●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

与えられた使命に生きる

2016年12月08日 | 思うこと


友達から借りたDVD「祈りのちから」を観ました。

日曜日には酷く疲れていたので何気なく、

「DVDなら観れるかもしれない」と思って。

普段、アメリカのドラマを観ているので映像のクオリティとか気にしながら(笑)

でも、どんどん引き込まれていき、見終わった時には、

「わたしも祈りたい!」と思っていました。




先日の土曜日に行った、松江市民クリスマスでは、とても感動して、

「(イエスさまにお会いする)最期の時に、価値ある生き方がしたい。」と思いました。

天国で価値ある生き方です。私に与えられた使命に生きることです。

それが何かは、少しずつ分かって来ていましたが、

この映画を観て、更に確信しました。




「そう私も、祈ります!」

と思って、家の階段を登ったところで、神さまが、

「祈りが聞かれたか?分からないような祈り方をしてはいけないよ」


と言われたような気がしました。

ですから、なるべく具体的にお祈りすることにして、

「祈りのノート」を作りました。

使ってみて今後、更に進化させていきますね。

私は熱しやすくて、冷めやすいので(多くの人もそうかもしれませんね)

継続可能な、祈りの生活をしてみたいと思います。

幸い、我が家にはその見本がいますので(笑)助かります。





このようにして、キリストの日に、

わたしは自分の走ったことがむだでなく、

労したこともむだではなかったと誇ることができる。

(ピリピ人への手紙 2:16 )


無駄ではない生き方

2016年11月23日 | 思うこと



このようにして、キリストの日に、

わたしは自分の走ったことがむだでなく、

労したこともむだではなかったと誇ることができる。


(ピリピ人への手紙 2:16)




このような生き方がしたい!と、心から思います。

信仰の若い頃、かなりデタラメに走りました。

走り走り走り!自爆しました。

そんな無駄な走り方ではなく、イエスさまの恵みの中で走りたい。

それは、絶対に無駄にはならない生き方です。

そして、人間として生かされて一番の幸せでしょう。



今は、走ることが出来ないこともありますし、労することも出来ない時もしばしば…

でも、自分に与えられた恵みの範囲内で、精一杯走りたい!

私は、ゆっくり歩むよりも走る方が好きです。

今は、ゆっくりゆっくり歩んでいますが…。もう止まりそうなくらいに(笑)

でも、これもきっと無駄な時間ではなかったはずです。




かつて1ヶ月程寝込んだ時に、窓から外を見て、

「元気になったら、手足を大きく振って、大股で思いっきり歩きたい!」

と思いました。

空を見上げて、両手を振って堂々と歩いたら気持ち良いだろうな〜

そんな信仰生活を送ることが出来たら幸せです。

労したことが無駄ではない生き方!




今まで、ナント無駄な生き方をして来たんだろう。

自分の事だけに明け暮れて、自分と家族だけのために生きるとか。

イエスさまの愛の奥底から、溢れ出る恵みによって、

周りの人たちや環境に影響を与えられる者になりたい。

イエスさまの十字架の福音は、それだけの価値があるのですから。






神の御声を聞き、従うこと

2016年09月20日 | 思うこと



日曜日と月曜日に、私たちの教会で「信徒成長セミナー」がありました。

タカさん(長沢崇史牧師)の「信徒成長セミナー」です〜😊


とっても良かったです!💕

そして、本当に良かったか?問われるのは、今後の私たちの姿勢、生き方の変化…。

聞いた御声を大切に温めて行くので、実を見せて頂きたいな〜🍀


内容は、詩篇23篇からでした。

私は、「羊は羊飼いの声を聞く」って所で、

「神さまの御声を聞く!」と言うことが印象的でした。



実はその前の、日曜日の礼拝のメッセージ中(ウチの牧師のメッセージ中)に、

なんとなく神さまが語っておられる気がしたからです。

「石地に落ちた種」の所のお話しで、聖書の言葉を喜んで受けるけど、

困難や試練があると、根がないので枯れるって言う悲しいお話…😥

あ、私も神さまからの声かけを聞いているのに、

不安や動悸が来ると、すぐに諦めて投げ出すなぁ〜と思いました。

その神さまからの声は、

「あなたは弱い、弱いと言ってはならない。

神の恵みによって強くなりなさい」と言うもの。




聖書の箇所は、IIテモテ2章1節

「そこで、わたしの子よ。

あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。」


わぁ〜辛い時には、ホントに辛くて嘘じゃないけど、

聖書の言葉に信頼して、祈り!立つ!踏み出す!

なんて言う努力をしていなかったな〜😥

もし信じるなら、神さまは力を与えて下さり、従う恵みを与えて下さるのに。

この御声をしっかり聞いて、踏み出したいと思います。

夢の中の話

2016年09月19日 | 思うこと
ある日の夢です。


ある牧師先生が、

「その時私はクリスチャンではなく、キリスト教会員でした。」

とお話しされていました。

すると、私たちの教会の先生が、

「これはとても大切なところです。」

と言われました。(あくまで夢の中の事です)




すると、ずっと盲従?だったクリスチャンの女性は、

これを聞いてとても混乱しておられました。

(意味がわからなくて、困った感じ)

私は、彼女がいなくなったので、そのお話しの意味を説明するために探していました。



次の瞬間…

最近イエスさまを信じたばかりの女性が、

教会で、神社で拝むように「パンパン」と手を叩いて合掌していました。



私はもちろん違和感を感じましたが、

「この事を叱責してはいけないな。成長したら少しずつ分かることだから」

と思っていました。



本当のことを教えてあげるのは、とても大切な事ですが、愛が大事だと思いました。

私の罪を超える愛

2016年07月01日 | 思うこと





先日、ちょっと嫌な夢を見て目覚めました。

私が、責められる夢です。。。(´・ω・`)

みんなで集められ、「この事について意見を言ってください。」と言われました。

隣の人たちは、模範的な答えを言っているのに、私は違う意見を考えてました。

「私の意見が、反抗的だと思われたらどうしよう!!!( ;∀;)」

いえいえ、反抗しようなどとは全く思ってないのに。。。

と、その意見を言う前に目が覚めました。

するとすぐに、ある聖書の言葉を思い出しました。




しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(ローマ5:8)






私が罪人であった時にも、愛して下さっていた!

そして、「ここに愛がある」と。。。



わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、

わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、

御子をおつかわしになった。ここに愛がある(Ⅰヨハネ4:10)





過去には私には、酷い罪を犯した経験があります。

神様の教会を迫害したパウロさんよりも、怖い罪を犯したのです。

「反逆」「不従順」・・・これらは私を打ちのめしました。

思い出しながら「私はダメだ~(;_;)」と恐れましたが、

聖書の言葉は、そうは言ってませんでした。




私が罪人であった時に!・・・イエスさまが死んでくださった!ここに愛がある!と。

なので私は怯えながらも、心の奥深くで「感謝」を味わっていました。

それでも、私は愛されている!!!

不思議だけど、非常識(常識では考えられない)だけど、神様の愛は変わらない。

その愛で、今日も生かされている事に感謝しました。

この無限の愛を知らなかったら、自分はどうなっていたか?分からないと思います。

「自分」と言う、厄介なモノに囚われながら一生を送るなんて。。。

あ~~本当にありがたい!

そしてこの愛によって今日も生かされたいです。

それでも愛されている

2016年05月10日 | 思うこと

画像はお借りして来ました。






5月8日の日曜日の朝・・・。

夢を見ていました。。。



どんな場面かはわかりませんが、

誰かが、「あなたの信仰はダメだから、あちらに行ってなさい」と。



(私は、昔自分の信仰を全面否定された経験があります。

実際に、とても問題のある性格でしたので、無理もないと思っていました。

その時は、酷く絶望して、「神さまに見捨てられた」と思いました。

伏して泣きました、泣きました、泣きました・・・。

神さまでさえ私を救えなかったと絶望したからです。

それほど悪くてどうしようもない自分だと知ったからです。)





そして私は、とても残念ではありましたが、自分がダメだとは分かっていましたので、

違う場所に立っていました。

その時、心の中に、

「それでも、私は愛されている!」と思いました。

「それでも、私は愛されている!」

その思いが膨らんで、とても温かくて幸せな気持ちになりました。

それでも、私は愛されているんですよ~(^^♪



そこで、目が覚めたので、

「これはサタンの攻撃だから祈らなきゃ!」と思い、

半分寝たまま、お祈りと宣言をしていました。



それからやっと、目が覚めたのでさっと起き上がり、

「教会のために祈らなきゃ!!!」と思って、

しばらくお祈りしていました。

時計を見ると、5時過ぎでした。

「あ~神さまが祈らせて下さったんだな。」

と思いました。





イエスさまは、いつも共にいて必要な時にお祈りさせて下さいます。

もちろん、普通にお祈りすることがほとんどですけど。。。

キリストと共に十字架につけられた

2016年03月08日 | 思うこと
私の人生の大半は、苦しみだったように感じます。

それは、多分生まれながらの性格や家庭環境、

自分の自我の強さや、罪のせいでした。

自分の責任の部分もあるし、自分ではどうしようもない事もありました。

その自分の責任でさえ、自分ではどうしようもなかったので、

私は、ただただ苦しみました。

そして、周りの人たちをも苦しめました。

とにかく、私と私の人生は壊滅的だったのです。

立て直す事が出来ないくらいに壊れていました。

それは、クリスチャンになってからも続きました。



しかしある日…それがいつかは分からないのですが、

私は、イエスさまと共に十字架につけられたと知りました。

私と私の人生は、キリストと共に十字架につけられたのです。

それは、以前なかなか信じられない事でしたが、

今は、聖書に書いてある事が事実だと信じています。

やっと、長年の重荷から自由にされて、祝福を受ける事が出来たのです。

神さまは、ずっと祝福して下さっていたのですが、

私の側に受け取る謙遜な信仰がなかったのです。

もちろん、その信仰さえも、神さまからの賜物です。

この幸せを頂き、ただただ感謝です。

私は祝福されているんです!





私は、十字架の悲惨さを知りません。

私が知っているのは、十字架が神さまの愛の完全な現れだと言う事です。

十字架の贖いは、完全なのです。

何か足りないところなどないと知っています。

その十字架の恵みによって、私は古い自分から切り離され、

全き自由と、新しい命、新しい人生とを頂きました。

イエスさまの前に跪くことは、なんと幸せな事でしょう。

イエスさまを礼拝する事は、人間に与えられた本分なのです。




わたしはキリストと共に十字架につけられた。

生きているのは、もはや、わたしではない。

キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

(ガラテヤ人への手紙 2:19~20 )

子犬でもパンくずはいただきます。

2016年03月01日 | 思うこと







(マルコ7:28)

すると女は答えて言った、

「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる

小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。






以前、私が教会にも行けず、一人で孤独になっていた時に、

私が、イエスさまの前に出る拠り所は、このみ言葉でした。



私は、クリスチャンとも言えない、相応しくない人間だ。。。

私は、特別にダメな人間で、神さまだって救いようがない。。。

私には、もうさすがの神さまも救いの手は下さらない。。。



そう本気で思っていましたが、何としても憐みが欲しかったんです。

それでも尚、神さまの憐みなくして生きていけないと思いました。

そんな時に、心に浮かんだみ言葉は、

「子犬でも、パンくずはいただきます」と言う、この女の信仰の言葉でした。




「そうです、イエスさま。私は相応しくないけど、憐れんでください!」

「食卓から落ちたパンくずで結構ですので、私に憐みをかけて下さい!」

と叫びにも似た、祈りをしていました。




その時が、いつだったか?どんな場面だったか?覚えていませんが、

そののちに、神さまは本当に憐れんで下さり、教会に帰る道を備えて下さいました。

それは、いくつもの偶然?必然?があった不思議な導きでした。

「あ~~イエスさまは、本当にこの祈りに答えて下さったんだ!」

と、今もこのみ言葉を見る度に感謝が沸き上がります。

そして、このへりくだった信仰こそ、

神さまが私に求めていらっしゃったものだと知りました。

恐怖との戦い

2016年02月09日 | 思うこと
 「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。

あなたがわたしと共におられるからです」

(詩篇 23:4 口語訳 '55)





恐怖と戦う時には、この御言葉を告白しています。

死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません!

災いを恐れません!

災いを恐れません!

恐怖は、どこから来るのかわからない事も多いです。

必ずしも、実際に起こっている出来事ではないかもしれないからです。

ですが、神さまはいつでも助ける事が出来ます。

この聖書の言葉は、まるで命綱のような物です。



どこから来たのかわからない恐怖を信じるか?

神さまの言葉を信じるか?

ここに戦いがあります!

いつでも神さまは、最善をなさる良いお方です。

隠れた事を

2016年01月19日 | 思うこと


私は、人に誤解されたり、人に理解されない事がとても悔しい性質でした。

ドラマでも誤解を受けたまま、死んでしまった話しや、

誤解されたまま、投獄された話しになると悔しくてたまりませんでした。

ドラマを観ていてもそうですから、まして自分が誤解を受けた時などは、

声を大にして思いっきり!弁明したものです。



また、自分のした事が誰にも評価されない事も腹立たしく思うタイプでした。

実力もないのに、人の上に立つのも好きな方でしたし、

自分に自信がないので、自慢もよくしていました。



ですが、最近ふと気付いた事は、

「私の事や、私のした事が誰にも評価されなくてもいいや」

と、自然に思っている事です。

もし誰にも知られずひっそりと生きて、ひっそりと死んでもいいな…。

もし今、ちょっとでも何か出来ているとしたら、それは神さまの恵み。

そして誰からも感謝されなくても私は幸せだと。



もちろん根底には、イエスさまが全てを知っておられるから。

と言う事があるのですが、

それよりも強く思うようになったのは、イエスさまの愛の中にいるなら、

他のモノは、いらないなって事でしょうか。

人からの賞賛も、人からの感謝も、認められることも…。

人気のない谷底で咲く一輪の花のように、ただひっそりと咲くのもいいな。

私の目の前にイエスさまが居て下さっているなら、

そこが私の最高の場所だと思えます。

神さまは、隠れた事と隠れた場所を喜んで下さいます。

ちょっとだけ、ホントのクリスチャンになったらしいです。




「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、

戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。

すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

(マタイによる福音書 6:6)