●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

ゆめ

2017年05月29日 | 思うこと




昨夜見た夢を記しておきます。



私には、とても素敵な男性の友達がいました。

私が若い時に、実際にいた人で、仮にAさんとします。

私とAさんは、一緒に何処かに行こうとしていましたが、

他に2人の女性が着いて来ていました。

その二人は、Aさんに気があるらしくて何処にも着いて来ます。

それに、私とAさんが仲が良いことを面白く思っていませんでした。

しかし、私とAさんには恋愛感情はなく、本当に仲の良い友達でした。






私は、Aさんをあらゆる誘惑から守ろうとしていましたが、

それがまた、彼女たちの気に障ったようでした。

すると、彼女たちはAさんを陰に誘い、今度は私抜きで会おう!と誘っていました。

私は無視され、疎まれたのです。

しかし、私はその事を何とも思いませんでした。

それでもいいと思っていました。

何と言う平安!何と言う自由!




私は、誰かに無視されても、嫌われても全く気にしませんでした。

また、私の方がAさんと親しいのに、と彼に固執もしませんでした。

私は自由だったのです。




こんな感じの夢でした。

今思い出しても、私の心は平安で満たされます。

自由な心とは、何と幸せで穏やかで喜びが泉のように湧き上がって来るものか?と。

夢でなく、実際にもこのように生きたいと切に願います。






罪人のかしら

2017年04月22日 | 思うこと



ここ2、3日・・・なんとなく心にどんよりした雲が。

特に20日は異常な雰囲気で、テンションが下がってました。

前日の19日にちょっと大きな出来事があり、

過去と真正面から向き合わなければなりませんでしたから。

その事自体にショックを受けた訳ではないのですが、

無意識の中で、過去の影響を受けていたのか?

ホント!気持ち悪かったです。腹痛もあったからですが。




そして昨日、同じく嫌な気持ちになってたクリスチャン友達と、

お茶していろいろお話ししました。

ず~~~っと話して、三時間半!!!(笑)

イエスさまの十字架の恵みも改めて分かり、スッキリとしました。

そして帰ろうと車に乗ったら、いつもかけてる韓国語の賛美が。。。

「アボジヨ~♪・・・」(韓国語で父よと言う意味です)



あ~私には、天に父がいるんだ!

私を愛してやまない、頼りがいのある父がいる!

と嬉しくなりました。

父なる神さま、ありがとう!



狭い世界で、自分を見つめて怖くなってしまう私を憐れんでくださっている。

そうだ!私はかつて「自分は神さまが間違えて作った不良品だ」と思ってたけど、

ある人にとっては「ブラックリストNo.1」だったけど、

それでも、それでも、それでも、十字架で死んで下さるほどに愛して下さったんだ!

そう改めて思いました。




私にとっては、その人の「ブラックリスト1位」だった事が、

まだ傷となって残っているけれど、

パウロも、自分を「罪人の頭」と呼んだんですよね。

この事が、傷ではなく「神さまの憐みの象徴」となりますように。。。




1テモテへの手紙 1:15

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、

まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。

私はその罪人のかしらです。

真の礼拝者

2017年04月06日 | 思うこと





このところ、ひと月くらい毎日バタバタしていて疲れてしまいました。

それもあってか、今週の日曜には礼拝をお休みしました。

日曜の朝には、嫌な気分が抜けなくて、思い切って休むことにしました。

ただ、以前なら「教会を休む」って事だけで(理由は関係なく)、

良心が咎めて、次の日には更に具合が悪くなるパターンがしばしば。

でも、この良心は私のためにある愛ある良心ではなく、

過去の自分が複雑に絡み合った、所謂押し付けられた良心です。

なぜなら、時々咎めなくていい事までも咎めが来るからです。

例えば、私とは関係ない人の事についてまで咎めたりします。

なので、この良いと思われる「良心」さえ聖められなければならないようです。





しかし、今回お休みした事については、良心は過剰反応しなかったのか?

次の日には、また元気になってバタバタしてました。

そして昨日…久しぶりの友達とお茶して楽しくいろいろ話した後で、

帰ってから買い物に行って、花を植えて、お風呂掃除をしてから横になったら、

「つっつかれたーーー(_ _).。o○…

休ませて下さい…」

と、心の奥底が叫んでいました。

でも次の日にも、私は予定を入れていました。

大切な人と会うんだから絶対に「いい事」だと思って。





しかし、今朝起きたら疲れで頭痛はするし、身体中は痛いし予定はキャンセルしました。

そして心の本心から祈りました。

「イエスさま、疲れました。

ごめんなさい。疲れました。」


すると、神さまはこんな風に言っておられるように感じました。

「わたしは、真の礼拝者を求めているよ。

ヤコブが杖に寄りかかってわたしを礼拝したように、

真の礼拝者を求めている。」と。



「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、

そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。

‭‭(ヘブル人への手紙‬ ‭11:21‬ ‭)




私は、自分の基準で「いい事」と思われることをやってた時に、


(もちろん、その事自体は大事なことだったと思います)


イエスさまは、真の礼拝者を求めておられたのです。


今、主を礼拝します!




神さまの手作りの「和解」

2017年03月25日 | 思うこと


神さまに従っているなら、必ずどこかで誰かと「和解」する必要を感じると思います。

誰かとだったり、自分とだったり、過去の出来事とだったりします。

しかし、その時に真面目なクリスチャンであればあるほど、

「和解しなくちゃ!」モードになると思います。

あの出来事では、あの人を傷つけたし自分も傷ついたし、

これを放って置いてはいけないと、迫られてしまいます。

でも、放って置いてもいい期間があります。

(誤解を与える言葉かもしれませんが)

自分が、本心から(心の奥底から)傷が癒されている訳ではないのに、

「和解」を優先させようとすると、かえって相手を更に傷つけることにもなりかねません。

敢えて相手に何も言わない…と言う和解もあります。

(いつの日か?その時が来るかもしれません)

「和解」自体が、神さまからのプレゼントであり、恵みだからです。




ヤコブがお兄さんエサウと和解しようとした時が、正にそうです。

自分の力と策略で、和解を押し進めようとして、多くの贈り物を先に持って行き、

部隊を分けて、自分は最後に行こうと考えました。

しかし、これはヤコブの考えた「和解」でした。

神さまの方法は、全く違いました。

ヤコブと戦い、足の付け根を打ち、弱くして自我(ここでは自分の方法)を、

打ち砕き、全面的に神さまに頼るしかないように導かれました。

そう!神さまにだけしか頼れない!

この状況こそが、神さまの手作りの和解の始まりです。

そして、足を引きずりながらエサウに会いに行きました。

もう、自分を守るものは何もありません。

裸です!(まな板の鯉のような感じ)



すると、エサウの方から駆け寄って来て抱き合うことが出来ました。

これこそ、神さまの方法です!

神さまの手作りの「和解」なんです。

この兄弟が抱き合う姿は、とても美しい情景です。

神さまがセッティングされたからです。

神さまの方法は、卒がなく流れるように美しい!

そして、この和解は神さまの栄光になりました。

「なんて神さまって素晴らしい!」と思いますね。



ですから、私たちが自分の方法や計画で和解を作り上げる必要はありません。

神さまに信頼して、その一番いい時を待ち、へりくだって委ねる。

もちろん、その待つ信仰やへりくだりも神さまが下さいます。

人間の汚れた手で、神さまの和解の御業を汚してはならないのです。

侵してはならない領域が、この和解の御業でもあります。



それだけに「和解」の恵みを頂くことが出来た時には、私たちは更に自由になり、

幸せな歩みが出来ると思います。

覆うように愛しなさい!

2017年03月13日 | 思うこと





(伝道者の書7:16)

あなたは義に過ぎてはならない。





先日、あるクリスチャンの友達が、

ノンクリスチャンのAさんについて言いました。

「Aさんは、因習の深い地域に住んでおられるからイエスさまを信じるのは難しいと思ったけど、

はっきりモノを言う人みたいだから大丈夫かもしれない。」と。

私は、その言葉を聞いて「義憤」を持ちました。

いやいや、因習の深いところに住んでいる人でも、神さまは救うことが出来るよ!

それどころか、イスラムからでも仏教のお寺の息子さんでも、ヤクザでも、

神さまは救うことが出来るんだから!

それに、はっきりモノを言う人が救われる訳ではなく、言えない人でも救われるよ!

イエスさまを信じれば良いんだから。。。




と、なぜ私が敏感に反応したかと言うと、以前にも同じような言葉を聞いたからです。


数年前にBさんが洗礼を受けられたのですが、その後しばらくして教会に来られなくなりました。

そのBさんについて、彼女は言ったんです。

「Bさんは、最初から教会には好意的じゃなかったからダメだと思っていたよ。」と。

いやいや、私たちの大先輩であるパウロは、教会が大嫌いで迫害してたじゃん!

あなたは「神」ですか!!!

と、凄い腹が立ちました。



とは言っても、彼女は悪い人ではなく、どちらかと言うと良い人なので、

私も、いくら腹が立っても、「義憤」だと思っても怒った訳ではありません。

「あの人は、救われるとか救われないとかは、言わない方がいいよ。」と言っただけです。




人間的に良い人でも、心のうちに「自分が神」になる性質(罪の性質)を持っているんですね。

私は、「我」が強くて、自分勝手なタイプだったので、その性質は分かりやすかったのですが、

人間的に優しい人や穏やかな人は、それに気づきにくいかもしれません。




次の日の朝。

お祈りしようと座った時、神さまが私にちょっと教えられたっぽい。

「たとえ、あなたが正しくても、『義』をもって人に接してはいけないよ。

ただ覆うように愛しなさい」・・・と。




その友達の言葉には同意しないけど、覆うように祈り、愛そうと決心しました。





弱さの中にある恵み

2017年02月23日 | 思うこと



ある時、友達が言いました。

「わたしは、とっても心が弱いので強くして下さいと祈っているよ。」と。

私はその時、ただ聞いてただけでしたが、心の中で思っていました。

「神さまは、その祈り通りには応えて下さらないだろうな・・・」と。



いえいえ、神さまを信じていない訳ではありませんよ。

イエスさまは、私たちのどんな心の病いや病気も癒す力があります。

ただ、心を強くすることによって私たちを祝福される訳ではないんです。

逆です!

私たちが「もう自分では何も出来ないし、全く弱い者だ。」

と分かるまでは「弱さ」の中に閉じ込めておられることがあります。

弱い弱い!と言っている時でも、私たちはとても強いからです。

自分の力で何とかしようとしていて、いろんな策略?を考えています。

「こうしたら上手く行くかもしれない。」

「この方法が良いかもしれない。」などです。

一つ一つは悪い事ではないですし、時にはむしろ良い事に見えますが、

神さまが目指しておられる事は、そのような何かではなく、

「ただ、全面的に全て神さまにだけ!頼るように」と言うところです。




私は、かつてイエスさまを信じていても安らぎや喜びがなくなっていました。

信仰が何かも分からなくて、完全に迷い出て来てました。

もちろん、イエスさまが救い主だって事は信じてました。

ただ、「全てを神さまに委ねる」と言う事が分からなくて、

ひたすら頑張って祈ったり、聖書を読んだり、信仰書を読んでみました。

ところが何をしても満たされない所か、どんどん混乱してしまいました。

よく夫が、「そんな複雑な事じゃないよ、イエスさまに信頼してたらいいよ」

と言っていたものでしたが、どうすれば信頼した事になるのかが分からないのです。




その後、神さまは私の人生をいろいろな意味でドン底に落とされました。

もう私には何の希望もなく、生きる意欲もありませんでした。

私はクリスチャンとしても最低だし、人間としても最悪だと思いました。

そんなある日…ふと窓越しに西の空の夕焼けを見ていたら、

「わたし…愛されているような気がする…。」と思ったのです。

その時には、わたしは自分の人生の全てを、神さまに委ねていました。

委ねようと思った訳ではありませんし、信頼していますと祈った訳でもありません。

そうするしか他になかったのです。

私は、いろんな出来事を通して打たれ「弱くされた」のです。

弱さの中にいたら、不思議と信仰が湧いて来たようなのです。




それまでは、物事が上手く行くと高ぶり、失敗すると落ち込み、

謙遜になることなど絶対に出来ませんでした。

でも、謙遜でいることが普通になったのです。

努力して得たのではなく、打たれて弱くなって謙遜を頂きました。

そしてそこから少しずつ神さまの恵みが分かるようになりました。

私が弱くされた事は、私にとって幸せでした。

それによって、私は自分(自我)から自由にされたのですから。

もう、「弱い弱い!」とか「ダメだ!」などとは言いません。

そんなのは当然だからです。だから神さまに頼るのですから。




何と言っても、私にとって(神さまにとってもでしょうが)、

一番厄介だったのは、「わたしの固い自我」でした。

私の問題は、自分が「弱い」ことではなく、とてつもなく「強い」ことでした。

ですから神さまは長い時間をかけて、私を弱くして下さったんです。

それは、本当に感謝なことでした。

今もまだ少しずつ砕こうとして下さっていますので、

ゆっくりと神さまに着いて行こうと思います。

あなたの罪は赦された

2017年02月11日 | 思うこと





ふと、私がクリスチャンになった頃のことを思い出しました。

初めて教会に行ってから、一月ほど経った時に「特別集会」がありました。

宣教師の先生をお招きしての集会でした。

私は、聖書のお話しを「とても信じられない!」と思いつつも「信じたい!」

と、心から思っていました。

その時に語られた「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」(ヨハネによる福音書20:27)

との聖書の言葉で「信じてみよう!」と決心しました。




さて、次の日の朝…

私は、自分はクリスチャンになったのかな?と思っていました。

そして、いつものように朝ごはんを食べていて、

振り返ってお醤油を取ろうとした時、心の声がしました。

「あなたの罪は赦された…」

ん?何だろ?さっきのは何だろ?

すると急に溢れんばかりの喜びがドバーッと来て、

嬉しくて嬉しくてたまらなくなり、急いで教会に行きました。

平日だったので、伝道師の先生しかおられなかったのですが、

とても喜んで下さいました。




ですが、最近まで「あなたの罪は赦された」にはあまり気を留めていませんでした。

ふと考えてみると、その時私は罪に苦しんでいたつもりはなく、

赦されたい!と思っていた訳でもありませんでした。

ただ、自分も他人も人間は汚い者だと思ってはいましたし、

それと同時に理想主義者でもあったので、本物の愛とか清さに憧れていました。



本当の私の問題は、私の内にある罪だとは知りませんでした。

しかし神さまはご存じだったので、私に「あなたの罪は赦された」

と声をかけて下さったんだと思います。

罪が赦されることの大きな恵みは、後になってみると、

とても幸せなことで、身に余る光栄なことだと分かります。

そして、私の罪が赦されるためには、

イエスさまがどんなに大きな犠牲を払って下さったか?

ってことが、本当の意味で有り難くて有り難くて!たまりません。

十字架で見捨てられて下さったイエスさまの愛によって、私は引き上げられたんです。




イエスさまの十字架の上での、

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコによる福音書15:34)

と言う言葉を、敗北宣言だと言う人たちがいますが、

イエスさまが私を救うためには、父なる神さまに見捨てられなければならなかったんです。

本来ならは、罪深い私が捨てられて当然でした。

ここに身代わりの死があります。身代わりの愛があります。



そして、3日目に蘇られました。私が「義」とされるためです。

赦されただけでもありがたいのに、「義」を頂きました。

今の幸せの全ては、イエスさまの十字架の愛の故です。

感謝です(^-^)

松江市民クリスマスでの出来事

2016年12月26日 | 思うこと





もう、クリスマスは全て終わりましたが、

12月3日の松江市民クリスマスの恵みを思い返しています。

以前にも行った事はありますが、今年は講師が福澤満雄牧師と言うことで、

特別に期待して、友達と一緒に行きました。(噂を聞いていたので)




先生のメッセージ…

の前に〜凄い事?がありました。

ハンドベルやコーラスがあり、とても素敵でした。

それから、ゴスペルフラが!!Σ(゚д゚lll)

いえいえゴスペルフラに驚いた訳ではありませんよ。

松江の教会の人たちと、私たちの教会の人たちの合同チームでした。

メンバーのほとんどの人は、個人的にも友達です。

そのゴスペルフラを見ていたら、心が熱くなって、涙でウルっとしてしまいました。

フラで泣くはずないから「何だか私、変だわ。」と思いました。

でも愛する友達の踊りを見て、心の中が愛でいっぱいになったのです。

「わぁ〜私の愛する友達!!なんて素敵な友達!

イエスさま!私に、なんて素敵な友達を与えて下さったの?!」と感動しました。




それから、私たちの教会の牧師の賛美!

いつもより、心のそば近くにそっと届く歌声でした。

え?何かいつもと音響が違うの?(笑)と思ったりして。

(先生に失礼でしょう?笑笑)




その後で、福澤先生のメッセージでした。

最初から、一回も目を離すことなく語られる言葉のひとつひとつを聞いていました。

吸い込まれるように、聖書の言葉に聞き入ってしまい、

ラスト前には、涙が溢れました。

イエスさまの十字架のリアルな恵みと、天国への希望!

「私も天国で、価値のある生き方がしたい!」と強く思いました。

私は、新しい使命をもらったように思います。





そこには、確かに神さまの臨在がありました。

神さまの臨在…そこにおられるお方。

神さまの臨在って「愛」だったんだと分かりました。

当たり前の事でしょうが、私には自分の事として分かっていませんでした。

神さまの臨在は、自分が幸せな気分になり、温かな気持ちになり、高揚感がある?

としか思っていませんでしたが、

周りの人たちみんなに対して愛おしいと思う、

気の合わない人をも、知らない人たちも、大好きな友達も、

みんなみんな全員を包んで、「私の愛する人たち〜!」と思える愛でした。

そう言う意味での「神さまの臨在って愛なんだ!」と理解しました。

なので、終わったらゴスペルフラの友達を捕まえて、

「すっごく!すっごく!良かったよ〜」とハグしました。

(多分みんな引いたと思う・笑)

完全に私ひとり、変な人になっていました(^^;

しかしそれは、とても言葉では言い尽くせない素晴らしい体験でした。

与えられた自由

2016年12月25日 | 思うこと



ある時、クリスチャン生活の長い人と話していたのですが、

「わたし、先週いろいろな事があって『♪主は良いお方』って歌えないんです。」

と言われました。

その時には、そんなに親しい方ではなかったので、

事情までは聞きませんでしたが、気持ちは分かるように思いました。

いつもいつも、喜ばしい事ばかりがある訳ではなく、

生きていれば、いろいろなトラブルや病、ストレスもあるでしょう。

ですから、本心でもないのに「主は良いお方〜」と歌わなくていいと思います。




そのままの事情を神さまに素直にお話して、

「イエスさま!あんな事やこんな事があって嫌なんですよ!」

「あの人に、酷い事言われました!酷いと思いません?」

「今、とっても辛いんです。なのに誰も分かってくれないんです!」

などなど…。

好きなようにお祈りして良いと思います。

あなたが、どんなに酷い事を言う人でも、神さまはびっくりされません。

ちょっとカッコ良いかも知れないけど、ウソっぽいお祈りの方が嫌いなんです。

神さまは真理だから、私の真理(本心)と出会って下さいます。

その本心が、例えカッコ悪くて、見栄えが悪くても…。

(もちろん、人前では普通にお祈りした方がいいです)




私は人生に追い込まれていて、本当の意味で神さまに信頼した時に、

そのような本心のお祈りをしました。

その時、ふと心が楽になった気がしました。

え?全然信仰的な「良いお祈り」じゃなかったのに良いの?

と、自分が一番びっくりしました。



イエスさまは、私の本心が聞きたかったんです。

そして、そこからの解決を導きたかったんですね。

いろいろ苦情を申し立てている間に、少しずつ傷ついた心が癒されていきました。

いつの間にか、嫌いだった人の事も気にならなくなっていました。

もちろん、一瞬にではなく時間はかかりました。

そして、段々とその事柄から切り離されて自由にされていました。



私は自由です!イエスさまが自由にして下さったからです。

社会一般で言われている自由は守るものですが、

私の自由は、イエスさまから与えられた自由です。



「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。」

(ガラテヤ人への手紙 5:1 口語訳 '55)

悔い改めの祈りからのスタート

2016年12月09日 | 思うこと



「天国で価値ある生き方をしたい!」と思いましたので、

早速、とりあえずは祈りの生活を立て直しています。

でも、棚ぼた式に「無駄ではない生き方」が出来る訳ではありませんから。

しかし、まずスタートしないと始まりませんからね。

4日前から祈りのノートを適当につけて祈り始めました。

祈りの課題と、途中に聖書の言葉を入れて・・・。





で、昨夜、いつものように課題をあげてお祈りしている時に、

ある人(Aちゃん)のために祈っていたら、心にこみ上げるものがありました。

「あーー私はAちゃんを愛していなかった。

私は、自分のことばかりに生きて来て、浮かれて、

Aちゃんのことを愛して来なかった。

そればかりか、私は教会の人々を愛していなかった(T_T)」

と、神さまが私の姿を教えて下さったのです。



「言い訳なら沢山ある。でも、寝ていてもお祈りなら出来たのに…。

お祈りしていたら、愛がない事に気づいて優しく出来たのに…。

教会のみなさんのためにも、お祈り出来たのに。

もっと親切に出来たのに、気づかずに自分だけのために生きていた。」




なんて言う悲しい事でしょう。なんなんだ私って。

愛のない私の自己中の罪。神さまが悲しまれる事だらけ。

悔い改めて、祈りました。「ごめんなさい。ごめんなさい。」

Aちゃんにも、飛んで行って謝りたいくらいです・・・。

Aちゃんがビックリすると思うので今はしないけど。



しかし、こんな私の罪のためにイエスさまは死なれたのです。

イエスさまの血潮を仰いで、またゆっくりでも歩み始めます。

走ってきたことが無駄ではない生き方って、簡単じゃないですね。

自分では無理なので、神さまに頼りながら、

目標に向かってイエスさまと一緒に走りたいです。





あなたがたは知らないのか。

競技場で走る者は、みな走りはするが、

賞を得る者はひとりだけである。

あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。

彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、

わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、

空を打つような拳闘はしない。


(コリント人への第一の手紙 9:24–26)