土佐のくじらです。
今の当ブログの歴史面でのテーマは室町時代です。
この時代は足利幕府の約250年ですが、この室町幕府の政治については、ほとんど書くべきものはございません。
かつての民主党政権のように、失政の連続、後手後手で場当たり政策の連続です。
室町幕府は直轄地をほとんど持たず、事実上明国との貿易のみが収入でした。
ですから貿易に関する業績が落ち、その後の貿易もやったかやらなかったかわからないようになってからは、はっきり言って、あってもなくても良い、形式だけの存在になっていました。
有力な守護大名がバックアップする形で、号令だけは幕府(足利将軍)が出す・・・。
室町幕府の終盤は、そういった権威的存在でした。
その将軍家の傍に誰が付くか・・・ということで、地方の諸侯が争っていた、勢力の拡大に勤しんでいた時代が、いわゆる戦国時代です。
言わば、今の国会内、与党内で繰り広げられている政局の構図そのものです。
あれを、実際の軍事力を使ってやっていたのが、戦国時代の真相です。
今の首相の取り巻く状況は、当時の足利将軍時代と大体同じ構造だと思えばわかりやすいと思います。
しかし、戦国時代当時おいては、勢力を拡大するのに時代的な制約がありました。
前にも書きかましたが、当時の日本は土地本位制です。
貴族も武士も、実際は農家なのですね。
武士=農家ですから、戦と言っても、農閑期しかできないわけですよ。
彼らの全収入は、農作物なのですから、農繁期に戦をすれば、皆餓死しますのでね。
今の政治においても、個々の政治家の政治活動は、国会中はできませんよね。
また、政治活動をしている運動員の多くはボランティアでしょうが、運動員が自分の仕事をしている時も、当然政治活動は制限されますよね。
今でも、盆暮れ正月などの忙しい時節には選挙などしませんが、この現実の事情面から見れば現代は、戦国時代の様相ととても似ているように、私には思えます。
これと同じ感じで、春から秋に掛けての、農業が忙しい期間は、当時は戦はしなかったし、現実できなかったのです。
それでは、いつまでたっても天下統一など出来ないです。
戦国時代といえども、期間限定の戦しか不可能ですから、領地拡張が関の山です。
この古来の日本人=ALL農民史観が、日本の歴史を読み取る上で、重要なポイントなのですね。
この、日本人=ALL農民史観の時代を終わらせない限り、戦国時代は終わらないのです。
戦国時代には、有名な武将も数多くいます。
上杉謙信や武田信玄など、人格的にも優れた、尊敬すべき方々も多いです。
しかし彼らとて「天下を統一し、平和な国家を築こう。」という発想には、残念ならが至っていなかったのではないかと思います。
そこまでの認識があれば、彼らは別の動き方、生き方をしていたと思えるのですね。
日本人=全員農家という構造から、抜け出せる者など出てくるはずはない・・・。
だから戦国時代は終わらない・・・と、当時の国民は全員そう思っていたはずです。
ひょっとすれば、たとえば各地方で権限を持っていた、大名以下の位の高い武士たちにすれば、
戦国時代は、終わって欲しくない・・・とすら思っていたと思えます。
戦国時代が終わらないのであれば、せめて権益の拡張をしよう・・・。
当時の戦国武将の認識は、その程度だったと推測されるわけです。
ですから、今は小さな自領だけれども、可能な限り拡大を計り、あわよくば力の衰えた足利将軍を援け、天下に号令を発することができれば・・・。
そういう小さな自己実現願望を、当時の戦国大名は考えていたはずですね。
しかしこの時代に、一人の風雲児が誕生いたしました。
尾張(愛知県)の織田信長です。
当時の日本で、織田信長だけが唯一、天下の統一を考えていたのではないか・・・
と、私は考えております。
有名な”天下布武”という信長のスローガンは、武力統一のスローガンのように思われているかと思いますが、
私はこれは、脱戦国・・・だと思えるのです。
次回からは織田信長の天下布武を、脱戦国論の観点から斬り込んで生きたいと思います。
(続く)
土佐のくじらです。
昨日に引き続き、国債の話です。
国債を、国民の借金のように言う政府は、悪質なウソを言っています。
国債は、国民の借金ではなく、政府の借金です。
貸し手である国民にとっては、国債は資産です。
「予算が足りないので、どうか貸して下さい。」と、政府が国民にお願いするのが国債です。
「足りないので、よこせ!」と、命令するのが増税です。
国債を買うのは、銀行や購入資金のある人です。
そして政府は、国債で集めたお金を必ず使います。
ですから発行された国債は、めぐりめぐって必ず国民の所得となります。
国民は、国債という資産が出来ると同時に、所得も得られます。
銀行やお金持ちのところで眠っているお金を、政府が借りて使うことで、仕事も生まれ、所得が国民に分配されています。
これは自然な形での、所得の再分配でもあります。
一方高い税金は、お金持ちをお金持ちでなくし、貧乏人をさらに貧乏にします。
外国に借金する必要のない日本の国債を、我々日本人はそれほど恐れる必要はありません。
増税必須論は、政府が国債を嫌がっているだけです。
また、増税する口実に利用しているだけです。
増税する必要があれば、いつでも景気操作ができるからです。
好景気になれば、国民所得は上がります。
すると固定給である官僚は、相対的貧者になります。
江戸時代には、江戸の三大改革によって、豊かになった庶民の生活レベルを強引に引き下げ、統治者である武士の生活を守りました。
増税必須論の理論は、庶民に贅沢を禁じ、市場を不景気にさせた江戸時代の施策と、何ら変わっておりません。
政府は予算が足りなければ、国債を借り足せば良いし、いざとなれば、お金を刷れば良いのです。
アベノミクスとは、結局そういう政策です。
政府には事実上、紙幣の発行権があります。
アメリカのドルや、中国の元はリーマンショック以来、多量に刷りまくられており、世界では円はまだ足りないのですから、日本政府が円を刷る方が、世界は喜ぶのです。
なぜなら、アメリカも中国も、それだけ自国紙幣を刷り足すことができるからです。
アメリカも中国も、ドルや元が溢れていてジャブジャブなので、もう刷ることができなくて困っているのです。
要するに、政府は国債で、政府は稼げる国つくりをしてくれれば良い のです。
なぜならそれで、将来税収が必ず増え、国民は元が取れるからです。
それは即ち、子孫に稼げる国家を残すことでもあります。
さあ皆さん、国債と増税。
どちらが良いですか?
子孫に、稼げる国を残したいですか?
それとも、重税国家を残したいですか?
土佐のくじらです。
私としてはあまり興味の薄い室町時代ですが、足利将軍家の政治的リーダーシップが弱かったので、それなりに治安の落ち着いたころからは、商業などが盛んになり、また能や茶道などの、日本独自の芸術もたくさん生まれております。
それなりに自由で、豊かさを味わえるところが、もしかしたらあったのやも知れませんね。
国内はと言えば、各地に源氏系の守護大名が置かれ、緩やかな地方分権スタイルでした。
ただ後の徳川幕府のような、他の藩を圧倒する経済力・軍事力も室町幕府にはなかったので、ほぼ分裂国家状態だったとも思います。
ですから応仁の乱以降、戦国時代へと向かいますが、地方による守護大名の治世にバラつきがあり、ひどいところはとてもひどかったのですね。
京都での将軍後継者門だが発端の応仁の乱が、その後の戦国時代が100年にも及ぶまでこじれた要因は、それだけ国内の政治が無力であったし、下克上と呼ばれる、一種の民主主義的な行動を伴ったのも、その時代に置ける、秩序形式に対する不満が根底になければ説明ができないですね。
つまり誰しもが、「昔は良かった。」とか、「あの頃に帰りたい。」と願わなかった・・・ということです。
そしてその発端が、伊豆(現静岡県東部)と相模(現神奈川県西部)で起こった、北条早雲によるお国乗っ取りであったはずです。
当時は、室町幕府が任命した守護大名が各地の国主でしたが、早雲はまず伊豆を占拠した後、相模を奪い、勝手に国主を名乗ります。
もちろんそれぞれに国主はいたので、主殺しであるとか、梟雄(きょうゆう)とも呼ばれ、イメージもどことなく悪いですね。
梟雄とは「残忍で強く荒々しい、悪者などの首領」という意味ですね。
しかし、早雲の生涯を眺めてみれば、殺伐とした血の匂いは余りしません。
早雲はまず、伊豆国の経営に当たって税負担を、五公五民から四公六民に改めます。
つまり、大幅減税を行ったのです。
現代風に言うならば、50%所得税を40%に減税しただけでなく、その他雑税や公役(行政事業への領民のただ働き)も廃止しました。
また、農作不良の年は低利で穀類や資金を貸し出し、風土病対策に投薬を施しました。
さらに、「不義不正を働く地頭(徴税役人)がいれば訴え出よ、その者を追放する。」という分国法まで定めています。
戦国の梟雄と呼ばれる北条早雲の施策は、現代にも通じるほど民主主義的です。
また早雲は、伊豆守や相模守といった、官位を希望しませんでした。
「朝廷公家や幕府政治は崩壊する。」と、早雲は時代の流れ読んでいたはずであり、無意味な官位は邪魔なだけだということでしょう。
官位や権威を欲しなかった、早雲にとっての富国強兵策は、減税という「民を豊かにすること」から始まったのです。
北条氏はその後、関東のほぼ全域を版図に、豊臣秀吉による戦国時代の終焉まで、関東の雄として存続します。
税金の高い国は滅び、豊かな国民の暮らす国は栄える・・・。これは歴史の必然であり、法則なのです。
北条早雲、戦国乱世の一大転換期に、先ず民生を安定させることで覇権の道を拓いた「最初の戦国大名」でした。
戦国乱世では、武力と器量と、人心を掌握できる者のみに、覇権の道が拓かれます。
しかしその発端は、税金でした。
かつての鎌倉幕府も室町幕府も、発端の動機は税金だったはずです。
フランス革命も、アメリカの独立運動も同様です。
税金問題は時に、社会に革命をもたらすのです。
国民不在の消費増税論議の止まない、今の日本の姿は、私には革命前夜に見えて仕方がないのです。
(続く)
(↑ ウソ・・・という名前の鳥です。ホントです。笑)
土佐のくじらです。
政府は投資減税の話を持ち出してきました。
これは、消費増税という外角低めの緩い球で、国民に内野ゴロを打たせるための見せ球です。
お気をつけあそばせ。
しかし日本国民であるならば、日本政府が抱える、1000兆円にものぼる国債の存在は、やはり気になるところですよね。
日本人は、借金が嫌いですからね。
「このままでは、子孫に迷惑がかかるのではないか。」
という、漠然とした不安がお有りだろうと思います。
日本人は、いい人が多いですからね。
実際に消費増税には、「これを未来の日本人の負担にしない。」という目的もあるそうです。
しかし政府は、明らかなウソを言っています。
国債は、国民の借金ではありません。
政府の借金です。
そして、
国民にとっては資産です。
なぜなら、国民が政府にお金を貸しているのが、国債だからです。
国債も諸外国のように、外国にお金を借りているなら問題です。
ギリシャやイタリア、そしてスペインやアルゼンチンなどが、国債によって破綻しましたが、これらはドルやユーロなど自国通貨でなかったから問題なのですね。
これらは通常の、たとえば銀行からの借金と同じです。
利息が払えなくなったら、破産しますね。
しかし日本国債のほとんどは、日本国内ではけますので、全く問題ありません。
家庭内での、お小遣いの前借りのようなものです。
イザとなれば、円を刷れば良いので、ノープロブレムです。
では国民の誰が、国債を買っているかご存知でしょうか?
どこかに暮らすお金持ちでしょうか?
いえいえ違います。
正解は・・・この記事を読んでいる皆様です。
日本国債のほとんどは、国内の銀行や、生命保険会社が買っています。
彼ら金融機関は、自己資産では運用しません。
全て預貯金など、市中一般からお金を借りて運用しています。
つまり彼らは、皆様の預貯金を、国債購入で運用しているのです。
そして国債からの利息よって、今度は皆様に、預貯金の利息を払っているのですね。
ですから 日本の国債は、間接的に皆様が購入しているのです。
ですから、日本の
1000兆円国債は、皆様方の資産
なのです。
よく聞く、「国民一人当たり、○百万円の借金。」というフレーズは、
国民が負債を負っている印象を与えています。
逆です。
国民が・・・政府にお金を貸しているので、「国民の資産」です。
国民一人あたり、○百万円、政府に貸しているのです。
巨額の国債は、子孫の負担になりません。
むしろ子孫に、資産を残すことです。
一方増税は、子孫に重い負担を残すことになります。
国債返却のための増税など、決してさせてはなりません。
さて、皆様に質問です。
あなたは将来の子孫に、多額の国債(資産)と重税国家、どちらを残したいですか?
土佐のくじらです。
今回の記事は歴史物です。
通常の流れですと、室町時代のはずですが、消費増税への機運やその他時事の事情により、一気に江戸時代後半に飛びます。(笑)
今回の主人公は、11代将軍家斉(いえなり)です。
15人いる徳川将軍の中で家斉という方は、あまり有名ではありませんね。
初代家康、3代家光、5代綱吉、8代吉宗、そして15代慶喜(よしのぶ)将軍あたりが有名人です。
11代将軍家斉の逸話は、とにかく子沢山だったことです。
家斉はなんと・・・40人の側室と55人の子供をもうけています。
側室数、生まれた子供の数で、歴代徳川将軍の中でダントツの1位です。
別名、オットセイ将軍とも呼ばれます。(笑)
オットセイは、オス一頭に圧倒的多頭のメスで、ハーレムを築きますからね。
まぁ一言で言えば、とてもお盛んな将軍様だったのです。(爆笑)
家斉が将軍に付いたのは15歳の時で、在位期間は50年。
これも徳川将軍の中で、最高在位年数です。
これだけお盛んでしたので、家斉時代の大奥は肥大化し、多大な維持費用が必要となりました。
この時の老中は、あの有名な寛政の改革の松平定信です。
家斉が将軍職に就いた時に、前任者である田沼意次を罷免し松平定信を起用しますが、堅物で質素倹約の松平定信とは意見が対立し始め、結局松平定信も罷免します。
そして、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と揶揄された、寛政の改革は終わります。
その後肥大化した大奥の維持や、多くの子供たちの養育や婿入り嫁入り費用の捻出を、家斉はどうやって賄ったのでしょうか?
それは、小判などの幕府発行の通貨の質を、敢えて落としたのです。
小判の金の含有量を、それまでの約半分にまで落としました。
それまでの小判を、新たな質の悪い小判に換えていくことで、幕府は600~800万両という多額の利益を得、幕府の財政は潤うと共に、大好きな大奥の費用も賄えました。(笑)
今安倍内閣で行われている経済政策、通称アベノミクスは、江戸時代にもあったのです。
アベノミクスとは、金融緩和政策ですが、手続きを省いて簡単に言うと、政府発行の国債を日銀が買い取る仕組みです。
ですから、インフレターゲット目標以内であれば、要するに政府はお金を刷れるのです。
インフレターゲット目標2%・・・とか言われますが、市場通過量を増やして、インフレに持っていこうとするものですし、インフレ率を2%の上限にするもので、ハイパーインフレにならないようにするものです。
まぁ、現代の日本で、ハイパーインフレにすることは、事実上不可能なことではありますが。
家斉の政策によって、寛政の改革で火が消えたようになっていた江戸市中は、一気に活気づきました。
歌舞伎や見世物小屋、浮世絵や陶磁器、江戸前寿司など代表的な江戸文化は、家斉時代に花開いたものです。
もちろん、生活物資の値上がり(インフレーション)はありました。
しかし、家斉流金融緩和政策は、在位中ずっと続けられたにも関わらず、結局物の値段は上げ止まりました。
物不足でなければ、ハイパーインフレにはなりませんから、既に物資の供給の良かった江戸時代には、物の値段はそこそこで収まるのです。
現代の日本がハイパー-インフレにはならないのも、物つくりや基本生活インフラが強く、物流の良い日本市場では、物不足になれないからです。
家斉の死後、水野忠邦による、天保の改革が始まります。
贅沢は禁止され、家斉時代に作られた荘厳な寺院なども、「贅沢の象徴」ということで破壊されたりもしています。
民主党時代に、完成間近の八ッ場(やんば)ダムの建設工事を中止したり、公共インフラのもったいない事件がありましたが、今も昔も変わらず、愚かな政治は同様なのですね。
天保の改革は、改革とは名ばかりの、官製のバブル潰しですが、家斉の50年に及ぶ長期の治世は、それまでの日本人を根本から変えていました。
まず、幕府が発行した低質の小判によって、市場通過量はそれまでの2倍になっていました。
これによって日本では、商業が一気に盛んになり、読み書きそろばんのニーズが生まれました。
全国各地に寺子屋ができ、幕末期には識字率世界一の国になりますが、その基盤は家斉の治世50年によるものです。
その後の日本の近代化は、家斉将軍なしでは不可能でした。
幕末期に日本に訪れた外国人が、当時の一般的な日本人を見て驚いたエピソードが二つあります。
それは、普通の婦女子が、暇さえあれば本を読んでいること、そして、一般市民が、とにかくよく笑うことです。
当時の世界では、一般的に女性は字が読めず読書をしないものでしたし、上流階級以外の一般的な市民は生活に終われ、希望のない表情をしていることが、街で見かける風情だったのです。
これは、ヨーロッパの列強諸国であってもそうだったのです。
侵略者であった列強諸国民をして、「このような国は、侵略するに忍びない。」と思わせた・・・と考えるのは、歴史愛好家の中で、私だけでしょうか?
日本の歴史では、あまり有名ではない家斉ですが、家斉が導いた日本の繁栄は、幕末の日本人を、「幸福の国の国民」として世界に認めさせ、当時の日本国民の幸福な姿と神々しさが、列強の侵略の意思をためらわせたと私は思うのです。
日本は今後も、繁栄し続けなければなりません。
現代の三大改革である増税は、断固阻止するべきです。
現代日本人は、家斉の治世に学ぶべきです。