いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

海軍主計大尉小泉信吉②~その手紙~

2019-06-25 21:04:55 | 文学


昭和16年、17年といえば、
太平洋戦争の最中であるが、
海軍の士官には、艦内で私室を与えられることもあり、
読書や遊びに興ずるということも、なかったわけではない。
また、ちょっちゅう港には寄港するから、
戦艦所属の軍人が家庭にかえることもまれではなかった。
また、私信もゆるされたことがある。

小泉信吉の、家族あての私信の例を挙げてみる。

……

8月も終わり、9月1日となった今朝は、風が恐ろしく強く、雨が叩くような音をたてて船体を打っていました。こちらでは総員起こしが3時、朝食が5時、昼は10時、夜は3時で、ただ今の時間は午前6時半少し過ぎです。天気は治り、薄日がさしていますが、光線に力がないので、陸上の樹木の緑色は艶がなく、海面も鮮明な色を欠いて、一寸趣の変わった景色です。
さてまだまだ、内地向きの便がないので、この手紙出せそうもありません。しかし一応ここで区切りをつけ、余は「通信第4」に譲ることにしました。只今は9月5日の夜であります。ではみなさん、何とぞ御身くれぐれもご自愛ください。小生は相変わらず元気、程よき食欲あり。
                              信吉

父上様
母上様
加代子様
妙子様









海軍主計大尉小泉信吉~若き士官の死~

2019-06-25 20:28:52 | 文学


小泉信吉(こいずみしんきち)。
元慶應義塾塾長の小泉信三の長男。
祖父は、やはり慶応義塾塾長の小泉信吉(こいずみのぶよし)。
祖父については、Wikipediaを調べれば、大要はわかるが、信吉(こいずみしんきち)
は、若くして亡くなったので、詳しい記述はない。
以下、「しんきち」に関して書く。

彼については、父の小泉信三の「海軍主計大尉小泉信吉」を読めば、
人生の大要はつかめる。

信吉は、大正7年1月17日に生まれた。
慶応幼稚舎から慶応大学を卒業し、
三菱銀行に4か月、海軍に1年2か月にわたり奉職。
昭和17年10月22日、海軍主計大尉として南方で戦死した。
ときに25歳。
未熟児として生まれ、幼いときは、病弱であった。
後、慶応義塾大学在学中は、学問に興味を持ち、
一時は研究者になろうとの志望もあった。
しかし、海軍少年であった信吉は、卒業後、
海軍に奉職することになる。
始めは「那智」の主計中尉として乗船し、
後、「八海山丸」の主計長となった。

人柄はよく、
父信三の著書「海軍主計大尉小泉信吉」からわかるように、
多くの人に愛された。
我が子を25歳で失った信三の哀しみを癒すため、
信三の知人が、この思い出の書を書くことを勧めたのであった。

父信三は、
親子のことを、次のようにまとめている。

……

親の身として思えば、信吉の25年の一生は、やはり生きた甲斐のある一生であった。信吉の父母同胞を父母同胞とし、その他すべての境遇を境遇と死、そうしてその命数は25年に限られたものとして、信吉に、今一度この一生を繰り返すことを願うかと問うたなら、彼は然りと答えるであろう。父母たる我々も同様である。親として我が子の長命を祈らぬ者はない。しかし、我々両人は、25年の間に人の親としての幸福は享けたと謂いうる。信吉の容貌、信吉の性質、すべての彼の長所短所はそのままとして、そうして25までしか生きないものとして、さてこの人間を汝は再び子としてもつを願うかと問われたら、我々夫婦は言下に願うと言うであろう。
(以下略)

……