●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

あけましておめでとうございます。

2018年01月04日 | 思うこと
しあわせ
おはようございます。珍しく連投しています。早速飛ばしてますね〜(笑)今朝は、不思議な感じで目覚め起きました。起きたら、4時半〜フワッとした気持ちで目覚め、「お......




なんか、いい事言ってますよね、去年。。。(笑)

今年は、そんな風にカッコ良くはいかないんですが、

遥か「天の御国」を仰ぎ見ながら、毎日をイエスさまに根ざして生きたいと思います。

(これも結構カッコいい?・笑)

流れのほとりに植えられた木の、その葉もしぼまないように、

しっかりとイエスさまって言う土壌に根ざして、

満たされて、解放されたいなぁーと思います。




イエスさまに根ざすって事の内容は、言うは易しでなかなか難しいですよね。

ある先生は、「いつもイエスさまに話しかける」と言っておられました。

ある本には、「聖書の言葉」に立ち続けるとか?

いつも神さまの臨在の中で生き続けたいです。




泉の湧く教会

2017年12月12日 | 思うこと

11月に私たちの教会にお招きした牧師先生が、

ご一家で我が家に泊まって下さったのですが、

その時には、励ましの言葉を、たくさん頂きました。

その中でも、先生がわざわざ聖書を開いて語って下さったのが、下の御言。




彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。

初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。

彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。 」

(詩篇84:3~7)。





昔の事ですが、私たちの教会でも今までいろいろな事が、たくさんあり、

「イエスさま、これはどんな意味があるのですか?」

と思えるような事が多々ありました。

ですから、先生が私たちの教会に「涙の谷が泉の湧く所となります。」

と励まして下さった事は、本当に喜びでした。




私自身も、涙の谷を通った事が幾度とあり、その都度絶望しました。

完全に望みを失った事もありました。

ですから、今あるのは全て神さまの恵み!のみ!

来年は、教会から泉がどんどん湧くかなぁ〜





内面の姿

2017年10月15日 | 思うこと



今朝の夢です。

久しぶりに(30年振り)、友達のTちゃんに会いました。

彼女とは、若い時に一緒に教会で賛美したり、伝道活動してました。

懐かしくて近寄ると、彼女は私を拒みました。

他の昔の友達とは、とても親しくしているのに、

何故だか?私とは話してくれません。

すると、ある人が私に言いました。

「ぴーちさんが彼女に攻撃的だったから、傷ついているんだよ。」と。

私は、泣きながら訴えました。

「私は、かつて攻撃的な人間だったけど、Tちゃんを攻撃した事はありません。」

「私は、Tちゃんを攻撃してないのに!!」

…と言う内容でした。




スクッと起きて、お祈りしました。

私の中には、自分を守ろうとするあまり「攻撃性」があります。

自己弁護したい気持ちが満ちています。

イエスさまの愛の中で、「攻撃や反撃的な自分を手放します。」と祈りました。

それを自分では、どうすることも出来ませんが、

イエスさまの十字架には、これを破壊する力があります。

破壊?と言うより、「十字架による死」ですね。




「全てを捧げます」か?

2017年10月14日 | 思うこと



昨日ゴスペル賛美を聞きながら、車を走らせていました。

若い女性の声で「全てを捧げます!」と賛美していました。

その時に、ふと、

「この人は、本気で全てをイエスさまに捧げると言っているんだろうか?」

と言う思いになりました。

なぜなら、私も一緒に賛美していたからです。

本当に、全てを!全てを!主に捧げるのか?

と問われているように感じました。

全てって、私の全部、全てですよね?




もちろん、イエスさまは、私たちが弱いながらも、

本当に主に捧げたい!と望んでいる事は知っておられるでしょう。

でも、イエスさまが欲しいのは本気の心です。

歌っているのは、全てですよ!全てです!

本当に全てを捧げますか?

と主は言われます。





私は、嘘を言うのは嫌だったので、「全ては無理かもしれません。」と言いました。

イエスさまは、無理に剝ぎ取りたい訳ではないので、

私の気持ちを待って下さる事でしょう。

私が心から「全てを捧げます!」と言うのを喜んで待って下さるのです。








和解の本質

2017年09月23日 | 思うこと




前回、他者との和解について書いたのですが、

昨日、友達と話してたので、和解について改めて気づいた事を書いておきます。

ある人(Aさん)が、「前の教会の人と偶然会って和解した。」って話してて、

どこかその発言に違和感を感じていたのですが…。

友達が、「自分から和解しないと、ホントの和解じゃないよね。」

って言ったので、真理に目が開かれました。

言ってみれば、当たり前の事かもしれませんが…。




放蕩息子も自分の方から、お父さんのところに帰って来る必要があったんですね。

お父さんの方は「許す気満々」だったのですが、

弟息子の方から(謙って)帰って来るのを待っておられたのです。



お父さんの財力ならば、使いをやって探すことも出来たはずですが、

息子の方から帰らないと本当の「和解」にはならないと、お父さんは知ってたんですね。

それが父親の愛であり、義なる神さまの厳しさでもあると思いました。

義しさを捨てることが愛じゃなくて、待つ愛…です。




偶然に会って和解することも、時にはあるかもしれませんが、

その時は、相手の方がAさんを受け入れて話しただけで、

Aさんの側から、遜って和解を申し出て許し合うのとは違います。

本当の和解には、「謙遜さ」が必要だと言うことですね。

「わたしはもうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」と言うように。



「むすこは父に言った、

『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。

もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。」

‭‭(ルカによる福音書‬ ‭15:21‬ ‭)







他者との和解について

2017年08月24日 | 思うこと



人は、誰かに対して罪を犯した場合に、

自分は悪くないと開き直るか、自分で関係を修復しようと策を練るかすると思います。

時によって、私は両方あります。




20年程前に、親しかった友達と関係がこじれてしまった時には、

最初は、「自分は悪くない」と味方を探しました。

その内に、それはいけないと思い、今度は自分で和解しようと奔走しました。

その和解は、自分の平安を得るためであって、

本当に相手の事を思っての事ではありませんでした。

ですから、近寄れば近寄る程に相手を傷つけている事に、

全く気づかず、更に傷を深める事になりました。

まさに、相手が嫌がっているのに、押し付ける和解です。

和解と言う良きものも、私の自我が覆い被さり、かえって傷つけてる事に、

全く気が付かずにいると言う、愚かな自分でした。




その後、少しずつ彼女と出会う機会があり、普通に話すことが出来ました。

しかし、もちろんもう友達に戻ることはありませんでしたが…





では、本当の和解はどうしたら得られたのでしょうか?

私は、最近こう思います。

相手との和解も、相手を許すことも自分の方策に頼らず、

神さまの方法と、時を待つことだと思うようになりました。

自分の方策は、どんなに「良いこと」と思えても、

所詮、それは自我のなす業です。




本当の和解には、神さまの御介入が必要だと認め、祈って待ち望み、

その時には、心からの気持ちと行為をもって謝罪すべきだと思います。

良い行いは、神さまが用意して下さるのです。

そして全ての栄光を主にお返しして、感謝を受け取ることだと思います。




純粋な心

2017年08月05日 | 思うこと



ひと月前くらいから、私には願いが与えられていました。

それは、「証の力を強くして下さい。」と言うものでした。

それにプラスして、今朝方与えられた思いは、

「あなたの持っておられるピュアな心を私に与えて下さい。」

と言うものでした。

私の心の中には、まだまだ不純なモノが溢れていると気づいたからです。



純真な思いでイエスさまを愛しているでしょうか?

純真な心で、周りの人に接しているでしょうか?

純粋な気持ちで、神さまを礼拝しているでしょうか?



具体的には、これと言えませんが、私の中に不純物があると分かります。

習慣で行ってしまうことの多いこと!

条件反射で、動いたり話したりすることの多いこと。

マリヤが高価な純粋なナルドの香油をイエスさまに注いだように、

私にも神さまは、「純粋」であることを求めておられると思いました。

事の大小に関わらず、内容が純粋であることの大切さは、

聖い神さまを信じているなら、当然知っていますが、

私の態度を思い起こす機会があったので、クローズアップされました。

「私に聖い心を作り、新しい霊を新たにして下さい!」と、

詩篇の記者が祈ったように、私も祈りを合わせます。

純粋な!純朴な!内側の命によって歩みたいです。


(詩篇51:10 )

神よ。私にきよい心を造り、

ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。




わたしの幸せと「感謝」

2017年06月29日 | 思うこと





先日、M先生のセミナーを受けて、

今、「感謝が習慣になる21日」ジョン・クゥアン著を読んでいます。

その中で、ジョン・ミラーからの引用文で、

「人がどれほど幸福であるかは、その人の感謝の深さにかかっている」とありました。

そこで、私自身がこの頃感じている幸福感に思い当たるフシがありました。




私は、長い間精神的な病の中で、

日々、やって来る「極度の意味なき不安」と「足が竦む程の恐怖」や「動悸」

などに苦しまされていました。

それは、決して誰にも頼れず、意味も分からず、ただただ苦しい日々でした。

あまりの苦しみの中で、私はどうする術もなくて、

ある日、他に出来る事は全く無いので、

苦しい時に「感謝します!」と言うようになりました。

それは苦しければ苦しいほど「感謝します!感謝します!」と言うものでした。

なので、私が「感謝します!」と言うと、娘が、

「しんどい?」と聞くくらいでした(^^;)




今思えば、それはギリギリでの神さまからの知恵だったかも知れません。

「感謝します!」と言うと、少し楽になったような気がしました。

でも、全てよくなるような即効性のある薬ではありません。

しかし、私には他に選択肢が無かったので続けていました。

今、感謝の実践の本を読むにつれ、

「それが私の幸せと繋がっていたんだ」と、そう思いました。





先日、ある集会の後でお茶を飲みながらワイワイしている時に、友達が、

「ぴーちゃん、幸せそうだね!」と言いました。

私は、即答で「うん、幸せだよ!」と答えました。

そんな時の朝にも、苦しみがなかった訳ではありません。

なのに幸福感は確かにあり、嘘ではありませんでした。

心からの言葉が出て来たのです。

それが、日々の感謝と密接に関わったいたんだ!と気づきました。





感謝は、感情でも気質でも、性格でもないそうです。

日々の積み重ね、訓練だそうです。

私は、そんな訳も知らずに実践していたのです。

イエスさまは、そんなドン底でも私を幸せに導いて下さっていたのです。

ただただ、感謝のみです(*゚∀゚*)





心の傷の癒しについて

2017年06月07日 | 思うこと





いつ頃からでしょうか?

「傷ついた」って言うのが、あまり好きではなくなったのは。

「傷ついた」のは事実で、心に傷跡もあるのですが、

私は、一生被害者として生きていくのは嫌だし、

実際、私が傷つけた人もたくさんいるので、

自分が「傷ついた」って言うのは嫌になりました。

「私は傷ついた。」と言って自己アピールしている惨めな自分の姿が見えました。





でも長い間、心が「誰か私を分かって下さい!」と叫び続けてきたので、

「傷ついた」と言って、誰かにすがりつきたい気持ちは痛い程分かります。

でもです!誰も誰も!私を理解出来る人はいないと知りました。

ただ、おひとり。イエスさまを除いては…。




誤解しないで頂きたいのですが、「心の傷が癒される」ことはとても大切な事です。

傷がなかったことにする必要もありません。むしろ告白すべきです。

その傷は身体の傷同様に、放置しておけば膿をもち、どんどん大きくなるかもしれません。

人生のどこかで、その傷に向き合い、膿を出し尽くして癒される必要があります。

でないと、自分もずっと痛みを抱えて苦しむことになりますし、

またちょっとでも、その傷に触れた人がいると、攻撃してしまうかも知れないからです。






しかしです。その傷の膿を出す場所が大切です。

結局のところ、私を真に(心の深みまで)理解出来るのは神さましかいないのです。

それも、深い傷を受けた経験のあるイエスさましか。

人に尽くしながらも、人にあっさり裏切られたイエスさま。

理不尽な裁判で、ムチ打たれ十字架に張り付けられたイエスさま。

そのお方が、私の小さな傷や悩みを理解して下さり、癒して下さったのです。




その過程では、多くの人の助けを頂きました。

同じ病気の人たちとの出会いや、教会の先生や友達、家族。

戦いながら、いろいろな気持ちを吐露する内に、

私の問題の根本的解決は、十字架の元にあると知りました。

血が流されなければならなかったのです。

私には、十字架の血潮が必要でした。ドクドクと流れるイエスさまの血。

私には、イエスさまの十字架の死が必要でした。

私の代わりに、父なる神に完全に見捨てられたイエスさま。

そして葬り、希望の復活が今の私を生かしています。





今、イエスさまが生きておられることが、私が生きて行く力です。

もし、イエスさまの命が私から流れ出て、周りの人たちを生かすなら、

それが私にとって一番の幸せです。

イエスさまの愛や、恵み、慈しみ、許し…それらが私から流れたら…。

私は、今そっとイエスさまに信頼します。

私は神ではない!

2017年05月30日 | 思うこと



一昨日読んでた本に「人は神ではない。」とありました。

当たり前ですよね。

当たり前ですが、当たり前ですか?




私が、日々悩んでいることは「自分で何とかしなくちゃ!」

的な事柄が多いと気づきました。

「心配事」や、「思い煩い」、私の大敵「不安」も、

大きく捉えれば、「私が神さまのようになっている」と言う大罪。

「ある程度自分で把握しておかないと不安だ!」とか、

「何が起きるのか?とても不安だーー」とかって言う心配は、

溢れる愛のある神さまを無視している…って事ですよね?




「人は神ではない。」

「私は神ではない。」

当たり前なんですが、この性質って、なかなか抜けないものです。

でも、とても安心する言葉でもあります。

イエスさま、よろしくお願いしますーー

あなたが神なのですからっと。





もちろん、神さまに丸投げと言う意味ではありません。

自分に与えられた所は、神さまの助けによってやります。

例えば、「オークションを祝福して下さい!」と祈りながらも、

仕入れに行かなければ、神さまだって祝福のしようがありません。

ただ仕入れにも、神さまの助けと力が必要です。

何を仕入れるか?いくらで仕入れるか?は、

自分で決めなければいけません。




しかしです!

良い仕入れが出来ても出来なくても、オークションが売れても売れなくても、

イエスさまの愛は変わらないので、私に悪いようには、決してされません。

私のために、十字架で死なれた程の愛のあるお方にお任せします。

はい!私は神ではない!ので、全てを把握しなくていいし、

明日の心配をしなくてもいいんです。