●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

心の明け渡し

2016年01月07日 | 思うこと
ふと、以前とても苦しんだ事柄について思い出しました。

それは、「私は、まともな人間ではなくイエスさまに迷惑ばかりかけている。」

「私は、まともに生きていけないし、その自信もない。」

「私は誰よりもダメな人間だ。」

と言う事でした。

そして苦しんだ挙句に分かった事は、

「私は、イエスさまの憐れみと恵みなくしては、生きていけない。」

と言う事です。

それは今でも変わりません。



私は、精神的にも信仰的にも、とても弱く惨めです。

しかし、ここにイエスさまの恵みが流れて来ることを知りませんでした。

なので、自分を自分で救おうと頑張ったのです。

頑張れば頑張るほど空回りして、私は完全に潰れてしまい、

私は、自分の力を諦めたのです。

私には分からなかったのですが、その苦しみは神さまの愛の御手でした。



その時に、初めて神さまの愛が分かったのです。

イエスさまが十字架で死んで下さったのは、このダメな私のためだと。

そして、この私から救って下さるのはイエスさまだけだと。

私の悩みは、何よりも自分自身でした。

この不自由な自分から自由になりたかったのです。

ダメな自分から‥惨めな自分から‥

救いは、十字架にありました。

イエスさまが、全てを負って下さったのです。

完全に正しいことが出来て、完全に私を救って下さるのは神さまだけです。



ですから、私は神さまに信頼することにしました。

と言うより、神さまに信頼するしかありませんでした。

イエスさま!こんな私ですがよろしくお願いします。

あなたが、私をダメだと言われるなら、もう希望はありません。

あなたが良いと思われるようにして下さい。

この時が、私の初めての明け渡しでした。

ここから、私の本当の信仰生活が始まったのです。

苦しみが幸せに

2015年12月23日 | 思うこと
私にとっての十字架の意味
そうですね~もう十数年前の事でしょうか?私は、捨てられたと思いました。人にも捨てられたけど、神さまにも捨てられたと。それも仕方のない事だと、すっかり諦めていました...



この出来事は、私のクリスチャン生活の第二の原点とも言うべきものです。

第一は、もちろんイエスさまを信じた時・・・。

「あなたの罪は赦された」

と言う言葉で、喜びが満ち溢れた事を思い出します。

そして、第二はこの「十字架」です。

極端な言い方をすれば、

ここから私の本当の信仰生活が始まったと言ってもいいでしょう。



それまでは、イエスさまを信じてはいたのですが、

自分の力に頼り、どこまで行っても頑張り頑張り!でした。

ですから、振り返ってみれば、私がこのような苦しみに遭ったのは良かったのです。

ただ、もちろん二度としたくはない苦しみでした。

人を傷つけ、自分も傷つき・・・ボロボロでしたし、

家族にも多大な迷惑をかけました。



詩篇119:71

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。

これによってわたしはあなたのおきてを

学ぶことができました。」




あああ~まさに神さまの掟。。。

「神の方法」「神を畏れる事」「神の秩序」などを学びました。

自分の方法で、自分の力で、自分を優先させるのは「罪」でした。

「私は間違ったんだ、本当に間違っていた」(弁解の余地なく)

と心底知ったのは、この愛なる神さまを知った時でした。




長年背負っていた暗い自分とも切り離されて、幸せを感じる心が与えられました。

重荷・・・それは自分自身だったと言っても過言ではありません。

十字架は、そんな自分と切り離される幸いな恵みでした。




今日も、この日を喜ぶ事の出来る恵みに感謝しつつ。。。

神さまからの語りかけ

2015年12月19日 | 思うこと
当たり前の事ですが、神さまは1人1人に違う言葉をかけて下さいます。

ある人には、「すっかり治って達者でいなさい。」

と言って下さるし、またある人には、

「あなたの罪は許された。」と言われました。



もちろん、普遍的な言葉もあります。

神さまが私たちを愛して下さっている事は同じです。

同じ言葉が適用されます。

「あなたはわたしの目には高価で尊い」と。




でも、ひとりひとりには別々の悩みがあります。

求めているものが違う場合があります。

ですから、イエスさまはひとりひとりに一番必要な言葉を知っておられ、

ピンポイントで語りかけて下さるんですね。



今!この時に必要な言葉を。。。

「身に余る光栄」-主を畏れること-

2015年12月08日 | 思うこと
最近聞いたメッセージから、

神さまを畏れると言う事は、「慎み深く生きる」と聞きました。



そして、慎み深く生きると言うのは、

今の状況を自分の努力の結果と思わず、

身に余る恵みだと思い、感謝することだと言う事です。

凄い業績を挙げた時だけではなく、当たり前の普通の生活にも、

今の状況を感謝して、身に余る恵みと思うことだそうです。



私はかつて、とても高ぶりやすくて自慢屋でした。

何か出来た時には高ぶり、出来なかった時には凹みました。

この落ち込みも、やはり高ぶりの裏返しでした。

しかし、自分の力に信頼することを止めた時から、

私は、高ぶりとも切り離されました。

もし何か成し遂げたとしても、私の業績ではありません。

全て神さまの恵みだと知ったからです。

もし、失敗したとしても反省はしても落ち込むことはありません。

こんな私が、本来の私なんですから。

こんな私でも、許され愛されている恵みに感謝します。



十字架は、どうにもならない自分の自我と切り離して下さるんです。

自分の力では、謙遜に絶対なれないと分かった日から、

神さまから与えられる恵みに目が開かれたのです。

慎み深く、今ある所で平安をもって生きて行きたいです。

ハレルヤ!!!

人が変えられる時(十字架の恵み)

2015年10月24日 | 思うこと
今朝は、夫が朝から仕事で美保関まで行くらしいので、

恒例のモーニングはお休みです。

昨夜も、のんびりしていたらお客様から電話が・・・。

事故でした( ̄○ ̄;)!

即、出かけて行き帰って来たのは9時頃でした。

「夫の仕事は大変だなぁ~」と思う今日この頃です。

営業もさることながら、事故は利害関係が絡むので、人柄がもろに出ます。



あのとっても親切そうで、優しそうな方が、怒るの?って事や、

ネチネチと苦情を重ねて来る人。。。

無理難題を押し通そうとする人などいろいろです。

あ、以前は怪我をでっちあげる人もいたなぁ~(^_^;)コレハロンガイ



5年くらい前まで、夫はそんな案件を抱えると機嫌が悪かったです。

そして、家族に当たる?っぽい事もありました。

また、会社の人にはキツイ口調なども。。。イライラシテル

私は、今誰に電話しているのか良く分かるくらいでした。



ところが、いろんな試練を通して神さまにより信頼するようになったらしいです。

その頃から、夫はどんな案件でも相手が誰でも苛立たなくなりました。

機嫌が悪くなるような事もなくなりました。

「あれ~~~?これって神さま?」と思いました。

それ以来、ちょっとした事でもカッ!となりやすかった夫が、

全く!私たちに当たらなくなりました。

それからもう3年以上経ってますが、いつも平常心なようです。



本人に聞くと、

「いろんな試練を通して、より神さまに対する確信が深められて来たような気がするよ」

「以前は、とても恐れが強かったけど、平安が増し加わったようだよ」

「人は、なかなか変わらないけど、神さまは変えて下さるね~」

と言ってました。そして、

「(変えられるには)何もしなくていいんだよ、ただイエスさまの前に正直に出て信頼すればいいよ」

なるほど。。。神さまに信頼するが「信仰」だよね。

「ただ、謙遜である事だよね。謙遜ならきっとイエスさまの恵みがいっぱい入って来るよ」

そうだね~~~。




ただ、私はその「謙遜」が全くなくて、いつも「高ぶっている」って注意を受けました。

自分でも自分の中に「高ぶり」があるのは分かっていましたが、

全く!それを直す事が出来なくて、苦しみ苦しみ・・・もがき苦しみ。。。

自分で出来る限りの謙遜を頑張りました。何度も何度も。

そして、疲れ果てて最後に諦めました。



その時、ハタとこんな高ぶった私の罪のためにイエスさまは命を捨てて下さったんだ!

と、やっとイエスさまの十字架の本当の意味が分かりました。

イエスさま、ありがとう!ありがとう!




それ以来、高ぶりから自由になって少しづつ謙遜とは何か教えられて来ました。

いえいえ、全く高ぶらなくなったとか、私が謙遜だと言う意味ではないですよ。

究極の謙遜(神さまレベルの)は、イエスさまの十字架で、

私が変えられて行くには、その謙遜を日々頂くしかないと分かっただけです。

ダビデの心

2015年09月05日 | 思うこと
ダビデの願いは、いつも主(神さま)の宮に住むこと。

そして、その宮を建てることでした。

ダビデは、イスラエルの王さまだから、

もっと大きな願いも叶っただろうけど、

そんな物質的なモノを求めてなかったんです。

神の「契約の箱」が帰ってきた時も、小躍りして喜びました。

第一としたのは、自分じゃなくて、国王の立場でもない…

ただ、愛する神さまのこと。



だから、どうしてもやりたかった事は「神の宮(神殿)を建てること」でした。

なのに、神さまからの答えはNO!!!

「あなたは戦士で、多くの人の血を流して来たから」

と言う理由で、却下されてしまいました。

本来ならば、「ええええ~?何で?」と思います。

なぜなら、ダビデが戦ったのは神の民のためでしたから。

神さまのために戦ったのに、それが理由で神殿を建ててはならないとは!

ダビデからしたら、何て神さまは理不尽な…となるところです。



しかし、ダビデは何の文句も言わず従いました。

そこには、ダビデの神に対する信頼と従順があります。

ダビデの愛は、神さまに伝わっていました。

そして、神さまの愛もダビデには分かっていました。

ですから、神さまとダビデの麗しい愛がここで従順と言う形で現れています。

ダビデは、絶対的な神さまの愛に信頼していましたので、

「神の宮を建てたい」と言う願いに固執しませんでした。



ここに神さまの前に砕かれた人の心があります。

全能の神の、最善のご計画に全てを委ねています。

ダビデの心に、私の心も重ね合わせたいです。

イエスさまに捧げる献身

2015年04月05日 | 思うこと




いつも聞いているPodcastのメッセージの中で、

F先生が、昔の体験を話しておられました。

それは、F先生がまだ神学生の時に、当時の学院長が、

「みなさん、御飯を食べる時には5人でグループを作って一緒に食べて下さい」

と言われたそうです。

それで、みんなグループを作って食べたそうです。


それからしばらくして、学院長との個人面談の時に、

F先生は、注意を受けたそうです。

「あのね、Fさんは『献身』が足らない。」と。

F先生は、何のことやら分からず聞き返すと、

「Fさんは、御飯の時に周りの人とほとんど喋らないでしょ?

あなたは、献身が足らない。」

F先生には言い分があったので、説明したそうです。

「先生、私は会議の時などのような時にはちゃんと話しますが、

雑談は苦手なので、嫌いじゃないのですが話さないんです。」

でも、学院長はそれには聞かずに、

「いえ、あなたは献身が足りない!」

と言われたそうです。

その時には、意味が分からなかったそうですが、

今は、よくその意味が分かると仰っていました。




その体験を聞いて、私にはピンと来るものがありました。

「そうか、イエスさまに自分を捧げると言う事は、

周りの人たちに自分を明け渡すことなんだ。」

「周りの人たちに心を開くこと、思いやりを持つ事が、

本当にイエスさまを愛して、自分を捧げる事なんだ。」

そう、理屈ではなく分かりました。

「あなたは献身が足らない」と、言う声を聞く時に、

私から、隣にいる人への愛が生まれ、流れるような気がします。

隣に座った人に、ちょっと話しかけること。

家族にいつもよりちょっと優しくすること。

気になった友達に、ちょっとメールすること。

話している友達の話しを親身になって聞くこと。

それが、イエスさまにこの身を捧げる献身なんですね。



イエスさまは、私のために命までも捧げて下さいました。

献身とはどう言う事か?を身をもって示して下さいました。

私は、イエスさまに何もお返しは出来ませんが、

私のちょっとした献身によって、内におられるイエスさまの愛を、

少しでも多くの方に流せたら感謝です。

少しでも…少しでも…

いざと言う時

2015年03月30日 | 思うこと
突然、何か予期せぬ大きな出来事があった時に、

その人が、誰を?何を信じてどう生きて来たか?が分かるんだな。

何もない平凡な日々を如何に生きたか?が、

大きな事が起きた時に現れるんですね。



知り合いのゴスペルシンガーFさんが、突然事故に遭われました。

駐車場で、荷物を下ろしておられた時に、

アクセルとブレーキを踏み間違えた車が突っ込んだんです。



一時は、命の危険もあり、下半身不随の恐れもあり、

今は、感染症にならないように戦っておられるのに、

彼のFacebookには、恨み言の一つもないどころか、

神さまの愛と人々の愛に感謝しておられます。

普段の生活から、突然足の動かない絶望的と思える状況になったのに、

Facebookから流れるひと言ひと言は、希望に満ちているのです。

世界中から多くの人が祈っています。

まだ、足は癒されていませんが、その心が既に輝いていて奇跡そのもの。

奇跡の神さまが、いずれ立ち上がらせて下さると信じています。

再びコンサートで、歌声を聴ける日を楽しみにしています。



そして、この凄まじい悪夢のような出来事の背後に、

どんな素晴らしい神さまの御計画があるか?を、

Fさんと共に私たち祈る者みんなが見るのです。

もう、奇跡は始まっています。



それにしても、何と多くの人々が祈りの応援をしている事でしょう。

もちろん、それは神さまの恵みであり、祝福なのだけど、

ただ、それだけではなくFさんが今まで、

如何に多くの愛を与えて来られたか?の現れでもあると思います。

誰にも知れず、コツコツと与えて来られたものが、

こんな時に、何倍かになって帰って来たとも思います。



と言う事は、日々の小さな歩みが如何に大切か知らされますね。

私が、大怪我をしたとしたら、果たして何人の方が祈って下さるでしょうか。

とっても、心もとないです。

でも、イエスさまが私のために祈って下さっています。

そこに希望があります。

「アバ父よ」と言う祈り

2015年03月17日 | 思うこと
昨日は、母を病院に迎えに行ったので、あちこちお出かけしました。

そして、帰ってから母のためにお祈りしました。

母も、お祈りしてもらうのが嬉しいらしくて、

一緒に「アーメン!」と言ってました。

それから父のためにお祈りしようと思ったら、

グッスリお昼寝していたので、部屋の前でお祈りしました。

今は、ニコニコしている父ですが、

私が小さい頃には、アル中一歩手前だったので、

いつ怒り出すか?不安で恐ろしい思いをしました。

父が暴れると、もう手がつけられませんでしたから、

私は小学生の時には、隣家に逃げ込みました^_^;

と言う、怖い父のイメージでしたので、

教会で「父なる神さま」と言われても、ピンと来ませんでした。

と言うか?父とは、厄介で怖くてなだめる人と言うイメージです。



あれから、数十年経ち今はもう随分癒されて来たらしく、

昨夜は、心の底から「アバ父よ」と言う祈りが出て来ました。

「お父ちゃん、お父ちゃん、お父ちゃん」

世界一良いお方、イエスさま!!!

アバ父よ、と祈る時に神さまに対する思いが溢れます。

我が子よ、と言って下さる神さまに祈ることができる恵み…。

感謝です( ´ ▽ ` )ノ

神さまの領域と、人の側

2015年02月10日 | 思うこと
この所、お祈りが怠慢になっています。

以前は、夜エンドレス状態だったのですが最近では30分かな?

昨日、夫に言われました。

「最近、お祈りしてる?」

「やだな~監視人みたいだ!でも、昨夜はしなかったよ。」

「やっぱりね、聞いてるんだよ~」

ってな具合です。



私の平日の信仰生活は、昼寝の時にアプリ「聞く聖書」を聞くか、

ポッドキャストでメッセージを聞くかです。

昨日聞いたメッセージは、「ヨハネの黙示録」からでしたが、

先生は、ゲストだったのでどなたか分かりませんでした。

でも、聞いている内に心が燃やされるようでとっても良かったです。

イエスさまのために苦しむ事の幸せ・・・現実には辛いでしょうが、

主の愛に満たされているならば、この上ない喜びがあるでしょう。



最近、「神さまの領域と自分の務め」について考える事があります。

神さまは、何でも出来るのですが私たちの努力を用いられます。

例えば、「必要なお金を与えて下さい!」とお祈りしますが、

寝ていて、口を開けていてもお金は降っては来ません。

お祈りして、出来る事をします。私の場合はオークションです。

でも、特殊な場合は周りの人を用いて祝福して下さいます。

普通は、私の手の業を祝福して、必要なお金を与えて下さいます。



絶対に人間の力では無理な事は、神さまの領域です。

最後には、自分の努力も神さまの恵みがあったからこそなのですが。


「神さま!あなたが全てです!祝福して下さい」とお祈りします。

そして、自分に与えられた務めをコツコツとします。

両面があると言う事ですね。


信仰の当初、これがよく分からなくて混乱しました。

自分に絶望した時に、神さまの約束に頼りながら歩み始めました。

歩んだのは私ですが、歩みを確かなものとして下さったのは神さまでした。

ですから、ただただ感謝です。