ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

幕末の独眼流。1

2010-06-11 23:06:21 | 高知県東部人物列伝
 日本史レベルでは、通常独眼流といえば、仙台の伊達政宗ですが、幕末の土佐、それも東部地域には独眼流と称された人物がいたのです。

 名前を清岡道之助。野根山屯集事件の首謀者として、投獄された武市半平太の救出を目指すのですが、最後は奈半利川原で処刑されてしまうのです。
 この東部人物列伝では、奥方の静さんを先に紹介してしまいました。
 遅まきながらの紹介です。



 風貌からしても、大胆不敵。少々のことでは動じないサムライなのです。

 高知県安芸郡田野町土生の岡の郷士清岡又三郎春勝の長男として、天保4年(1833)に生まれます。
 幼少の頃より武術は一刀流の名人濱口源次郎の道場に通い、学問は医師宮地太仲の家に通うのです。濱口源次郎は、後年道之助が結婚することになる、静(そのときは金)の父親なのですし、宮地太仲は田野浦の医師です。単に医師とはいっても、藩主にも召し出されるほどの医師ですし、かの頼山陽とも交流があり、頼山陽が宮地家を訪問したとの記録まであるほどなのです。こうした方々の指導を受けることから、彼の学問が始まるのです。
 さらに、安田の高松順蔵の処に通うことで、学問の幅が一挙に広がり、岡本寧甫とも繋がることで、さらに向学心に燃えて江戸に行くのです。佐藤一斎の基の書生寮に入るのです。 日本でも最高レベルの勉学の場所に飛び込んだことになります。
 たぶん、江戸での経験が彼の後半生を決めてしまいます。日本と外国。天皇家と徳川幕府。土佐と日本。考える時間が与えられて、当時最高レベルの指導を受けるのです。日本という国の本来あるべき姿についてです。
 
 表題にも独眼流と記しましたが、道之助は左目が不自由であったそうで、武力より学問で身を立てようとしたのです。それだけに学問の習得には鬼気迫るものがあったのです。
 目が悪いことについては、幼少の頃病にてとか、剣術の稽古で切っ先が目に・・とか、諸説があるのですが定かではありません。

 ”独眼流”と畏敬の念を持って語られるほど、周囲の評価が定まるのです。
 そうした時期がすぐに訪れます。
 土佐の東部地域における彼の役割は独特でした。

 幕末の土佐では、尊皇攘夷運動が活発化して、土佐勤皇党が組織されて、明治維新への道が開かれるのです。
 

 

市場を作りたいなあ。

2010-06-11 11:43:33 | 田舎の理屈
 山へ行こうと思っているのですが、山の生活を安定させたり、充実させるために町中に市場を作りたいと思っているのです。

山の生活が、基本的には自給自足を原点にすることは、当然なのですがやはり完全に円経済から脱却出来そうでもないものですから、"売る”場所。現金調達の場所を確保しようと思うのです。

 市場は小売業なのですが、仕入れがあると小売業。自作農業者が売ると農業の延長なのです。

 結構面白いのです。

 なんとか月に20万円ほど売上げを上げる必要があります。商品アイテムを広げておりますが、いまは年間作業のスケジュ-ルを見直している程度です。

 仲間も5~~6人ぐらいにはなりそうですから、なんとかしましょう。

 あちこちにある市場にもぐりこんでもいいかもしれません。
 ま、今年の秋からです。