最後の海軍大将井上成美。
当時、最も入学の難しかった海軍兵学校を首席で出て、
海軍士官に。
順調に出世し、
米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官のもと、
海軍軍務局長として、腕を振るい、
三人で、日本を破滅に導く大きな原因になった日独伊三国同盟を拒否しようと運動したが、
阻止できなかった。
戦争末期、海軍次官となり、最後の退任の時に海軍大将となった。
もう戦争末期で、わかる人には、日本が負けることは、常識となっていた。
そうした中、井上は、江田島の海軍兵学校の校長を務めていた。
艦隊の長官クラスのポジションである。
これが天職、と考えていたようである。
米内光政に乞われてしぶしぶ海軍次官となり、
終戦に向けて八面六臂の活躍をした。
海軍兵学校の教育は、戦争中なのに、極端にリベラルであった。
戦後、ある伝記作家が尋ねたとき、
「日本は負けると思っていました。私の生徒たちには、日本が負けた後に活躍してもらえるよう闊達に育てました。」
と述懐している。
そして、戦後、彼の期待通り、
海軍兵学校の卒業生は、大活躍した。
井上は、「敗戦の責任をとる」
として、三浦半島の長井に隠遁し、
土地の子どもたちのために英語塾をひらいた。
月謝は驚くほど安く、
貧しい子どもたちも通ってきた。
「元海軍大将が教えるのだからもっと授業料を高くしては?」
といわれても頑として聞かず、月謝は上げなかった。
戦後しばらくして、
旧軍人に恩給がでたことがあるが、
ストップした時期がある。
井上は、家具やピアノなどの金になるものを手放して、
貧しい生活を続ける。
その後恩給が出るようになったのに、ほっとしただろう。
戦争にかかわった多くの軍人が、
そのコネを使って関連会社の顧問などして金を稼いだが、
井上は、そんなことは承知しない。
琴、ピアノ、アコーディオン、ギターがひける。
生徒たちとは、ギターを使いながら、
楽しい音楽を歌ったようである。
清廉潔白を絵にかいたような人で、
数々の逸話が残っている。
それでいて、求めて戦争史を知る人には、
詳しく話した。
最期は、地元の寺で、
葬式が行われた。
参列者は200人を超えたそうである。