が天下を統一した翌年に僅か★十歳にして参議に任官、右衛門督を兼ね、丹波亀山十万石の領主に、翌1592年には★従三位・権中納言に進み、

以後秀秋は金吾★中納言と呼ばれるようになった。更に朝鮮出兵では名目上とはいえ遠征軍の★総大将に任じられる(詳細後述)。

 だが翌1593年に秀吉に★【次男秀頼」が★生まれる】と★養子達の待遇も激変した。

【関白★秀次】は自暴自棄から奇行愚行が目立ち、後に関白職を剥奪され、高野山に追放され、★切腹、一族も★皆殺しとなった。

実家の宇喜多家に戻った秀家はいい方で、秀康は結城晴朝の養子とされ、

「豊臣」にも「★徳川」にも★なれない立場に立たされる羽目にあった(最後の姓は「★松平」である)。

そして秀秋には西国の雄・毛利輝元の養子としての縁組が浮上した。
 だが実際に秀秋が養子に行ったのは周知の通り小早川家である。好色で暗愚とされたお坊ちゃんに大国毛利の命運を委ねるわけにはいかない故に小早川隆景が小早川家の養子に、と秀吉に直訴した、と言われている。

 勿論それはそれで真実なのだが、もう一つの説、秀吉による毛利家★乗っ取りを警戒した、という方が比重として大きいと薩摩守は見ている。

かつて毛利元就が同様にして吉川家・小早川家をそうした様に…。秀秋が輝元の跡取りとなれば五大老の内二人までを元養子で占める事になり得たわけでもあるから。

 そしてこの養子行き・隆景の逝去・小早川家相続をきっかけに秀秋への時代の翻弄が始まる。筑前名島(なじま。福岡県福岡市)城主となり、筑前及び筑後の一部三十五万石(五十万石とも)を治める太守となった秀秋は蔚山の戦いで自ら抜刀して十数名の首を挙げるが、

石田三成を★通じて「総大将らしからぬ振る舞い。」とされ、秀吉の不興を買い、筑前名島三十五万石から越前北庄(きたのしょう。福井県福井市)十五万石への★左遷が命ぜられた。

 これには秀秋を可愛がっていた秀吉によって★褒められる筈が、

★秀頼への対抗★勢力になることを恐れた★三成がその旨を告げ、

敢えて彼の行いを「非」としたとの見解がある。それゆえ秀吉も彼を疎んじたと。

 そしてそれを★救ったのが★徳川家康である。三成のザンゲン・讒言、と思い怒る秀秋をなだめ、元の地位の復帰を約束した★家康は程なく秀吉が薨去すると五大老会議で秀秋の罪を★不問と決議した。秀秋が★恩を感じたのは★言うまでもない。


 そしてこの家康の★厚意が秀吉亡き後の台頭を狙う狸親父の一人でも味方を増やす為の深慮遠謀であると考えるのは決して無理な考えではない、と薩摩守は考える。

 この大きすぎる境遇の変化が★【十一歳から十七歳】の少年を襲ったのである。

腹心らしい腹心が★【稲葉正成】一人(勿論秀吉から監視の任も帯びている)しかつけられなかった彼に…。


弁護2 荷の重過ぎる初陣。
 前項で触れた様に朝鮮出兵の後半慶長の役において小早川秀秋は名目上の総大将とされた。そして自ら抜刀して戦ったことを咎められた。
 だがここで視点を変えて欲しい。総大将として渡海した当時、秀秋は弱冠十五歳に過ぎなかった。初陣として珍しい年齢ではない。しかしたいていの初陣には父なり、教育係なりが背後か側につく。既に養父小早川隆景はなく、元養父秀吉は肥前名護屋にあり、彼の側にはいなかった(結城秀康、宇喜多秀家達は秀吉と一緒の初陣だった)。
 確かに参謀として同行した黒田如水の存在は心強かっただろうが、それでもかつてない大軍、かつてない異国の兵が対戦相手であることに相当な重圧があったことは想像に難くない。
 叶わぬ相談とはいえ、真の総大将にして養父の秀吉が側にいれば、最後の養父にして碧蹄館の戦いで劣勢の中の奮闘で朝鮮だけではなく明軍をも恐れさせた名将・小早川隆景がいれば随分勝手は違っただろう。
 歴史の結果として名将と称えられた偉人達もこの時の秀秋と同じ立場に立たされたていたとして、果たして何人が立派な総大将として振る舞えただろうか?:::以下割愛:::

 同じことが小早川秀秋を始めとする偉大過ぎる人物によって若くして重責を負わされた人間全般に言えはしないだろうか?繰り返すが小早川家に行った秀秋には事実上心許せる腹心は皆無だったのである。

 本来★恩人である家康につこうとしていたのが成り行き上、

西軍に属さざるを得なかった(島津義弘も同様だったという説がある)こと、

関白職をちらつかされて東西の狭間で迷ったこと、西軍を裏切って西軍大敗の直接原因となったこと全てを秀秋のせいにしていいのだろうか?

 やり手・徳川家康・石田三成・黒田長政というとんでもない人物に糸引かれた事、

稲葉正成・平岡頼勝といった重臣が散々諫言した挙句に最後の決断は秀秋に課したやり方、秀秋の裏切りに

★便乗して大谷隊に襲いかかった★小川祐忠・赤座直保・朽木元綱・脇坂安治のせこさ……秀秋への情状酌量の余地及び秀秋同様に断罪されるべき者達がいることを薩摩守は提言したい。
 「総大将」は最終的な責任を負わされるのは世の必然である。しかし総大将だけが責任を負わされるべきでないのもまた世の必然なのである。


弁護4 謎の多い死が生む邪推。
  関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍大勝に貢献した小早川秀秋は戦後その功により備前・美作に五十万石という破格の恩賞を得たものの、大谷吉継の「小早川金吾人面獣心なり、必ずや三年の内に祟りを為さん!」の呪詛を始めとする「裏切者」の罵声を浴び続ける余生の果て、僅か★ニ年で秀秋は夭折する。

 一般に裏切者の汚名と大谷吉継の祟りへの脅えから酒色に耽って体を壊し、
疱瘡(★天然痘)を患って病死したとされている。が、秀秋への注目度が様々な邪推を生んだ。

 よく挙げられる秀秋の死因には以下のものがある。①無礼討ちにしようとした農民の逆襲で股間を蹴られ即死。②以前に備前を領有していた宇喜多家残党による暗殺。③毛利家からの刺客(小早川家が改易された結果を考えると信憑性は薄い)。④大谷吉継の怨霊に脅えた狂死。⑤同じく亡霊に脅えた自害。⑥同じく亡霊に脅えた酒毒による病死。等々がある。

 確かな事実として秀秋は杉原紀伊守を斬殺し、その為に★稲葉正成は逐電した(後に彼の妻が★春日局となる)。

勿論これにも謎が多く、両名が関ヶ原の裏切りでの責任者とされた為とも、狂った秀秋の酒乱に巻き込まれた為とも言われている。
 
重圧の下に生きた人生が二年でしかなかったことが彼の不幸の一因であることに間違いはない。長生きすればいい所にも少しは目を向けてもらえるものなのだから。

結論 天下人豊臣秀吉の養子になった小早川秀秋にはそれ以外の拠り所が余りにもなさ過ぎました。秀吉の養子とは能力の如何に関わらず大変な注目度がありました。まして齢ニ十一にして重大事件(関ヶ原の戦い)から程なく没した彼には見るべきものも殆ど残されていません。
 さすがに彼に関しては「名誉挽回」の主旨に反して同情すべき点を上げる程度に留まってしまいました。ただわかって欲しいのは後から歴史を見て結果を知る我々は好き勝手が言えて、そこに何の重圧もない事の方が大半だということです。いつの時代にも夭折した人物の存在は枚挙に暇がありませんが、自らを遥かに超える偉人達にただただ翻弄されただけの人生に少しは同情することも人間として大切ではないでしょうか? 
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五大老家康公⇒秀秋の罪を【不問】とし、減封を★「取り消】恩義!

2012年05月05日 | 目からウロコ 
ざん‐げん【×讒言】 [名](スル)事実を曲げたり、ありもしない事柄を作り上げたりして、その人のことを目上の人に悪く言うこと。「―されて不遇の身となる」 


(:秀頼側⇒石田三成の讒言)また小早川秀秋の★活躍が★名声を★博すと、

秀吉の★【跡目相続争い】が 万一起きるような時には【★秀頼】に対する★厄介な★【対抗馬】となる可能性からも

 秀秋の「★戦功」は⇒「★殺戮」にされた方が★都合が良かったとの説もある。



第七章 小早川秀秋…蛮勇総大将

虐殺者 小早川秀秋
虐殺対象 朝鮮民衆
虐殺行為 一般民衆への攻撃・犠牲者への鼻削ぎ
虐殺要因 総大将としての力量誇示
応報 ★左遷

 言わずと知れた豊臣秀吉の養子で、実父・木下家定は秀吉の正室・お禰の兄で、秀秋はその五男だった(初名は「辰之助」で、ついで「秀俊」、最晩年は「秀詮」と変わるが、本項では「秀秋」で統一)。戦国房では「菜根版名誉挽回してみませんか」以来の登場である。
 
 本能寺の変の起きた天正一〇(1582)年に生まれた秀秋は、権力と財力と武力を欲しいままにしながらも実子に恵まれなかった子煩悩男・秀吉の養子となり、他の養子達(豊臣秀次、結城秀康、宇喜多秀家、智仁親王)と供に秀吉に可愛がられたわけだが、縁で見れば秀吉の正室の兄の子(=義理の甥)であることから秀吉の姉の子(=実の甥)である秀次に次いでいたと言っていいだろう。

 だが、朝鮮出兵-文禄の役の最中である文禄二(1593)年八月に秀吉の次子・お拾(おひろい。後に秀頼)が★産まれると

⇒秀秋は紆余曲折(詳細は★「菜根版名誉挽回してみませんか」参照)

を経て文禄三(1594)年に小早川隆景の養子となり、文禄四(1595)年に隆景の隠居と二年後の逝去(享年六五)を経て、筑前名島城主となり、筑前及び筑後の一部三十五万石(五十万石とも)を治める太守となった。

 だが弱冠★【一二歳の少年】に史上最大の立身出世男・豊臣秀吉並びに智将・小早川隆景の養子であるという事は大変な重圧があった。
 年齢もあってか、さすがに養父隆景の五大老を継がされる事はなかった(後任は上杉景勝)が、三十万石オーバーの大身だけでも並の少年に背負い切れる責務ではない上に、慶長の役に際しては遠征軍の総大将まで任じられたのだ。しかも初陣………世間は碧蹄館(へきていかん・ペクチェグァン)の戦いで圧倒的不利の戦況下で明の援軍を加えた明・朝鮮連合の大軍を見事撃破した小早川隆景を見る目で秀秋を見るのである。

★常識で考えてまともな采配ができるわけがなかった。ここに一人の少年が織り成すジェノサイドの種が潜んでいた。

 勿論、秀吉も小早川家中も馬鹿ではない。朝鮮出兵自体が戦国武将の誰にとっても初めての経験であり、動かす軍勢もかつてない規模だ。一二歳の少年に務まる軍務ではない。
 「総大将・小早川秀秋」とは名目上の話で、毛利家からは毛利秀元(毛利元就四男・穂井田元清の子・輝元養子)、小早川家中からは稲葉正成(秀秋側近。春日局夫)、秀吉からは黒田如水が秀秋補佐・監督の為に同道する事となった。

 だが、好色なりに、愚者なりに、若僧なりに、笑い上戸なりに秀秋は秀秋で戦に一生懸命だった。
 慶長二(1597)年一二月一二日に明・朝鮮軍が慶尚南道蔚山(ウルサン)城を包囲して水源を断つと、一二月二六日に小早川・毛利・黒田軍は蔚山の北方の西生甫に集結し、明けて慶長三(1598)年一月四日に蔚山城を包囲する明・朝鮮連合軍の背後を突いて潰走させ、城中の加藤清正軍を救出した。そしてここに血気の若大将が、総大将としての力を見せんとしたが為に一つのジェノサイドが為された。

 蔚山での戦いにおいて小早川秀秋は自ら抜刀すると明・朝鮮連合軍相手に大暴れすると敵兵の首級十数個を挙げるに及んだ。敵将を一人生け捕りにしたとも言われる。
 通常戦場で二桁の首を取り、敵将を生け捕ったとあればかなりの軍功と見られる。だが秀秋の奮闘は総大将という立場故に、秀吉の元養子にして秀頼対抗馬の一人になりかねなかった故に、初陣に似つかわしくない活躍故にジェノサイドと見なされた。

 形式上とはいえ、小早川秀秋は遠征軍の、在朝日本軍の総大将で、自ら抜刀しての奮戦は「大将らしからぬ匹夫の振る舞い」として石田三成から秀吉に報告された。

 また小早川秀秋の★活躍が★名声を★博すと、秀吉の★【跡目相続争い】が

万一起きるような時には★秀頼に対する★厄介な★対抗馬となる可能性からも

 秀秋の「★戦功」は⇒「★殺戮」にされた方が★都合が良かったとの説もある。

 極め付けは秀秋が挙げた首級の内容である。普通に考えて戦場で相手の首を★二桁も取るような奮闘は武芸の達人でも容易な事ではない。誰だって死にたくないから、相手を殺す事に消極的な人間でも、殺されない事には大半の人間が積極的だ。

死に物狂いの相手の首を二桁も取るには余程の達人でなければ難しく、故に秀秋が挙げた首級は女・子供・降伏した朝鮮兵、といった非戦闘員に近いとの見方もあったのだった。

 いずれにしても軍監・石田三成の★報告を受けた秀吉は秀秋に★激怒し、

筑前名島三十五万石の大身から秀秋を越前北ノ庄十五万石に★左遷する旨を決めた。

秀秋の大将らしからぬ蛮勇による益なきジェノサイドを秀吉が怒り、大将に不要な殺戮は秀秋に左遷という形で返って来た。因果応報である。

 さて、ここまでの文章を読んだ★大半の方が、小早川秀秋をジェノサイダーとする事に疑問を覚えるのではなかろうか?

 実際の所、薩摩守自身、「菜根版名誉挽回してみませんか」に取り上げた同情もあり、前頁の面々に比べてそんなひどいジェノサイダーと見ている訳ではない。

 敢えて秀秋をジェノサイダーの一人にエントリーしているのは一人の若輩者を
★権力者達が自分達の都合でいい様に利用し、それに対する反発と変動時のプライドへの固執がどんな暴走を生むかの悲劇に注目せんが為である。

 いきなり初陣で異国との戦の総大将に任ぜられ、自分なりに全力を尽くした結果が無用の殺戮として予想だにしない叱責を受け、減封まで言い渡された少年の心はかなり荒んだと言っていいだろう。
 幸か不幸か秀秋を叱責した秀吉は四ヶ月後の慶長三(1598)年八月一八日に伏見城で薨去し、

後の政治を託された徳川★家康は五大老会議で

   ★秀秋の罪を★【不問】とし、減封を★「取り消】した。

 養父(:太閤殿下)と★【恩人(:家康公)の★板挟みになった秀秋が二年後の関ヶ原の戦いで優柔普段の果てに

家康の★【発砲 督戦】を受け、西軍を裏切り、東軍勝利に大きく貢献したのは有名だが、翻弄され続けた事への反動の様に戦場での秀秋の殺戮に臨むが如き戦振りが続いた。

 関ヶ原の勝利後、秀秋は家康から西軍に従軍しての伏見城攻め(この戦いで家康の股肱の臣・鳥居元忠が自害)を赦す代わりに、石田三成の居城・近江佐和山城攻めを命じ、秀秋は狂った様に佐和山城を攻め立て、石田正継(三成の父)、正澄(三成の兄)、三成室も焼け落ちる城と運命を供にし、三成の幼子・重家だけが僧籍に入る事を条件に助命された。
 石田方に降伏を申し出た形跡は見られないが、小早川側にも降伏を勧告した形跡は見られない。

 そしてその二年後、慶長七(1602)年一〇月一八日、小早川秀秋は謎の多い死を遂げ、嗣子なきが故に小早川家は改易となった。時に小早川秀秋、★享年二一。
 
秀秋の死の原因は諸説あるが、確実な事実として、秀秋が重臣・杉原紀伊守を斬り、もう一人の★重臣・【★稲葉正成」が逐電した事実がある。

 抜刀し、斬り殺し、殲滅する事以外の戦いと自己のアイデンティティーを見出せないのは全ての人間の不幸である。地位と権力に追い込まれ、翻弄され過ぎた人間が人殺しにしか行動の術を見出せない悲劇は決して戦国時代だけのものではないと薩摩守は考える。 前頁へ戻る 戦国房へ戻る
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