おヒマでしたら、大島海峡東岸紀行 おまけ其の参もご覧ください。
《大島海峡東岸紀行》の写真を撮るために瀬戸内町のあちこちをうろうろしていた時期は、ちょうど奄美シーカヤックマラソン(スタートとレースの模様は、こちらとこちら)時期でした。
あちこちのサイトやブログでも取りあげられていましたが、こんなロングショットのアホみたいな画像はどこにもなかったので、アップしときます。
2006年7月1日、瀬戸内町西古見にて撮影。
大島海峡東岸紀行 伍拾壱で、西古見の海岸の廃墟となった桟橋を取り上げたのですが、きさんにいただいたコメントによれば、それは第二次大戦中の日本軍のものだったとのこと。
大戦の末期、日本軍は沖縄に続く第二の防衛線を大島海峡に置いて、その遺構が今では観光名所になっています。
大島海峡沿いのいちばん大きな集落である古仁屋のすこし北に手安弾薬庫を置き、対岸の加計呂麻島には水上特攻艇〔震洋〕が3隊、海軍特殊潜航艇〔蛟龍〕が1隊が配備されていました。
海峡の南の出口には安脚場(加計呂麻島)に砲台を設置し、皆津崎に見張り所(今では道もありません)を置いていました。
北にはこの先に弾着観測所(県道名瀬・瀬戸内線 西古見線にあります)を設置していたのですが、肝心の砲弾を撃つための砲台は、あまり多くの人に知られていません。
この日、グーゼン入り込んだ林道の奥に見つけたのが、緑に囲まれた分厚いコンクリートの壁です。
県道からここへ至る林道の分岐の付近には、昔の兵舎跡もあります。
これが、〔謎の西古見砲台〕(と、勝手に読んでるのはオレです)なのでしょうか?
この当時、奄美大島にどんな大砲が配備されていたのかは判りませんが、当時の主力兵器であった九六式十五糎榴弾砲(榴弾は野戦兵器なので、ここで使われたとは考え難い)の射程距離がおよそ11kmなので、ここからであれば加計呂麻島の北端から宇検村宇検までが射程範囲に入ります。
じっさいは、もっと大きな大砲を使っていた筈なので、付近の海域一帯を射程に収めていたのではないでしょうか。
↑の写真を含めてここから下は、「2006年7月1日、奄美大島某所にて撮影」とさせていただきます。
コメントでのご指摘も、ご遠慮ください。
なんでもかんでも他人のせいにしようとするごく少数のオロカな人と、大多数の馬鹿なマスコミが消え去るまで、なにとぞヨロシクお願いします。
次回は、最後のおまけです。
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《大島海峡東岸紀行》の写真を撮るために瀬戸内町のあちこちをうろうろしていた時期は、ちょうど奄美シーカヤックマラソン(スタートとレースの模様は、こちらとこちら)時期でした。
あちこちのサイトやブログでも取りあげられていましたが、こんなロングショットのアホみたいな画像はどこにもなかったので、アップしときます。
2006年7月1日、瀬戸内町西古見にて撮影。
大島海峡東岸紀行 伍拾壱で、西古見の海岸の廃墟となった桟橋を取り上げたのですが、きさんにいただいたコメントによれば、それは第二次大戦中の日本軍のものだったとのこと。
大戦の末期、日本軍は沖縄に続く第二の防衛線を大島海峡に置いて、その遺構が今では観光名所になっています。
大島海峡沿いのいちばん大きな集落である古仁屋のすこし北に手安弾薬庫を置き、対岸の加計呂麻島には水上特攻艇〔震洋〕が3隊、海軍特殊潜航艇〔蛟龍〕が1隊が配備されていました。
海峡の南の出口には安脚場(加計呂麻島)に砲台を設置し、皆津崎に見張り所(今では道もありません)を置いていました。
北にはこの先に弾着観測所(県道名瀬・瀬戸内線 西古見線にあります)を設置していたのですが、肝心の砲弾を撃つための砲台は、あまり多くの人に知られていません。
この日、グーゼン入り込んだ林道の奥に見つけたのが、緑に囲まれた分厚いコンクリートの壁です。
県道からここへ至る林道の分岐の付近には、昔の兵舎跡もあります。
これが、〔謎の西古見砲台〕(と、勝手に読んでるのはオレです)なのでしょうか?
この当時、奄美大島にどんな大砲が配備されていたのかは判りませんが、当時の主力兵器であった九六式十五糎榴弾砲(榴弾は野戦兵器なので、ここで使われたとは考え難い)の射程距離がおよそ11kmなので、ここからであれば加計呂麻島の北端から宇検村宇検までが射程範囲に入ります。
じっさいは、もっと大きな大砲を使っていた筈なので、付近の海域一帯を射程に収めていたのではないでしょうか。
↑の写真を含めてここから下は、「2006年7月1日、奄美大島某所にて撮影」とさせていただきます。
コメントでのご指摘も、ご遠慮ください。
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