ども。
ご無沙汰しております。
最近は、ひたすら内職に励む毎日です。
特に多い日は、一日10万回ほどもキーボードを叩いている勘定になります。
ブログの編集ページを開いても、「肘いてぇ」なんぞと言ってそのまま閉じてしまいます。
そこで、今回からはしばらく、むかーし(たしか5年位前)に書きかけてホッタラカシたエッセーもどきを発表します。カテゴリも『お蔵出し』です。
なんでこんなものを書いたかは、次回以降に白状します。
あ、ちなみに未完のまんまです。のワリにはムダに長文です。リンクをクリックすると、(IEでは)別ウィンドウが開いて、そのうちの幾つかは”ゆうちゅうぶ”の動画にリンクしてます。
それでは、どうぞ。
1.アジア発奄美行き
「日本の」ワールド・ミュージックとして、奄美の民謡が注目されはじめたのはいつの頃からだろうか。
もちろん、その端緒として「百年にひとりの唄者」と呼ばれた武下和平の歌唱を記録し、発売した日本ビクターの一連の作品を無視するわけにはいかない。しかし、やはりこの時点においては、「現存する民謡の重鎮」としてカタログ化しようという狙いの方が大きかったのではないか。すなわち、世界の音楽地図に未踏の地としてその位置を記すというよりは、日本民謡の国勢調査の一環として、ある地域における代表的な存在を明記しておくのが目的だったように見える。
いっぽう、武下とはその師である福島幸義のもとで兄妹弟子の関係にあった朝崎郁恵が、ピアニストの高橋全との共作ミニCD「海美(あまみ)」を、高橋の自主制作という形で1997年に発表している。この作品は、国内の著名なミュージシャンからも高い支持を受けて、2002年、大手のユニバーサル・レコードからフルサイズ・アルバム「うたばうたゆん」としてリニューアルされて発売された。
しかし、ポップ・ミュージックのファンに与えたインパクトがもっとも大きかったのは中野律紀(現在は、RIKKI名義)が1995年に発表した「RIKKI」であることは、疑問の余地はない。
当時、すでにその活動の中心をアジア市場に移していた久保田麻琴がプロデュースした本作は、中野に冠せられた「奄美の歌姫」という称号をより広義に解釈し、東南アジア音楽文化圏という仮説を打ち立てるかのように様々なアイディアに満ちていた。
その地理的な側面と中世から近世にかけての歴史的な経緯から、沖縄文化圏の一地方種として分類されていた奄美地方の音楽が独自の存在を世界に向けて主張しはじめたのは、「RIKKI」の発表によってだと言える。
しかしながら、この野心的な試みは、当時中野が在籍した日本ビクターの販売方針と中野の対立という形で幕を下ろすこととなった。中野側の主張によれば、当時の流行であったダンスビートを積極的に取り入れた作品をビクター側に強要され、自らのアイデンティティを蔑ろにされることを拒絶するために、その活動をインディーの場に移さざるを得なかったという。
いずれにせよ、中野律紀の「RIKKI」によって、奄美という土地の名を記憶に刻まれた人々は、その関心を元ちとせのデビューまで封印するか、中野のルーツである奄美民謡(シマ唄)への探求の旅路を辿るほかなくなった。
それは地図もなく、月明かりもなく、行き止まりや袋小路に満ちた旅である。そして以下に記されているのは、さしたる考えもなく、流されるままにその旅路に出てしまった者からの経過報告である。
2.ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
1950年代、レコード・ビジネスはまずアメリカで産業となり、5年ほど遅れてヨーロッパが追随し、やがて世界のあらゆる場所が、レコード・ビジネスの市場となった。
それまでの音楽産業は、きわめて小さな市場を形成し、限られた人々の間で商品として流通されていた。
一例をあげるならば、ビートルズのプロデューサーとして名高いジョージ・マーティンは、その自伝で、ビートルズとの出会いの前に製作したレコードがイギリス国内において二ヶ月で三千枚の売上を記録して、「ヒット・メーカー」と呼ばれた、と語っている。
そんな零細な産業が、なぜ瞬く間に巨大産業となったのか。もちろん、様々な要素が複雑に絡み合った結果だろう。第二次大戦からの復興が一段落したこと、西欧各国の植民地放棄と独立ラッシュが一時的ながらも第三世界の諸国の庶民の経済水準を引き上げたこと、ビートルズというスーパー・グループの出現、好景気による企業宣伝の活発化とそれに応えるかのように次々と設立された放送局、平和反戦運動、挙げればきりがない。とにかく、音楽産業はビッグ・バン的な成長を遂げた。
ひとつの産業が成長すれば、その産業の、それまで省みられなかった部分もそれなりに注目を受けはじめるようになる。レコード会社は、第二のビートルズ、第二のプレスリーを求めるだけではなく、まったく新たな市場を求めて、世界の辺境と呼ばれる地域へと手を伸ばしていくことになる。それはまた、意外な支援者の出現により、予想もしなかった展開を呼ぶことになった。
六十年代半ば、ライブ活動を停止したビートルズはインド音楽に関心を寄せ、ローリング・ストーンズ(ブライアン・ジョーンズ)は休暇先のモロッコの伝統音楽に注目した。黒人音楽に傾倒したロック・ミュージシャンはアメリカ南部の音楽にルーツを求め、あるいはスコットランドやアイルランドの民謡のアレンジを試みた。
これらの動きに追随したのは彼らのファンたちである。インドの伝統音楽のシタール奏者たちは欧米への演奏ツアーを頻繁に行い、また欧米からインドに移り住み、シタール奏者に弟子入りする者もあらわれた。
こうした動きは、折からのヒッピー・ムーヴメントと一体化し、ベトナム反戦運動とともにピークに達し、やがて日常の中に溶け込んでいった。時は移り、西暦は1970年代に入っていた。
欧米における音楽産業は巨大化し、効率化、集約化がはじまっていった。ロック・ミュージカルが製作され、ロック映画が封切られ、人気グループのコンサートは既設のホールでは観客を収容しきれず、スポーツ・スタジアムに特設ステージが組まれた。
無名の新人として華々しく売り出される者は有名作曲家のゴースト・ライターを勤めた経験を持ち、人気グループの舞台の袖でテープ代わりに演奏していたミュージシャンが呼び集められてバンドを組む。ディスコ・ブームについては、もはや言及する値打ちもない。
効率化は、大手資本のオフィスからの辺境へのフライト・チケットをキャンセルさせ、集約化は、代わって座席に着いた小規模資本を流通経路から駆逐した。
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ご無沙汰しております。
最近は、ひたすら内職に励む毎日です。
特に多い日は、一日10万回ほどもキーボードを叩いている勘定になります。
ブログの編集ページを開いても、「肘いてぇ」なんぞと言ってそのまま閉じてしまいます。
そこで、今回からはしばらく、むかーし(たしか5年位前)に書きかけてホッタラカシたエッセーもどきを発表します。カテゴリも『お蔵出し』です。
なんでこんなものを書いたかは、次回以降に白状します。
あ、ちなみに未完のまんまです。のワリにはムダに長文です。リンクをクリックすると、(IEでは)別ウィンドウが開いて、そのうちの幾つかは”ゆうちゅうぶ”の動画にリンクしてます。
それでは、どうぞ。
1.アジア発奄美行き
「日本の」ワールド・ミュージックとして、奄美の民謡が注目されはじめたのはいつの頃からだろうか。
もちろん、その端緒として「百年にひとりの唄者」と呼ばれた武下和平の歌唱を記録し、発売した日本ビクターの一連の作品を無視するわけにはいかない。しかし、やはりこの時点においては、「現存する民謡の重鎮」としてカタログ化しようという狙いの方が大きかったのではないか。すなわち、世界の音楽地図に未踏の地としてその位置を記すというよりは、日本民謡の国勢調査の一環として、ある地域における代表的な存在を明記しておくのが目的だったように見える。
いっぽう、武下とはその師である福島幸義のもとで兄妹弟子の関係にあった朝崎郁恵が、ピアニストの高橋全との共作ミニCD「海美(あまみ)」を、高橋の自主制作という形で1997年に発表している。この作品は、国内の著名なミュージシャンからも高い支持を受けて、2002年、大手のユニバーサル・レコードからフルサイズ・アルバム「うたばうたゆん」としてリニューアルされて発売された。
しかし、ポップ・ミュージックのファンに与えたインパクトがもっとも大きかったのは中野律紀(現在は、RIKKI名義)が1995年に発表した「RIKKI」であることは、疑問の余地はない。
当時、すでにその活動の中心をアジア市場に移していた久保田麻琴がプロデュースした本作は、中野に冠せられた「奄美の歌姫」という称号をより広義に解釈し、東南アジア音楽文化圏という仮説を打ち立てるかのように様々なアイディアに満ちていた。
その地理的な側面と中世から近世にかけての歴史的な経緯から、沖縄文化圏の一地方種として分類されていた奄美地方の音楽が独自の存在を世界に向けて主張しはじめたのは、「RIKKI」の発表によってだと言える。
しかしながら、この野心的な試みは、当時中野が在籍した日本ビクターの販売方針と中野の対立という形で幕を下ろすこととなった。中野側の主張によれば、当時の流行であったダンスビートを積極的に取り入れた作品をビクター側に強要され、自らのアイデンティティを蔑ろにされることを拒絶するために、その活動をインディーの場に移さざるを得なかったという。
いずれにせよ、中野律紀の「RIKKI」によって、奄美という土地の名を記憶に刻まれた人々は、その関心を元ちとせのデビューまで封印するか、中野のルーツである奄美民謡(シマ唄)への探求の旅路を辿るほかなくなった。
それは地図もなく、月明かりもなく、行き止まりや袋小路に満ちた旅である。そして以下に記されているのは、さしたる考えもなく、流されるままにその旅路に出てしまった者からの経過報告である。
2.ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!
1950年代、レコード・ビジネスはまずアメリカで産業となり、5年ほど遅れてヨーロッパが追随し、やがて世界のあらゆる場所が、レコード・ビジネスの市場となった。
それまでの音楽産業は、きわめて小さな市場を形成し、限られた人々の間で商品として流通されていた。
一例をあげるならば、ビートルズのプロデューサーとして名高いジョージ・マーティンは、その自伝で、ビートルズとの出会いの前に製作したレコードがイギリス国内において二ヶ月で三千枚の売上を記録して、「ヒット・メーカー」と呼ばれた、と語っている。
そんな零細な産業が、なぜ瞬く間に巨大産業となったのか。もちろん、様々な要素が複雑に絡み合った結果だろう。第二次大戦からの復興が一段落したこと、西欧各国の植民地放棄と独立ラッシュが一時的ながらも第三世界の諸国の庶民の経済水準を引き上げたこと、ビートルズというスーパー・グループの出現、好景気による企業宣伝の活発化とそれに応えるかのように次々と設立された放送局、平和反戦運動、挙げればきりがない。とにかく、音楽産業はビッグ・バン的な成長を遂げた。
ひとつの産業が成長すれば、その産業の、それまで省みられなかった部分もそれなりに注目を受けはじめるようになる。レコード会社は、第二のビートルズ、第二のプレスリーを求めるだけではなく、まったく新たな市場を求めて、世界の辺境と呼ばれる地域へと手を伸ばしていくことになる。それはまた、意外な支援者の出現により、予想もしなかった展開を呼ぶことになった。
六十年代半ば、ライブ活動を停止したビートルズはインド音楽に関心を寄せ、ローリング・ストーンズ(ブライアン・ジョーンズ)は休暇先のモロッコの伝統音楽に注目した。黒人音楽に傾倒したロック・ミュージシャンはアメリカ南部の音楽にルーツを求め、あるいはスコットランドやアイルランドの民謡のアレンジを試みた。
これらの動きに追随したのは彼らのファンたちである。インドの伝統音楽のシタール奏者たちは欧米への演奏ツアーを頻繁に行い、また欧米からインドに移り住み、シタール奏者に弟子入りする者もあらわれた。
こうした動きは、折からのヒッピー・ムーヴメントと一体化し、ベトナム反戦運動とともにピークに達し、やがて日常の中に溶け込んでいった。時は移り、西暦は1970年代に入っていた。
欧米における音楽産業は巨大化し、効率化、集約化がはじまっていった。ロック・ミュージカルが製作され、ロック映画が封切られ、人気グループのコンサートは既設のホールでは観客を収容しきれず、スポーツ・スタジアムに特設ステージが組まれた。
無名の新人として華々しく売り出される者は有名作曲家のゴースト・ライターを勤めた経験を持ち、人気グループの舞台の袖でテープ代わりに演奏していたミュージシャンが呼び集められてバンドを組む。ディスコ・ブームについては、もはや言及する値打ちもない。
効率化は、大手資本のオフィスからの辺境へのフライト・チケットをキャンセルさせ、集約化は、代わって座席に着いた小規模資本を流通経路から駆逐した。
つづく
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