ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

駆け抜けた人

2010-06-19 21:34:52 | 高知県東部人物列伝
 まだこの方について書くのは、材料不足で早いような気もするのですが、思い切って始めることにします。

 明治19年の春、安芸の川北で生まれるのです。土佐の高知では自由民権運動が大きなうねりとなって山谷を席巻していた頃、そしてまだサムライの時代の気配が色濃く残っていた頃です。

 生来、体は、あまり強くはなかったかもしれません。
 名前を川谷賢三郎。後の書家、川谷尚亭です。

 この方を紹介したいなと思ったのは、書家としての評価より、その経歴なのです。
 何があったのか、明治39年(1,906)20歳で安芸第三中学校を卒業します。そして地元川北村役場に就職するのですが、新たに中国上海の東亜同文書院に留学するのです。しかしながら病を得て療養を余儀なくされて帰郷。今度は川北小学校で教鞭をとるのです。この頃でしょうか、書道への道が開かれます。近藤雪竹に師事すると共に、毎日5合の墨を使っての研鑽を繰り返すのです。

 日々小学校で子供達と過ごし、それから筆を持つのです。次第に頭角を現し始めます。

 大正5年(1916)には高坂高等女子学校の教諭になり、さらに同7年には上京して三菱造船会社に入社します。郷里の先輩、岩崎弥太郎の興した会社です。

 多分この当時では、自分の書家としてのありようについては、実感していたはずです。
 在京中は当然のごとく、書道界の重鎮達の薫陶を受けるのです。
 
 幕末の志士達が江戸に向かい、佐藤一斎の基に行っっていたようなものでしょう。
 昌平坂学問所に入れなくとも、彼の私塾に全国から希望者が参集していたのです。

 学校で生徒と向き合いながら、書家としての自らの修行を平行させていたのですから、教育分野の研究と自らの筆致の自立、書の完成を目指すことになります。

 最近、書を見ると「美しいな」と思います。
 以前は「うまいなあ」とか「何か変」さらに「読めんなあ」だったのです。

 白と黒。そして朱の落款。バランスがいいよなあ。そんな気がする。
 絵画を見ているようですらあります。

 自らの芸術について追い求める方と、後進の指導をも意識する方がいます。

 川谷尚亭。両方を追い求めて、やってしまった巨人です。
 波乱万丈です。彼の人生は。
 しかし達成感はあったろうと思います。しかし享年47歳です。凝縮された人生といっていいのかな。

 次回もう少し。
 
 







朝寝坊

2010-06-18 10:42:37 | 日記
 本当に久方ぶりの、朝寝坊となってしまいました。

 ここ3日ほど、何かと忙しかったですからね。
 ちょっとだるいし、まだ疲れている感じです。

 しかし今日やらなければならないことが、結構ありますからね、頑張らないと。

 参加している会の総会も終わったし、仕事関係の研修会もやっつけました。ボランティアの作業も一段落となりましたから、まあまあです。

 さて今日は、仕事です。

資料雑感。1

2010-06-16 11:08:48 | 昔話
 県史やら、町史等をぺらぺらとめくっておりますと、時々??と思うときがあります。
 結構楽しい時間なのです。
 歴史好きには推理することが出来るのですから、楽しい時間なのです。
 下記の資料は、明治当初の人口調査の報告です。


明治3年(1870) 高知藩戸口調査
     男    女     計
1等~3等士族 3,931  4,292   8,223

4等~5等士族 11,207  11,076   22,283

卒   族     10,901 8,007   18,908

農人・浦人 184,669 161,033   345,702

諸 工人匠    13,697 10,457     24,154

諸  商  売   39,812 35,104     74,916

    計    264,217 229,969   494,186

 1~3等士族とは、イワユル上士でしょう。
 4~5等士族とは郷士です。
 卒族というのは、地下浪人やら、小者といったところでしょうか。
 農・漁・林の第一次産業の労働者が最も多いのです。
 工人は大工やらの職人集団でしょうか。
 明治になると商売にかかわる人達が多くなっているように思います。
 7万4千人は少し多いかな。
 江戸時代の中期には、山で仕事をしていた方々が、全労働人口の40%を占めていたことがあったのですから、商売人の数が急増したことになります。

上級の士族だけ女性の数が多くなっているのです。
また、この数字には、神官等一部の特殊業種の人数は入っていないのです。

高知藩の人口は当時49万4千人ほどだったようですね。現在が80万人弱ですからね。それぐらいだったのでしょう。

 上士格の1等から3等士族だけが、女性が多いですね。概ね男女平均して生まれてくると思うのですが、調査した結果そのようになっていたのです。

 1等から3等士族の男が少ない理由、それは戊辰戦争等、幕末から明治新政府の誕生に繋がる争いの中で、多くの人材が失われた結果だろうと考えております。

 ただ、貧困層になればなるほど、男が多く、女が少なくなっているのです。

 これは何でしょうか。伝説なのですが、老人を、働くことが出来なくなったものを間引くことはあったようです。でも、それでは男も女も同様に年をとり、概ね女性のほうが長生きをするのですから、合計数も女性が多くて当たり前かと思うのです。また農人浦人のグループでは男女間に2万3千人以上もの人数差があるのです。高知藩から逃げ出したにしても、男だけがそうしたという記録はないのです。

 貧しい時代には、より貧困層において労働量が期待できない女の子を乳児の時代に「マビク」行為があったそうなのです。一生涯結婚も出来ず、ということは家庭も持てず一介の労働者としてだけ生きながらえた男子が多かったことになります。

 土佐藩は貧しかったのです。一部の権力者を除いてはね。
 ??土佐藩だけでもないか??。日本全体が貧しかったのです。
 自分の子供を殺さないと自らが生きていけない世界だと考えれば、維新が起こって当然なのです。
 しかし、明治の時代になっても、士族は特権を標榜するのですから、概ね平等な今がいいですね。上士はぼんくらでも士族ですからね。かつては職業選択の自由すらなかったのです。

 結婚しない女性が多くなった昨今、いいのやら悪いのやら。
 生きていけるだけでも、よしとしなければなるまいなあ。

 各行政の長の方々は何を考えているんだろう。わからん。
 公務員の子弟は公務員になりやすいとか、教員の子弟も同様だとか・・・。
 そんなことはないよなあ。
 
 


生活万能選手  炭

2010-06-15 11:45:58 | 田舎の理屈
 かつての高知県東部地域の山間部は、豊かな場所だったのです。材木はもちろんですが薪も良く売れていたのですし、樟脳など、山でとれる産物が全国に広がって、賑わっていたのです。

 その中でも炭は一種独特で、黒炭を焼いていた頃から比べると、備長炭を焼き始めると原材料のウバメガシが豊富にあったことから、一大産地となり、今でも多くの生産者がいます。

 炭は生活の中からいつの間にか、なくなっていきましたが、少しずつ復権してきております。

 今日も一つ利用の仕方をご紹介します。

 かつて福島県で商品となった炭を見たときには、「いい感じ」NO1は風鈴でした。

 白炭は硬く、炭同士をぶつけると、キンキンと音がします。竹の炭を使った竹炭の風鈴が印象深かったですねえ。

 欠点は硬いのですが、脆いのです。時々かけてしまいました。
 もちろん、欠けた炭は、火に入れると発熱しますし、水に入れると浄化性能は発揮してくれます。
 あまり当時売れなかったのも、単価が高すぎたのかなあ、と思っています。

 まず、炭を焼く技術の確立です。

 まつぼっくりや、野菜も炭にすると面白いのです。
 これは、見ても楽しめる炭です。
 もちろん火に入れると、黒い炭が、赤くなり、白い灰になりますよ。

 音を楽しんで、見ても楽しめるものなのです。

幕末の独眼流。2

2010-06-12 04:15:59 | 高知県東部人物列伝
 独眼流と称された清岡道之助は、坂本龍馬や中岡慎太郎と比べて全国的な知名度はありません。が。
 歴史に”もし”はないのですが、もしと考えることがあるのです。もし野根山を越えて脱藩に成功していたら、その後の彼らの活動はいかなることに・・・。

 期待してみたくなるような23人の志士達なのです。その首領は、清岡道之助。

 彼は、左目が不自由なだけに武術の修行より、学問の修行を優先するのですが、佐藤一斎の塾を3年程で出るのです。彼の勉学振りは評判となるほどでしたが、父親が病没するなどして、帰郷することになります。

 「濱口の旦那は物好きだ、美人の金さんを、片目の男にやるとは・・。」道之助が美人の誉れ高い、濱口源次郎の娘と結婚したときの話です。ただ源次郎は「日本一のむこ殿。」といって喜んだという。道之助のことを考えるとき、いいエピソードです。
 
 中央の情勢は刻々と変化してゆくこともあり、何度か関西へと往復するのですが、文久2年(1862)12月京都で武市瑞山と、清岡治之助のとりなしで面談します。彼の後半生が決まってしまうのです。
 学問で身を立てる筈の道之助が、武市の持論。「藩論統一による尊皇攘夷」に傾倒してゆきます。
 土佐という閉鎖社会においては、藩主の意見は絶大で、武市以下の志士達が投獄されたことで、環境変化が起こるのですが、ここから又、道之助の真面目さ、正直者振りが発揮されるのです。
 彼らは、単に武市を、仲間を救いたかったのです。土佐全域からの仲間を集めて藩に意見具申をすれば、なんとかなると本当に思っていたのです。しかしそうはなりませんでした。
 藩からすると、武器を携えて野根山に屯集したのですから、反逆者の烙印を押してしまいます。結果として、彼らは状況判断が出来なかったことになります。
 ただ、たった23人の行動に藩は恐れおののいたのです。

 彼らは武器を持ちながら戦わず、言論によって対抗しようとしたのです。
 結果。死罪。多分インテリでありすぎたのです。

 のち、戊辰戦争で土佐藩は大きな成果を上げます。掛川から土佐へ、山内候は徳川幕府に恩顧を感じていたのでしょうが、新しい時代の到来に、竿をさし続けることはなかったのです。
 野根山屯集事件においては、23人の志士たちは誰も救えなかったのです。
 彼らの組織は、彼らの評価より藩のそれの方が高かったといえます。
 そして土佐藩においては、ありえないことが起こったと、過剰反応を起こしたのです。
 
 どこかの大学教授が、中岡慎太郎を評して、「戦闘的民族主義者」といいました。
 しかしながら、23人の挑戦者は、けっして戦闘的ではありませんでした。
 彼らは行動的民族主義者、提案者だったのです。
 彼らの行動をきっかけにして土佐は変わってゆきます。公武合体から倒幕に向かいます。
 そして自由民権運動に発展してゆくのです。
 
 もし、もしですが、清岡道之助が明治の時代に自由民権運動に参加していたとしたら、
・・。そんなことを考えております。
 彼は、武力より学にて身を立てたかったのですから。
 
 

 

 

 

幕末の独眼流。1

2010-06-11 23:06:21 | 高知県東部人物列伝
 日本史レベルでは、通常独眼流といえば、仙台の伊達政宗ですが、幕末の土佐、それも東部地域には独眼流と称された人物がいたのです。

 名前を清岡道之助。野根山屯集事件の首謀者として、投獄された武市半平太の救出を目指すのですが、最後は奈半利川原で処刑されてしまうのです。
 この東部人物列伝では、奥方の静さんを先に紹介してしまいました。
 遅まきながらの紹介です。



 風貌からしても、大胆不敵。少々のことでは動じないサムライなのです。

 高知県安芸郡田野町土生の岡の郷士清岡又三郎春勝の長男として、天保4年(1833)に生まれます。
 幼少の頃より武術は一刀流の名人濱口源次郎の道場に通い、学問は医師宮地太仲の家に通うのです。濱口源次郎は、後年道之助が結婚することになる、静(そのときは金)の父親なのですし、宮地太仲は田野浦の医師です。単に医師とはいっても、藩主にも召し出されるほどの医師ですし、かの頼山陽とも交流があり、頼山陽が宮地家を訪問したとの記録まであるほどなのです。こうした方々の指導を受けることから、彼の学問が始まるのです。
 さらに、安田の高松順蔵の処に通うことで、学問の幅が一挙に広がり、岡本寧甫とも繋がることで、さらに向学心に燃えて江戸に行くのです。佐藤一斎の基の書生寮に入るのです。 日本でも最高レベルの勉学の場所に飛び込んだことになります。
 たぶん、江戸での経験が彼の後半生を決めてしまいます。日本と外国。天皇家と徳川幕府。土佐と日本。考える時間が与えられて、当時最高レベルの指導を受けるのです。日本という国の本来あるべき姿についてです。
 
 表題にも独眼流と記しましたが、道之助は左目が不自由であったそうで、武力より学問で身を立てようとしたのです。それだけに学問の習得には鬼気迫るものがあったのです。
 目が悪いことについては、幼少の頃病にてとか、剣術の稽古で切っ先が目に・・とか、諸説があるのですが定かではありません。

 ”独眼流”と畏敬の念を持って語られるほど、周囲の評価が定まるのです。
 そうした時期がすぐに訪れます。
 土佐の東部地域における彼の役割は独特でした。

 幕末の土佐では、尊皇攘夷運動が活発化して、土佐勤皇党が組織されて、明治維新への道が開かれるのです。
 

 

市場を作りたいなあ。

2010-06-11 11:43:33 | 田舎の理屈
 山へ行こうと思っているのですが、山の生活を安定させたり、充実させるために町中に市場を作りたいと思っているのです。

山の生活が、基本的には自給自足を原点にすることは、当然なのですがやはり完全に円経済から脱却出来そうでもないものですから、"売る”場所。現金調達の場所を確保しようと思うのです。

 市場は小売業なのですが、仕入れがあると小売業。自作農業者が売ると農業の延長なのです。

 結構面白いのです。

 なんとか月に20万円ほど売上げを上げる必要があります。商品アイテムを広げておりますが、いまは年間作業のスケジュ-ルを見直している程度です。

 仲間も5~~6人ぐらいにはなりそうですから、なんとかしましょう。

 あちこちにある市場にもぐりこんでもいいかもしれません。
 ま、今年の秋からです。

”薪風呂ライフ”最高

2010-06-10 17:53:49 | 新聞雑感
 高知新聞の朝刊22面にこの記事がありました。

 薪の風呂を贅沢にも楽しんでいる方が紹介されていました。

 いいなあ。確かに薪を割ったり、薪そのものを調達したりすることが出来ない場所では仕方がないとしても、できるところではやったらいいです。

 うらやましい限りですねえ。
 それに冬の電気代が安くなる生活ですから、薪の需要増にも対応しているようです。

 これからこんな生活にあこがれますねえ。
 
 もう20年ほど前に高知県安芸郡奈半利町米ヶ岡に薪風呂をわざわざ作りたいと募金にこられた先輩がいたことを、思い出しました。
 「いいですよ。」出せるだけのお金を出して4~5回風呂に入りに行ったことを覚えています。

 絶景で、木造の風呂桶にハーブが入れてありました。風呂から出てきてからのビールのうまかったことといったら、今考えても「よきかな、よきかな。」といったところでした。

 高知県の山間部だと、ほとんどの場所で出来そうですから、これからこうした贅沢をする方はもっと増えるのではないでしょうか。

若返り

2010-06-10 11:03:11 | ちょっといい話。
 久しぶりの、ちょっといい話です。

 私の所属している「なはり浦の会」に、私より20歳以上若いスタッフが誕生しそうです。子供の世代ですからねえ。
 うれしいのです。ホンの何年か前までは、私が最も若い会員だったのですから、ついほほがゆるんでしまいます。

 若いってうらやましいですねえ。ただ見ているだけで、いい感じなのです。
 彼女達の活動が、実際に機能し始めると、今までよりもまた一味違った活動が出来るようになることでしょう。

 先日北川村で仲間達と話していたのですが、圧倒的に私が最も若いのです。会社だったら定年退職者ばかりなのですが、妙に元気なのです。山の仲間は元気です。体力があるよなあ。
 50~60は鼻垂れ小僧なのです。まあ70になると、いっちょまえといったところでしょうか。
 みんな、確かな技術と経験を持っていますからねえ。

 彼らの魅力は年を考えていないところかな。

 これも、いい感じです。
 組織は維持するために、色々と工夫をしますが、やっぱり組織は何かをなすためのグループですから、目的が明確であれば人は動きます。
 
 これからさらに「田舎暮らし」を満喫できそうです。
 醍醐味も繊細さも、そして感動も味わえそうです。

 そうした意味では、高知県の中山間地域は、感動の宝庫です。
 それを感じるか、そうでないのかについては、アンテナ次第ですから、当てにはなりませんがね。
 メダカの稚魚を見たことがありますか。花びらに触れたことがありますか。水の流れに手を浸して水圧を感じたことがありますか。
 そして、何かをしたことがありますか。

 夢の共有が出来る仲間が居るということは、うれしいことです。

 今日は、先ずは喜んでいます。若いスタッフが誕生しそうな状況が生まれたことに満足です。

炭を焼く。

2010-06-08 21:20:36 | 田舎の理屈
 田舎生活を楽しむ基本的条件として、炭を焼く作業があるように思います。

 今年の夏は、キャンプに出かけるのですが、炭を焼くことにしました。
 それも竹の炭です。

 問題は竹の炭を焼いた経験がないことです。「ドラム缶で出来る。」と書いてある本がありますので、熟読して一気にやってみたいと思っております。

 炭は多方面に利用可能ですから、便利な素材ですし、販売アイテムとしても貴重です。

 田舎暮らしの必須アイテムとして、炭の生産技術を獲得するために、頑張ってみようと思います。

 我が家のメダカの水槽の中には、もう竹炭が入っています。メダカも気分よく泳いでおいますよ。竹炭に水草が張ってあるのです。これも商品アイテムの一つです。

 山の竹林は、人が入ることなくうっそうとして、乱れています。
 まあ、なんとかなるでしょう。