このお寺は、住宅街の中にひっそりとある。
もとは田畑の中の集落の中心にあったのではないかと想像する。宅地化が進行して見えづらくなったのだろう。
こじんまりとした寄棟造りで大棟から降りてくる降り棟が伸びやかな曲線を描いて美しい。
鬼もいい表情だ。 軒丸瓦は葵、パトロンが徳川さんだったのかな・・?
ところで、ここにはどうも非情に怖いものがあるらしい。仏像におさめられていた胎内仏、“一夜にして・・” というのはとんでもエズイ(^^;)
見てみたいものだけど、まさかのお試しは怖すぎ。
案内版の表示、“ほんとかしらんけど・・” と断り書き付きで歴史を伝える。
謀反人荒木村重の子の妻が追い詰められた境遇となり自害したらしい。
荒木村重とは、饅頭の武勇で語られるものの“英雄的ゴミカス”でも“勇名”を馳せる。
見る方向を変えると非常に人間的、もろい人物像であり結構万人に投影される・・かも。
画は、“饅頭”の場面。
織田信長に拝謁した時に、村重は「摂津国は13郡分国にて、城を構え兵士を集めており、それがしに切り取りを申し付ければ身命をとして鎮め申す」と言上した。これに対して、信長は腰刀を抜き、その剣先を饅頭を盛っている皿に向けて饅頭3、5個を突き刺して、「食してみろ」と村重の目の前につき出した。周りにいたものは青ざめてしまったが、村重は「ありがたくちょうだいします」と大きな口を開け剣先が貫いた饅頭を一口で食べ、それを見ていた信長は大きな声を上げて笑い、その胆力を賞して摂津国を村重に任せたという。
村重はこの時38歳。信長は村重が高槻城を攻略した事を激賞して、村重がどのような人物なのか、どのような態度をとるのか試したのではないか、とも想像できる逸話である。(wikipedia 「荒木村重」より)
信長は村重の謀反にまさかと反応をしたらしい・・。村重にしても後の光秀にしてもコロッとだまされるというか、見通せないというか・・というところがある。それが人気でもあるんだろうけど・・
西国(中国)は毛利氏の治める領域である。摂津、丹波、但馬に戦国諸将の配下的領主が自立し、近畿の勢力との緩衝地帯として存在していた。
信長勢が迫ってきてさ~て困った。信長勢と与して毛利氏と戦うのか、それとも毛利勢の一将として信長勢を迎え撃つのか・・
一旦は信長派で固まる。しかし、毛利勢との拠点争いで降伏した者の惨殺、見殺し事態(1次、2次上月城の戦)の不審と秀吉に対する家格の違いから三木城主が離反する。
これによる包囲戦のさなかに謀反したのが村重。
信長方周囲から “やめとけ、やめとけ” をすすめられ “ごめんなさい!” を伝えに信長の元に向かうが、途中自身の家臣中川清秀に“信長様は一度裏切った者を許す人じゃないよ!”と言われ、謀反をやめるのをやめてしまう。
謀反が確定した村重は激しい攻撃を受ける。
一時は優勢に立ったものの流れは敵わず・・中川清秀はさっさと織田派に・・・、村重は陣営引き締めのため有岡城(伊丹城)を出て息子の守る尼崎城に籠るが、信長方は有岡城に残る村重家臣に“村重を説得して開城させれば許す”と伝える。”おまかせを”と向かうものの、頑なな態度に説得困難と無責任にも残された者を見捨てて逃走、これで妻たちや家臣に残虐な報復見せしめが向けられる。村重も支えきれず少数でこそっと逃走。
“なんというダメちゃんだらけや”という信長の憤りが惨劇に拍車をかけたのだろう、以下の記録まで達する。
かやうのおそろしきご成敗は、仏之御代より此方のはじめ也。(立入左京亮宗継入道隆佐記)
荒木村重は丹波の波多野氏(八上城)、三木の別所氏と縁戚であったか?とも・・心底信長方になびけないものもあったかもしれない。
豪の者ではあるらしい。マイナスキャラなのであまり知られていないのではと思うが、彼の足跡は直接間接ここかしこにある。このお寺も・・・
なお、離反した三木城主別所長治は、「今はただ うらみもあらじ 諸人のいのちとかわる 我身とおもへば」と秀吉方をして感銘せしむ辞世を残して切腹して果てるが、”波多野、荒木のような死に様は末代までの恥” という意識もあっただろうと云われる。