神崎川の帰りに尼崎側の橋のたもとにお地蔵さまを見ます。
何気に覗くと、“ん~! 高氏・・” 神崎一心の戦由来碑だそうです。
碑は読みづらくなってきていますが、次のように刻みます。
足利高氏 建武中興の恩賞に不平 反逆して鎌倉に走る 新田義貞 後醍醐天皇より追討の命を受ける かえって高氏の反撃に遭い京都へと敗走する
京の都で再び激戦 今度は高氏軍が敗走する 高氏軍 山陰丹波の地を迂回 兵庫に陣を占める 新田軍と打出の辺りで決戦の運びとなる
楠正成軍 遅ればせながら参加 神崎の辺りから神出鬼没 一心をこめた戦法で圧勝 高氏軍は遂に九州へと逃げ延びる 世にこれを神崎一心の戦いという
かなり尊氏を敵視した記述です。尊氏は中興の活躍者、ために後醍醐天皇から諱「尊」を賜り、この時期には尊氏を名乗ったはずですが、高氏としています。
しかも恩賞に不平を抱いて叛旗を翻した賊将、小者というニュアンスですが、現代歴史は必ずしもそういう評価をしません。
確かに兵庫の地で破れ九州に落ち延びていますが、なんと朝廷軍の多くが高氏に付いていってしまいます。人望を持っているのです。
危機感を抱いていたのは正成だけ。
“勝っている今このときこそ尊氏と和議を結びましょうぞ!”
と提案しますが、九州に追いやったとしか思っていない天皇側近に “なにを・・痴れ者が、我が方は勝っているのだぞ。天皇のご威徳覿面じゃ” 的な言いようで正成は謹慎の身に置かれたそうです。
正成が恐れたとおり尊氏の実力とは侮れるようなものではなかったのです。
では一心の地とはどういう所だったんでしょうか?
出撃地でしょうね。この辺で戦ったということではないんでしょう。重要な戦いだったんでしょうけど、通して見れば取るに足らないものだったかもしれません。
ちなみにまさに橋の辺りである神崎の渡しはどうでしょう? 現在でも交通の要衝です。昔日の姿は・・?
古い絵図があります。
(尼崎市立地域研究史料館のウェブサイトを参照させてもらっています。)
↑同資料館は閉所になったそうでリンクが切れていましたのでコピー画像を掲載しました。(2023/2)
うねりが大きく表現されています。誇張でしょうか? 深い入江の奥の大河であったということなんでしょうね。少なくとも“渡し”は徒渉(歩いて渡る)ではないようです。
神崎は川のミナトとして繁栄した街です。
大きな川というのは歴史とともに流れてきたというロマンをはらんでいますね。