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「さみしい」を適量に見る

2025-01-30 12:23:00 | 日記
「さみしい」を埋めたいがために、人は時々「釣り合わない」ほどの「当てがい」をしでかしてもしまう。
「虚しさ」とか「やり切れなさ」は本体を多分駆逐できない、その人なりの事情と経緯が、その気持ちを高ぶらせてしまう。

ざっくり言えば「気のせい」のものだが、そうで済まさず、抱いてる感情を曖昧に正視しないで済ますための「代替」案が無惨で無様ほど、人生の後年に大きく禍根を残すほど大失敗を導く。

アニメのエヴァンゲリオンが世紀末に熱烈なヒットを得た時も「人類補完計画」という、心象面の「満たされなさ」をモチーフに引用してきたことで(“人類補完計画“は以前よりあったSFのモチーフでもある)アニメファン以外の音楽家や芸術家、文筆家の人らにまで熱烈な歓待を受けた。

「ATフィールド」にしたって、バリアみたいに描いてるけど、「人との間の溝」のギミックであり、平時から人は他人にそれを見舞ってる実装が、また身近なナニカになっていた。「人を遠ざける」という生き物ならではのありようは、保身せねば崩壊しかねない、という強い危機感も示す。

遠巻きに「さみしさ」は埋め合わせられないが、代替案で「済ませ」られる人もいる。
所詮、という話にも見えるし、気持ちがわかるだけに、無碍に叱責一辺倒が躊躇われる、大人の采配もあったりします。

代わりで済むものだったんだ・・・も、それなりにショックには違いないし、済むことを見下げさせるほど、自身は高貴で聡明でいらっしゃるのですか?にしゃくれた逆襲を受けることもあるかもしれません。

「だって実際に『さみしい』って気持ちが、今自分をこんなに苦しめてるじゃん!ないことになんかしない」も正確です。「気のせいです」はひどすぎる返事です。せめて黙ってるモラルもないのか、と。

ゆえに、「さみしさ」の取り扱いと、自分の中のでの比重の大きさは、人それぞれに委ねられる。
どこにも正確さも正常もなく、誰の・どの結論だって「そうであればいい」になる。

それでもむざむざ、私はこれを書くのは「割に合わないほどの埋め合わせに人生を費やさない方がいい」と、生きてみてるうちに強く感じたんです。当人に「いい」んだったら、なんでもいい、よね。それもわかる。すごくわかる。

「自分は『それでいい』に走った人を『安直に流れて』と謗(そし)る割に、自身には寛大なほど不貞行為も曲解させられる」人が多いのは、残念で、縁のなさを覚えるのです。

いきさつやしくじりも人生のスパイスではありましょうが、自分を大事にしてる人を見ていたいものです。
あんまり無茶しないでね。傷みには残るものが過分にあるから。


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