●○-風吹く街で-○●

簸川平野のど真ん中「風吹く街で...」
恵みに生かされてるクリスチャンぴーちの日記です。

人が変えられる時(十字架の恵み)

2015年10月24日 | 思うこと
今朝は、夫が朝から仕事で美保関まで行くらしいので、

恒例のモーニングはお休みです。

昨夜も、のんびりしていたらお客様から電話が・・・。

事故でした( ̄○ ̄;)!

即、出かけて行き帰って来たのは9時頃でした。

「夫の仕事は大変だなぁ~」と思う今日この頃です。

営業もさることながら、事故は利害関係が絡むので、人柄がもろに出ます。



あのとっても親切そうで、優しそうな方が、怒るの?って事や、

ネチネチと苦情を重ねて来る人。。。

無理難題を押し通そうとする人などいろいろです。

あ、以前は怪我をでっちあげる人もいたなぁ~(^_^;)コレハロンガイ



5年くらい前まで、夫はそんな案件を抱えると機嫌が悪かったです。

そして、家族に当たる?っぽい事もありました。

また、会社の人にはキツイ口調なども。。。イライラシテル

私は、今誰に電話しているのか良く分かるくらいでした。



ところが、いろんな試練を通して神さまにより信頼するようになったらしいです。

その頃から、夫はどんな案件でも相手が誰でも苛立たなくなりました。

機嫌が悪くなるような事もなくなりました。

「あれ~~~?これって神さま?」と思いました。

それ以来、ちょっとした事でもカッ!となりやすかった夫が、

全く!私たちに当たらなくなりました。

それからもう3年以上経ってますが、いつも平常心なようです。



本人に聞くと、

「いろんな試練を通して、より神さまに対する確信が深められて来たような気がするよ」

「以前は、とても恐れが強かったけど、平安が増し加わったようだよ」

「人は、なかなか変わらないけど、神さまは変えて下さるね~」

と言ってました。そして、

「(変えられるには)何もしなくていいんだよ、ただイエスさまの前に正直に出て信頼すればいいよ」

なるほど。。。神さまに信頼するが「信仰」だよね。

「ただ、謙遜である事だよね。謙遜ならきっとイエスさまの恵みがいっぱい入って来るよ」

そうだね~~~。




ただ、私はその「謙遜」が全くなくて、いつも「高ぶっている」って注意を受けました。

自分でも自分の中に「高ぶり」があるのは分かっていましたが、

全く!それを直す事が出来なくて、苦しみ苦しみ・・・もがき苦しみ。。。

自分で出来る限りの謙遜を頑張りました。何度も何度も。

そして、疲れ果てて最後に諦めました。



その時、ハタとこんな高ぶった私の罪のためにイエスさまは命を捨てて下さったんだ!

と、やっとイエスさまの十字架の本当の意味が分かりました。

イエスさま、ありがとう!ありがとう!




それ以来、高ぶりから自由になって少しづつ謙遜とは何か教えられて来ました。

いえいえ、全く高ぶらなくなったとか、私が謙遜だと言う意味ではないですよ。

究極の謙遜(神さまレベルの)は、イエスさまの十字架で、

私が変えられて行くには、その謙遜を日々頂くしかないと分かっただけです。